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 後に(1994)ノーベル文学賞を受賞することになる小説家・大江健三郎が『世界』1973年5月号に発表した随筆。
 ウルトラマンと銘打っているが、文中ではウルトラシリーズのみならず「怪獣映画」全般(TVシリーズを含む)について批評しており、怪獣名を列挙した箇所には東宝怪獣であるゴジラ等の他に、『仮面ライダー』の怪人であるギルガラスやカニバブラーの名前も見える。従って怪獣映画というより、特撮番組批判と呼んだ方が近い。
 当時、子供番組の趨勢はウルトラマンなどの巨大シリーズものよりも仮面ライダー・人造人間キカイダーといった等身大のヒーローに移っていたが、このいわゆる「変身ブーム」は「第二次怪獣ブーム」と呼ばれており、当時の大人たちによってはあまり区別されていなかったようである。

 『破壊者ウルトラマン』の内容は端的にバッシングと言って差し支えないものであり、要約すれば「怪獣映画はウルトラマンのような『超科学スター』を無批判に聖化しており、科学の悪はせいぜい敵の『気狂い科学者』にひっかぶせられるのみで、ヒーロー側に関係する科学の負の側面にまったく触れていない。このような番組にうつつを抜かす子供たちは、将来の科学の惨禍に立ち向かえなくなってしまう。ウルトラマンは子供たちの理性とリアリズムを破壊している!」というものである。
 この論旨からだけでも危ぶまれるように、著者・大江氏はおよそまともに怪獣映画を視聴しているとは思われない。
 数か所を例示する。たとえば次のような箇所は信用しがたい。

僕は怪獣映画のフィルムが進行しているブラウン管の前に自分と並んで坐っている幼児たちの顔をいくたび覗きこんだことだったろう。この破壊された大都市の再建をどうすればいいのかと、幼児もまた心を痛めているのではないかと疑って。しかし、おそらくは当然のことながら、幼児たちはそういうことを気にかけていはしなかった。東京タワーがいくたび破壊され、東京港の巨大なビルディングが叩き倒され、江東区の民家が踏みにじられても、幼児たちは無感動だった。やがてウルトラマンが怪獣をねじ伏せ、そいつを緑色のドロドロのかたまりに変えてしまうのだから。
 
 「僕は(略)幼児たちの顔をいくたび覗きこんだことだったろう。(略)幼児もまた心を痛めているのではないかと疑って」などはあまりに芝居がかりすぎていて、現代のSNSにおける嘘松を彷彿とさせ微笑ましい。
 しかしそもそも「緑色のドロドロのかたまり」になるなどというのは、決して怪獣・怪人たちのメジャーな最期ではない。むしろどの怪獣の死に方を見てそんなことを思ったのか分からないレベルである。実際には御存知の通り、特撮番組の怪獣・怪人はヒーローの必殺技を喰らって爆発することが多い。カメレキングなど文中に登場する怪獣も多くがそうである。

(爆発する古代超獣カメレキング――『ウルトラマンA』)

 上記カメレキングの名前は、本評論では次の怪獣名が列挙された箇所にだけ登場する。
アリブンタは、ドラゴリーは、カメレキングは、ガランは、泡怪人カニバブラーは、鳥人ギルガラス、そしてすでに古典となっているゴジラ、ラドン、アンギラスは……
 何も知らない人がこの列挙を見れば、怪獣に詳しそうだと思うかもしれない。
 が、最初の4頭はすべて『ウルトラマンA』に登場し、続くカニバブラーとギルガラスは『仮面ライダー』の怪人、ゴジラ以降は東宝映画の怪獣である。つまり「古典」の3頭以外は2番組しか挙げていないのだ。しかも両番組の代表的な敵というわけでもない、微妙というかランダムとしか思えないチョイスである。彼らには悪いが、ちゃんと通して視聴した者が真っ先に思い出して挙げる名前ではない。
 おそらく、さも深く検討したかのように見せかけるため、児童向け雑誌1冊かそこらの資料だけから名前をつまみ食いしたのではないかと考えられるのである。
 
