個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

ルイス・デ・アルメイダ


ルイス・デ・アルメイダ。商人からイエズス会士にクラスチェンジした不思議な人物です。
1525年リスボン生まれ。1548年3月23歳の時にリスボンからゴアに向かいます。同年秋にはゴアに到達。1555年平戸到達。修道士となったのは翌1556年のようです。
彼は、なんといっても医学に長けていました。当時、イエズス会はその教会よりもむしろ豊後に建てた病院によって五畿内に知れ渡っていました。その病院で腕を振るっていたのがアルメイダなのです。病院は1557年に府内教会の既存の建物を転用したものです。この、府内教会については次項で説明します。
医者としては外科。面白いことに内科医は日本人のパウロ(日本名キョウゼン)修道士で、薬は彼が作っていたことから大半が漢方薬。ポルトガル宣教師もまた漢方を学んだといいます。

後年イエズス会は司祭や修道士が医者として働くことを禁止しました。このためアルメイダは在昌の妻の容体を見に行くことはできなかったのですが、彼が行える最大の行為、薬を与えるという形で在昌を助けたのです。上述の通り、この薬はパウロ修道士のレシピによる漢方薬の可能性が高いと思われます。ただ、パウロ修道士は弘治三年(1557年)三月に亡くなっているので、パウロ修道士の作った薬ではないでしょう。

堀江の夜(妄想編)

 フロイスは、興奮した在昌がバテレンの元から帰らなかったと書き残しています。
 さて、ここからは私の妄想なのですが、在昌はアルメイダと熱心に話し、フロイスとはあまり会話しなかったのではないかと考えています。
 アルメイダは商人にして医師です。それに対し、フロイスは文系なのです。天文学者たる在昌は当然天文学について聞くでしょうし、アルメイダは元商人ということで航海に必要な天文学の面に強く在昌の質問に答えられるでしょうが、フロイスはそうではなかったと思われます。
 フロイスの在昌に対する激賞はこのあたりが原因ではないでしょうか?つまりフロイスにしてみれば在昌は自分の不得手な分野である天文学について知り尽くした極めて稀な日本人であり、当然高貴な公家というわけです。

 なお、逆に当時の天文学を極めきったイエズス会士も存在します。ですが、私の調べた限りでは在昌との接点は全くありませんでした。
 後に詳述しますが、そのイエズス会士の名はペドロ・ゴメス。
 もし在昌がこの人物に出会っていれば……在昌は棄教していなかったかもしれません。

 当時の陰陽道の天文は「テンブン」と読んでいたようです。戦国時代の宣教師で通訳として名高いロドリゲス・ツヅ(1561〜1633)の資料によると、易は「Yeky」、暦は「Reky」、天文学士は「Tembun Gacuji」とされています。

ジョアン・ロドリゲス・ツーズ


 このツヅというのは名前ではなくて、当時通訳のことを通事(つづ)と言っていたため、同じロドリゲスという宣教師と区別するためそのままあだ名のようになったものです。
 今野真二『戦国の日本語』によりますと、ロドリゲス・ツヅ(『戦国の日本語』ではツーズ表記)はポルトガル北部セルナンセーリェ出身とのことです。
 ロドリゲスは徳川家康のみならず豊臣秀吉の知遇も得ていました。時期的には在昌が陰陽師として豊臣秀吉に接している頃ですが、在昌と直接の関連はないと思います。

もうひとりのアルメイダ

 同時代にまんま同じ名前のルイス・デ・アルメイダという船長がおり、修道士となったアルメイダも商人時代に一時船長を行っていたことがあるため、大変ややこしいことになっています。

ヨハン・デ・トルレス

 この夜に係る人物として、もう一人紹介しておきたいのです。
 ヨハンという名前を見るとヨーロッパ人のように思えますが、れっきとした日本人です。
 フロイス一行には同宿(ドウジク)と呼ばれる日本イエズス会の見習日本人少年が通訳等のために数名随行していました。その同宿の一人がヨハン・デ・トルレスなのです。

 この同宿という制度、実はイエズス会のものではなく、仏教由来のものです。フロイスたちも本国に同宿のことを説明するのに苦労しています。

 数奇な運命ですが、ヨハンもまた在昌と同じく山口の生まれなのです。
 トルレスという名前は日本布教長コスメ・デ・トルレスから与えられた名前です。ヨハンと名乗るようになるこの日本人少年は山口が戦乱に襲われたときトルレスによって匿われたため奇跡的に生き延びることができました。キリスト教徒に改名するに際し、当然命を助けてくれたトルレスの名前を受け継いだのです。
 もしかすると、アルメイダの薬を在昌の元へ持って行った同宿とは彼だったかもしれません。

コスメ・デ・トルレス

 ヨハンに名前を与えた日本布教長コスメ・デ・トルレスはスペインにあるバレンシアの生まれです。
 なんとこのコスメ・デ・トルレス、メキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)から太平洋経由でインドネシアのアンボイナ島に渡っています。我々の頭の中で宣教師と言えば「喜望峰を回ってゴアに行ってマカオから日本」というルートしか考えられないのですが、中にはこういう人物もいたということを覚えておいてください。トルレスは紆余曲折の末インドのゴアへとたどり着き、ザビエルに感銘を受けて日本を目指すのです。
 調査した限りにおいてコスメ・デ・トルレスと在昌が出会った可能性はほとんどありません。ですが、在昌の師であるヴィレラを京都へ派遣し、ヨハン・デ・トルレスを救った彼は、在昌の人生に大きな影響を与えた人物だと言えるでしょう。

陶隆房の乱

 ヨハンがトルレスに匿われた戦乱とは、天文二十年(1551年)に発生した陶隆房の乱です。先にも述べましたがこの一件は勘解由小路家にも大きな影響をもたらしました。
 勘解由小路家の後援者であった大内家の当主大内義隆が息子とともに自刃。大友義鎮の弟八郎晴英が大内家の家督を相続することになります。これにより勘解由小路家は北九州や山口にあった所領を喪失してしまいました。
 当時の山口は日明勘合貿易によって潤う日本有数の都市であったことを忘れてはならないでしょう。京都から困窮した公家がやってくる落ち延び先だったのです。丁度この時京都からやってきていた公家のうちの何人かは巻き添えを喰らって殺されてしまいました。

 このヨハン・デ・トルレスは後にフランシスコ・カブラルの通訳となります。カブラルが唯一認めた日本人とも言われています。また、後の秀吉九州制圧に際し、燃え落ちた豊後府内教会の焼け跡を黒田官兵衛とともに見回りに来たのも彼でした。カブラルと府内教会については、別のページで解説していきます。




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