Censoyclopedia:センサイクロペディア - 【寛容のパラドックス】
 1945年にカール・ポパーが『開かれた社会とその敵』において語ったパラドックス。
 表現規制派が曲解した画像1のような画像を好んでネット上に流通させ「表現規制の正当化」を図ろうとしているもの。

画像1 ツイッター上で流通している図(クリックで拡大)

 実際には、寛容のパラドックスは表現規制を正当化するものでは全くない。
 実際にはポパーは「不寛容や迫害を説くいかなる煽動も犯罪でなければならない」などと言っているのではない。逆にポパーはそれらを、殺人などの扇動を「犯罪と見なすべきであるのと同様の仕方で」犯罪と見なすべきだと言っているに過ぎない。フィクションにおける殺人が差し支えないことを考えれば、『寛容のパラドックス』が表現規制派の要求に援用できるものではないことは明らかである。現代日本で言えば現場助勢罪や教唆犯・幇助犯と同程度のものでなければならないことになるが、これらはいずれも実際に犯罪が発生し、その特定の事件との因果関係のもとで検討されるものであって、表現規制派が言う「助長するおそれ」などというような野放図なものを指しているわけではない(画像2)。

画像2(クリックで拡大)

 ポパーが不寛容に対して不寛容であらねばならないと説くのは、「われわれがそれらに対して合理的議論で対抗し、世論によってそれらを抑えることができる限りでは、抑圧は確かに最も賢くないやり方であろう」とある通り、社会の寛容性を守るのに必要最小限の場合である。そしてその相手は「われわれに対して合理的議論のレベルで対抗しようとするのではなく、あらゆる議論を非難し始める」ような人々である。

 すなわち寛容のパラドックスにおける不寛容とは、フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの攻撃するような【性的消費】や「政治的に正しくない表現」とかのことでは全くないのである。
 これらのようなものに対して寛容であったために、社会が寛容性を喪失する、ということは考えられないからだ。


 なお現在、表現規制の議論において、規制派側は劣勢になるに従い「差別者との議論の必要はない!」と叫ぶに至っている。