個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

当時の医療


 前章「渡来人と『咒禁』」で見たとおり、医術の達人と呼ばれた吉田連宜は恵俊と呼ばれる僧であった。
 そして前節で示したが、隋唐と異なり日本では仏教僧が神咒や湯藥によって治療を行うことが許されていた。
 現在の葬式仏教しか知らない我々にとってはかなり理解しがたいのだが、この当時医者と僧侶というのは切っても切れない関係だったのである。この当時と言ったが、実はかなり後世まで医者は僧形なのだ。
 仏教僧が医薬に長け、しかも霊的治療である祈祷まで行うとすれば、一体誰が迷惑を蒙るのか。
 典薬寮の人間である。

看護禅師(看病禅師)


 金光最勝王経の除病品や鑑真がもたらした四分律など、もともと仏教の経典には養生法が書かれたものが多い。
 特に律に関するものは熟睡の効用をうたうものや「病の治療には薬と看病、食事が大事」と解説するものなどがあり、知識としては現在の治療と変わらない。
 なぜこんなに仏教で医術が盛んなのかというと、仏教の補助学問に五明と呼ばれるものがあり、医術は医方明として取り入れられていたからである。
 特に日本の上層階級は僧医、看病僧の厄介になることが多かったと言われている。
 
 『続日本紀』では、聖武天皇の看病は禅師の法栄のみが行っていたという。
 他にも東大寺別当の良弁や、興福寺大徳・慈訓を含む数多くの禅師が祈りを捧げていたと記されている。
 良弁や慈訓は祈祷のみであったようだが、法栄はむしろ医薬の面で聖武天皇に仕えていた。
 こうして禅師という言葉が看病をする僧侶の意味を持つようになり、先述の禅那を専門とする本来の禅師と区別するため、「看護禅師」という言葉が現れてくるのである。

 当時の有名な医僧として、上述の良弁、玄ボウ(日+方)、そして道鏡が挙げられる。この三人は全て法相宗の僧、義淵の門下生である。
 義淵は聖明王の後裔とされる。つまり渡来系なのだ。
 義淵自身は看病僧ではなかったようだが、門下生が優秀な看病僧であることからそちら方面にも詳しかったに違いない。

 それでは、この三人の僧侶について少し解説しておこう。

良弁

 読み方は「りょうべん」「ろうべん」とも。
 幼少時に法相宗である義淵門下に入るも、後年華厳宗の奥義を窮めた。日本華厳の第二祖とされている。
 義淵の教えを受けた後東大寺の前身である金鐘寺に入る。東大寺大仏鋳造の中心的人物となり、東大寺建立四聖の一人とされている。
 聖武天皇の看病の功により天平勝宝八年に大僧都となる。

玄ボウ(日方)

 玄ボウは師である義淵と同じ阿刀氏出身。行基や良弁と同じ義淵七上足の一人とされる。聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させたことにより恩典を賜るも、最終的には左遷されて筑紫の地に飛ばされた。
 玄ボウは18年の長きに渡り唐で法相宗の研究を行い、玄宗皇帝に重く用いられるまでになっている。
 法相宗というのは支那起源の学派で、「十人十色」「人によって受け取り方が違う」ことを主張する。「能力に応じて教えに差がある」という考え方は支配者層によって都合が良かった。この現実的な法相宗の思想は後に「差はない」とする理想主義的な最澄の天台宗と大きな争いになっていく。
 聖武天皇の天平七年に帰朝した玄ボウはその長きにわたる研究と玄宗皇帝との関係を高く評価され、僧正の位を得て宮中の道場に入る。
 彼が聖武天皇の母藤原宮子の病気を回復させたのは天平九年(737)12月である。宮子は聖武天皇がものごころつく前に心身を喪失したようなのだが、玄ボウが皇后宮で看護するとたちまち回復。はじめて母子は対面することができたという。藤原宮子を回復させた手段は、医薬によるものではなくどうやら祈祷によるものらしい。
 この時、聖武天皇は実に三十七歳であった。感動もひとしおであっただろう。
 この一件の後、玄ボウは同じ船で入唐していた吉備真備と共に政治に深くかかわっていく。そのため二人して藤原広嗣を含む政府要人から反感を買うこととなった。ただし左遷されたのは藤原広嗣の乱の後、天平十七年(745)のことである。

 Wikipediaには書いていなかったのだが、玄ボウが左遷されたとき行基が大僧正、僧正である玄ボウより上の位になっている。
 入唐時や宮中での華やかな玄ボウの功績に対して行基はあくまで民衆と共に多くの道場を作った。聖武天皇は母を助けてくれた恩人であるが政治家として精力的に働く玄ボウよりも、行基の中に聖なる存在を見出したのだろう。

 聖武天皇の母の看護の件が大きく取り上げられるものの、それ以外に医僧としてのエピソードは無い。むしろ法相宗の第四伝、政治に大きくかかわった僧侶、藤原広嗣の怨霊によって祟られた人物として扱われている。

道鏡

 道鏡と言えば宇佐八幡に関する皇位簒奪事件なのだが、この項ではその件は省く。あくまで看護禅師としての道鏡を中心として語る。

 天平宝字5年(761年)、孝謙上皇は病に倒れる。これを祈祷によって治したのが道鏡である。
 孝謙上皇が病に倒れたのは近江保良宮に行幸した時のことであるが、それ以降も道鏡はしばしば孝謙上皇の看護をしていたようである。
 彼は祈祷だけではなく看病、湯薬にも詳しいとされている。それどころか禅行をよく行い、サンスクリット語まで通じていたという。
 この禅行から平城京の内道場に迎え入れられ、道鏡は禅師となった。
 ただ、法相宗は基本的に教学であり禅行をさほど重視しない。どうやら道鏡は葛城山で禅行をしていたらしい。しかも彼が扱った経典には法相宗とは何の関係もない初期密教系や護国的な経典が多い。まさに「妖僧」という言葉がぴったりと当てはまる不思議な人物である。

看護禅師の活躍とその末路

 前節のとおり、道術が禁止されているのに対し仏教僧は祈祷も湯薬も使用が許されている。
 薬にも祈祷にも詳しい看護禅師たちの活躍により、道教由来の咒禁師はお役御免になったのである。
 そもそも、看護禅師たちは唐帰りで最新の医療知識を持ち帰っていた。それに対し咒禁師は唐に留学するわけではなく、また朝廷がとりたてて誰かに命じて咒禁を学ばせに行かせた様子もない。
 仏教僧は仏教を学ぶついでに医学を学んで帰ってきたのだ。対して道教を学びに行くことはなかったので、ついでに咒禁を学んで帰ってくるということはありえなかったのである。咒禁を司っていたのが渡来系とはいえ、新しい知識を手に入れることはできず祖先伝来の知識しか持っていない彼らでは太刀打ちできなくなっていっただろう。

 こういった看護禅師による治療は奈良時代を通して行われた。
 平安時代に入ると看護僧は没落し、典薬寮が拡充され宮廷医が伸長するようになる。これは、平安時代になって天皇家が仏教界と距離を置いたことが原因であろう。玄ボウ、道鏡といった看護僧が政治に深くかかわっていたことも大きい。
 典薬寮から権能を奪った看護僧が再び典薬寮に権能を奪われる。まさに因果は巡るといった感じである。





Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます