個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

役君小角流于伊豆嶋初小角住於葛木山以呪術称外従五位下韓国連広足師焉後害其能讒以妖惑故配遠処世相伝云小角能役使鬼神汲水採薪若不用命即以呪縛之。

 続日本紀文武天皇三年(699)5月24日。いわゆる役行者(えんのぎょうじゃ)、小角が伊豆嶋へ配流される。
 この段落で出てくるのが外従五位下の韓国連広足である。役行者は韓国連広足の師であるとされている。
 こうやって見ると韓国連広足も犯罪者か何かのように見えるのだが、30年後の天平三年(731)正月27日に正六位上から外従五位下に昇進し、翌年10月17日に典薬頭に任じられている。
 つまり、韓国連広足は官属の医療技術者だったのである。文武天皇三年の記述で外従五位下とされていたのはその時外従五位下だったのではなく、外従五位下が広足の到達した最後の官だったということだろう。
 現在のところ典薬頭という言葉の初出が韓国連広足の記載なので、韓国連広足が初の典薬頭ということになっている。

 韓国連広足の記述を他に探すと、『藤氏家伝』の下巻、『藤原武智麿伝』に残されている。
 『藤氏家伝』は天平宝字四年(760年)に成立した。著・編者は僧延慶。
 この『藤原武智麿伝』に当代の名人が列挙されているのだが、その中で

 咒禁有余仁軍 韓國連廣足等

 とされているのだ。
 この韓國連廣足と共に並べられている余仁軍(よにぐん、よじんぐん)というのは続日本紀では養老七年(723)正月10日に正六位上を与えられている。
 また、親戚であろう余秦勝(よのはたかつ)は養老五年正月27日に陰陽に優れているとされ褒賞されている。
 余姓もまた百済と関連が深い。百済は国号を「南扶余」と自称していたこともあり、余は百済からの亡命人が付ける姓であった。
 この余(よ)なのだがいつの頃からか「あぐり」と読むようになっている。
 韓國連は廣足を除きそれほど有名ではないのだが、余姓を持った人物の子孫はその後も日本の歴史で活躍し「百済朝臣(くだらのあそみ)」の姓を受けている。

辛国連

 養老律令、僧尼令の第二条は
僧尼令 2 ト相吉凶条 凡僧尼。ト相吉凶。及小道巫術療病者。皆還俗。其依仏法。持呪救疾。不在禁限。
 となっているが、最後の方にある「持呪」について令集解では「古記云。持呪謂経之呪也。道術符禁。謂道士法也。今辛国連行是」となっている。
 「古記」とは大宝令の私撰注釈書であり、大宝律令自体は大宝元年(701年)に施行されているが、古記は天平10年(738)ごろの成立とされる。
 「持呪とは道術符禁、いわゆる道士の法で、現在辛国連が行っている」ということで、時代的に見ても上記の話と一致する。

 なお、韓国連はその後韓国連から物部韓国連へ、さらに物部韓国連から高原連へと姓を変えていく。物部とは当時の大集団である物部氏にあやかったものであり、高原とは完全に日本風の姓である。どうやら彼らは新たにやってきた渡来人と区別して欲しいため日本人風の姓に変えていったようである。となると、韓国連の信仰も道教系を捨てて神道系もしくは仏教系へ切り替わっていった可能性が高い。

吉田連宜

 当時の医療長官とも呼べる典薬頭は必ず咒禁師系だったのかというと、韓国連広足の後に典薬頭となった吉田連宜(よしだむらじよろし)を見てみよう。
 吉田連宜の記述は続日本紀にそこそこあって、元々は吉宜(きちのよろし)と書かれていた。
 文武天皇四年(700)のこと、僧恵俊を還俗させ吉の姓と宜の名を与えた。技芸に優れているためとされているが、この時点ではまだ何の技芸かは書かれていない。
 養老五年(721)正月27日に医学に優れているとして褒賞を受けている。ここで初めて医学に優れていたため還俗させられたと分かるのだ。
 そして神亀元年(724)5月13日に吉田連という氏姓を授かっている。つまりこれ以前は吉宜、これ以降は吉田連宜と書かれているのである。
 その後、天平二年(730)三月二十七日には陰陽、医学、七曜、頒暦等を教える側として選出されている。
 韓国連広足の次の典薬頭に任命されたのは天平十年(738)閏七月七日。韓国連広足が典薬頭になった年から七年後のことである。この時は正五位下であった。
 同じように医学に優れているとされた呉粛胡明(ごしゅくこめい)は神亀元年の同日に御立連(みたちのむらじ)を受けており、この人物は天平二年に教授として選出された御立連清道(みたちのむらじきよみち)と同一人物であると思われる。

 この吉田連宜であるが、続日本紀のみならず万葉集にも名を残している。
 太宰府にいる大伴旅人に送った歌なのだが、

 於久礼為天 那我古飛世殊波 弥曽能不乃 于梅能波奈尓<忘> 奈良麻之母能乎
 後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを

 というもので、この御園生(みその)とは典薬寮が管理している薬園のことである。
 この歌は天平二年七月十日とあり、ちょうど吉田連宜が教授側として選出されて以降のことであった。
 続日本紀の記述やこういった歌から見て、吉田連宜は咒禁師系ではなく医師系の人物であったことが分かる。

 さて、吉田連宜や御立連清道が選ばれたこの天平二年における教授選出の記述が当時の律令制と現実を俯瞰する上で大きなヒントになってくるのである。
 上述のように続日本紀では技術者に何度か褒賞が与えられていることが確認できるのだが、この後の褒賞でも按摩、咒禁博士は外されていることが多い。
 従来、これは按摩、咒禁が医や針と比べて一段低く見られていたためとされていたが、そもそも配当されていなかった可能性がある。
 「第四章 官制としての咒禁師」で見たが、職員の配置や育成は唐令と同じである。だが、この小さな国家で唐のような大帝国と同じような運営をするのは無理があったと私は考えている。
 天平二年の時に問題となったのが、諸博士が皆高齢なのに後進が育っていないことである。そのため英才を五人から十人選び、陰陽・医療には3、七曜・頒暦に2を回そうと記してある。
 医療の根本となる医博士でこのザマなのだから、とても針、按摩、咒禁の各博士まで手が回っていたとは思えない。

 八世紀半ばのこの段階で令に記された員が特に咒禁のような特殊な領域では充足しておらず、褒賞で外されたのではなくそもそも存在しなかったのだ、という判断を私は下しておく。
 この当時律令で定められた令員が充足していたのか、それとも褒賞で外されただけなのかは、白鳳期や天平期の律令体制を研究されておられる方々のご意見をお聞きしたい。このページもコメント可にしておく。





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