(怪獣たちは)ほとんどつねに実在の動物(あるいは想像された前世紀の動物)を思わせるところを(たとえばコブコブの尻尾を)残しているのは、誰もが見知っていることであろう。ところが、かれらと闘うウルトラマン、ミラーマンのたぐいは、たとえ人間のかたちをしていても、むしろ怪獣の逆に、まったく哺乳類くささのないのが通例である。かれらは科学の匂いをたて(中略)一様にロボットめいた機械的な身のこなしにおいてエネルギーを発する。
 そうであろうか?
 確かにウルトラマンに代表される円谷ヒーローに限って言えばその傾向があるが、冒頭で指摘したとおり、本評論は変身ヒーローもののTVシリーズを含む「怪獣映画」全般を批評したものである。当時すでに『仮面ライダー』をはじめ『イナズマン』『変身忍者嵐』『怪傑ライオン丸』がいたし、後の時代に登場するスーパー戦隊シリーズの相当数など、大江氏の言う「怪獣映画」に動物や昆虫型のヒーローは大勢いる
 ヒーロー達の力の源泉として描写されている設定も必ずしも「科学」ばかりではない。『仮面の忍者赤影』や『魔人ハンターミツルギ』『愛の戦士レインボーマン』など、ヨガの秘術や忍法といった科学ではない能力で戦うヒーローも当時から幾人もいたのである。
 また、ウルトラヒーローに限ってもその「身のこなし」がロボット・機械めいているとはあまり思われない。初代ウルトラマンから、むしろ投げ技を決めたり、俗に「怪獣プロレス」などと言われたような実に人間臭い身のこなしをしているのが事実である。

(怪獣ジラースを相手に闘牛の真似をするウルトラマン――『ウルトラマン』)

 そもそも怪獣映画の代表といえばウルトラマン以上にゴジラやガメラだが、当時のゴジラ映画は子供向けに「ヒーロー化」が進み、悪の怪獣をゴジラがやっつけていた時期だった。当時のゴジラは、近年の作品のように獣として他怪獣と殺し合ったり、人類が四苦八苦して彼らの共倒れを狙ったりするのではなく、どういうわけか人類の友達ででもあるかのように悪い怪獣と戦ってくれていたのである。本評論発表直前の『ゴジラ対メガロ』、その前の『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』でもそうだ。ガメラに至っては1965年の第一作以外、全ての作品で悪の怪獣と戦うヒーロー怪獣であり続けている。
 大江氏は銀幕で、まさに動物型のウルトラマンとでも呼ぶべき彼らの活躍を見たことが無かったのだろうか。……まあ、無かったのだろうが。

人間の側から、これら超人間科学スターと独自な関係をひらくのが、ほとんどいかなる怪獣映画の場合にも、優等生の子供とまことに人格高潔な科学者である。そして、その逆に怪獣どもとひそかな連絡をとっている悪人集団には、たいてい気狂い科学者がいる。地球上の人間にその責任のある科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨は、すべてこの気狂い科学者にひっかぶせられる。それが科学の悪であり、科学のもたらした人間的悲惨である以上、超人間科学スターたるウルトラマンたちに人間の側でつらなっている善良、高潔な科学者のほうにもまた連帯責任があるのではないか、という疑いは、その怪獣映画に熱中している子供の想像力にむけてみじんもほのめかされることはない。
 よくもまあこんな出鱈目が書けたものである。
 大江氏の言う「怪獣映画」――特撮ヒーロー番組において、『仮面ライダー』のショッカーのような「悪人集団」が善良な科学者を脅迫して新兵器を作らせる話などは定番であるし、ヘドラなどの公害によって生まれた怪獣達もすでにいた。民間の善良な科学者だけでなく、ヒーロー自身が属する正義の組織が「科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨」に加担していたことが告発される話さえちゃんとある。
 人類に見捨てられて怪獣と成り果てた宇宙飛行士ジャミラの悲惨な最期も、超兵器R1号にまつわる果てしない軍拡競争を憂いたウルトラセブンの「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」という名文句も、何一つ知らない者だけがこんな言葉を吐ける。

怪獣が暴れまわるのみで、ついに三十分番組の終りまでウルトラマンもミラーマンもあらわれることのない映画を考えてみるべきであろう。この怪獣どものまえで、ウルトラマンの助力なしに、われわれになにができるか、と無力感にただ暗然と滅亡を待つ人間たち……

