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arahito_tajima 2012年05月28日(月) 00:15:18履歴
古代史に関して多くの記述のあるlivius(http://www.livius.org/)にカルマニアのことが載っていたので、翻訳してみる。
カルマニア(古代ペルシアのカルマナー):ペルシア中心部とゲドロシアの間にあった古代イランの一地方名
現在は“虚無の砂漠”ルート砂漠として知られている北部は極端に貧しい。一方、ギリシア人は南半分がとても豊かだと見なしていた。すぐにそれは分かる。ヒュクタニス川は金を有し、銀の鉱脈があったからだ。
ギリシア人はそのもっとも重要な都市をハルモジアと呼んでいた。そのペルシア名は超越神アフラマズダの名を含んでいただろう。現在、この町はホルムズとして知られているが、その真の名前はミーナーブである。
カルマニアはアケメネス帝国の一部だった。その領地はおそらくキュロス大王によって征服された。キュロスはアケメネス帝国の創始者で、BC559-530の間支配していた。しかし、古代ペルシアの領地表はカルマニアを無視している。ダリウス1世のベヒストゥーン磨崖碑と彼の息子であるクセルクセスのダイバ磨崖碑はペルシアの支配者によって治められた領地の長いリストを含んでいるが、カルマニアは記述されていない。これはその監督権がゲドロシアのサトラップに属していたか、ペルシアの一部であるとみなされていたことを示唆する。
カルマニアが初めて記述されたのはDSzとして知られるスーサ出土文書である。ヤカーの木(たぶんチークの木)の輸出元としてであった。ペルセポリス文書(タブレット)から、カルマニアを任された最初の管理者の名前を知った。カルキスである。(彼はサトラップと呼ばれていない。)同様に、ペルセポリスの書庫から、王の道(訳注:ペルシア帝国中に張り巡らされた官制道路)がカルマニアを通っていたことが明らかになっている。
前五世紀後期もしくは前四世紀の初期のはっきりわからない時期に、カルマニアはサトラップ支配地の指定を受けた。それが分かるのは、マケドニア王であるアレクサンドロス大王が旧サトラップのアスタペスを再任し、後になって彼がその地を通過したときアスタペスを殺害して速やかによりよい後継者であるシビュルティウスやトレポレモス(BC325/324の冬)を選んだからだ。カルマニアにとどまっている間、アレクサンドロスは退役軍人のために街を建設した。この街もまたアレクサンドリアと呼ばれている。(この街は現在のゴラシュケードであると比定されているが、すべての学者が認めているわけでは無い)。
アレクサンドロスは東からカルマニアに辿り着いた。彼とその部下はゲドロシアの砂漠を通過し、何人もの命が奪われた。マケドニア兵が南カルマニアに辿り着いたとき、彼らは再び食料を見つけた(「オリーブを除いてすべての作物が豊かに実っている」とアレクサンドロスの提督であるネアルコスが記述している)。結果としてギリシアとローマの地理学者はカルマニアを(誇張ではあるが)とても豊かな地だと記述している。
アレクサンドロスの死後、カルマニアはセレウコス朝の一部となった。しかし前二世紀の半ば、その地はパルティアによって支配されている。前三世紀の前四半世紀に、その帝国は滅びた。前224年以降、ペルシア人は新しい帝国を築いた。カルマニアの首都はヴェー・アルダシールに移された。その新しい都市は塩に満ちたルート砂漠と西部山脈の間にあり、現在はケルマーンとして知られている。
ペルシアの王たちはゾロアスター教徒であった。すなわち、彼らはアフラマズダを信仰していた。彼らの聖所の一つはバムであった。死体はその檀上で儀式的に晒される。これら「沈黙の塔」の遺跡はいまだに見ることができる。最初のキリスト教司教が七世紀の半ばに記録しているが、その直前か直後にイスラム教徒がこれを接収した。
カルマニア(古代ペルシアのカルマナー):ペルシア中心部とゲドロシアの間にあった古代イランの一地方名
現在は“虚無の砂漠”ルート砂漠として知られている北部は極端に貧しい。一方、ギリシア人は南半分がとても豊かだと見なしていた。すぐにそれは分かる。ヒュクタニス川は金を有し、銀の鉱脈があったからだ。
ギリシア人はそのもっとも重要な都市をハルモジアと呼んでいた。そのペルシア名は超越神アフラマズダの名を含んでいただろう。現在、この町はホルムズとして知られているが、その真の名前はミーナーブである。
カルマニアはアケメネス帝国の一部だった。その領地はおそらくキュロス大王によって征服された。キュロスはアケメネス帝国の創始者で、BC559-530の間支配していた。しかし、古代ペルシアの領地表はカルマニアを無視している。ダリウス1世のベヒストゥーン磨崖碑と彼の息子であるクセルクセスのダイバ磨崖碑はペルシアの支配者によって治められた領地の長いリストを含んでいるが、カルマニアは記述されていない。これはその監督権がゲドロシアのサトラップに属していたか、ペルシアの一部であるとみなされていたことを示唆する。
カルマニアが初めて記述されたのはDSzとして知られるスーサ出土文書である。ヤカーの木(たぶんチークの木)の輸出元としてであった。ペルセポリス文書(タブレット)から、カルマニアを任された最初の管理者の名前を知った。カルキスである。(彼はサトラップと呼ばれていない。)同様に、ペルセポリスの書庫から、王の道(訳注:ペルシア帝国中に張り巡らされた官制道路)がカルマニアを通っていたことが明らかになっている。
前五世紀後期もしくは前四世紀の初期のはっきりわからない時期に、カルマニアはサトラップ支配地の指定を受けた。それが分かるのは、マケドニア王であるアレクサンドロス大王が旧サトラップのアスタペスを再任し、後になって彼がその地を通過したときアスタペスを殺害して速やかによりよい後継者であるシビュルティウスやトレポレモス(BC325/324の冬)を選んだからだ。カルマニアにとどまっている間、アレクサンドロスは退役軍人のために街を建設した。この街もまたアレクサンドリアと呼ばれている。(この街は現在のゴラシュケードであると比定されているが、すべての学者が認めているわけでは無い)。
アレクサンドロスは東からカルマニアに辿り着いた。彼とその部下はゲドロシアの砂漠を通過し、何人もの命が奪われた。マケドニア兵が南カルマニアに辿り着いたとき、彼らは再び食料を見つけた(「オリーブを除いてすべての作物が豊かに実っている」とアレクサンドロスの提督であるネアルコスが記述している)。結果としてギリシアとローマの地理学者はカルマニアを(誇張ではあるが)とても豊かな地だと記述している。
アレクサンドロスの死後、カルマニアはセレウコス朝の一部となった。しかし前二世紀の半ば、その地はパルティアによって支配されている。前三世紀の前四半世紀に、その帝国は滅びた。前224年以降、ペルシア人は新しい帝国を築いた。カルマニアの首都はヴェー・アルダシールに移された。その新しい都市は塩に満ちたルート砂漠と西部山脈の間にあり、現在はケルマーンとして知られている。
ペルシアの王たちはゾロアスター教徒であった。すなわち、彼らはアフラマズダを信仰していた。彼らの聖所の一つはバムであった。死体はその檀上で儀式的に晒される。これら「沈黙の塔」の遺跡はいまだに見ることができる。最初のキリスト教司教が七世紀の半ばに記録しているが、その直前か直後にイスラム教徒がこれを接収した。
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