 考えてみるべきであろうも何も、ウルトラシリーズの初代である『ウルトラQ』こそが正にウルトラマンのいない怪獣映画であり、「古典」ゴジラに代表される元々の怪獣映画はそういうものであった。
 普通の方法では倒せない脅威としての怪獣が現れ、人類が四苦八苦してその生態や対処法を調べる、そしてついに弱点が発見されて怪獣を倒す――それが怪獣映画の基本的な物語パターンである。むしろウルトラマンをはじめとするヒーローの存在は、時間枠を必ずしも「怪獣とその倒し方の研究」に割くことから解放し、怪獣映画はさらに広く様々な物語を語れる母体となったのである。その物語にはもちろん大江氏の言う「科学の悪、人間的悲惨」も含まれる。
 当然ながら、古典的怪獣映画にあったような人類の苦労――ヒーローをもってしても容易ならない強敵、あるいはヒーローが何らかの理由で力を発揮できない状況に、人類側が知恵を絞って対処を考える展開――も「怪獣映画」から失われていない。

 ちなみにミラーマンであるが、彼は本評論において執拗に「ウルトラマンやミラーマンの」「かれらウルトラマン、ミラーマンたちこそは」「ウルトラマンが、ミラーマンが」と並べ称されているのだが、それだけで一言たりとも『ミラーマン』の内容に触れることはない。ただウルトラマンと一緒に名前を呼ばれるだけである。例によって色々知ってるように見せかけるため、名前だけ聞き齧って出していると思われる。

もしリアリズムによる怪獣映画がありうるとすれば、それはまず科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担いこんでいるウルトラマンこそを描きださずにはおかなかっただろう。テレヴィ会社の経営者やスポンサーの経営者には、当然ながら、子供じみた冗談をいうな、と一蹴されるにしても。
 これを書いているときの大江氏のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
 いやあ、低俗なテレビ業界やスポンサーの連中には、ワタクシのような高尚な発想は理解できぬであろうなあ、わっはっは。というわけである。現代でいうところの「意識高い系」丸出しの発想・マウンティングである。
 もちろんそんなことはなく、良心回路が完璧でないがゆえに常に敵に操られてしまう可能性と隣り合わせの戦いを強いられる『人造人間キカイダー』のような、「科学の悪」を内包したヒーローは当時から存在する。見もしないで見下した「子供番組」に発想を先取りされてしまった「文豪」の滑稽さである。

 そして、この未来のノーベル文学賞受賞者は詠嘆する。
 ウルトラマンやミラーマンの、超人間科学スターの無私の活動によって(かれらは名誉も報償も求めぬばかりか、地球で燃料を補給することすらまれである)ブラウン管のまえの子供たちにあたえられる第一の印象は、正義としての科学の威力ということであるにちがいない。科学の絶対的な威力が地球を滅亡から救い、人類に未来をあたえるという、その全面的な正義の保障であるにちがいない。どのような子供の想像力が、ウルトラマンによる科学の威力のうしろに背なかあわせになっている科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨に向けて発展してゆきえるだろう?
 いわゆる「日本列島改造計画」のように科学的機械力による大規模な自然の破壊は、ウルトラマンの活動さながらついには正義の科学的行為であるとする宣伝は、ウルトラマン的想像力に慣れている人びとの耳にやさしく聞きとれるだろう。(略)もっともいま怪獣映画にうつつをぬかしている子供たちが大人になって、おおはばに「改造」された日本列島のありとあらゆる場所で、救いをもとめる叫び声をあげるにしても、汚染された海からミラーマンはあらわれず、汚染された空からウルトラマンはやってこないのであるが。

 早い話が科学礼賛のウルトラマンにはまった子供たちは、科学を盲信するようになり「科学」の名のもとに行われる現実に問題のある政策を批判できなくなって破滅する……というのである。
 今の時代にこの論考を出しても、まず大人たちも相手にしないであろう。
 なぜなら今の大人たちは、自分が子供の頃の「怪獣映画」を、ヒーローたちを知っているからである。
 しかし当時の大人たちは子どもの頃、怪獣映画というものに触れていなかった。ゴジラなど「古典」はともかくウルトラマンや仮面ライダーは無かったのである。ちょうど1980年代の大人たちにとってのテレビゲームや、90年代のインターネットのような未知の存在であった。
 それを良いことに大江氏は、見てもいない怪獣映画をこき下ろしながら、同じくほとんどそれらを見ていないであろう『世界』読者に向かって、子供たちの、人類の未来を壮大に憂えるお芝居をしてみせたのである。

 いや実に大きなお世話というか、大江のお世話であった。


大江健三郎『状況へ』岩波書店
大江健三郎「破壊者ウルトラマン」〜「おたく」非難の系譜
徹底検証:大江健三郎「破壊者ウルトラマン」に関して 

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