小牧は日本サンライズ(現サンライズ)との親交から、雑誌編集長という立場以外でもガンダムブームに関わっている。
1980年には『機動戦士ガンダム記録全集』(2巻以降)の編集を依頼され、業界の恩人である野崎欣宏と共に伸童舎を設立。
サンライズの営業プロデューサー野辺忠彦に協力し、ガンダムや『伝説巨神イデオン』の劇場版公開時にはファンイベント「アニメ新世紀宣言」や「明るいイデオン」の運営に参加している。
リアルロボット系アニメではロボットを量産兵器とみなし、名称に型式番号を付けるパターンが多いが、その端緒が「RX-78 ガンダム」である。
これは制作者側が設定したものではなく、小牧が富野由悠季監督の許可を得て考案したものである。
台本にある「ガンダーX78」(本編では未使用)を元に、
地球連邦軍がロボット兵器を研究するならば、ジオン公国軍のモビルスーツ という名称は使わない のではないかと推定し、「ロボット(Robot)型・試作(X)機動兵器・宇宙世紀0078年型」という符号から「RX-78」とした。
初号(1号)の発行部数は五千部。
当時のラポートは出版社ではなく、書店で流通はせず直販だったため殆んど売れず、その在庫は当時の社長室を埋め尽くしたと言われる。
また、3号は特集を予定していた
某作品の版権元からの許可が取れずに発行出来ず、やむを得ず3・4合併号として発行。
5号から隔月刊化。てこ入れとして、書店流通に移行、誌名を『Animec』と改めた。
特集には、当時他のアニメ誌で大きく扱われていた『銀河鉄道999』を避け、編集長の趣味で
東京ムービー制作の『宝島』を取り上げた。
これが早々に完売した事から「趣味を押し出した方が売れる」と判断、6号からは更に編集長の独断と趣味で、当時はほとんど注目されていなかった『機動戦士ガンダム』を誌面の軸に据え始める。
監督の
富野 由悠季らスタッフへのインタビューに加え、
日本サンライズから設定資料を借り受け(当時は社外秘扱いではなく、また他誌ではあまり扱われていなかった)、それを活用した記事内容で注目され「評論と設定資料集の『アニメック』」という評価を固める。その策は功を奏し、発行部数も右肩上がりになる。
『ガンダム』の放送打ち切りが決定した際にも富野由悠季が直々に提供した情報を元に大々的に特集を組んだ。その反響は予想以上であり、発行部数も10万部を越えたという。
1983年に再び月刊に戻った。しかし、この頃から記事内容の希薄化が顕著なものとなった。
また大判でグラビア構成主体の競合誌が次々と創刊されるなど、アニメ雑誌業界が成熟を始め、アニメ制作会社から提供されるグラビアと情報の物量
、言い換えればアニメ制作会社とのパイプが物をいう時代になると 、アニメの
番組素材よりも評論中心で誌面を支えるコアなアニメ雑誌の成立は困難となっていった。
結局、他誌に押される形で、時代の潮流に対応する事ができず1987年2月に休刊。休刊時に編集長はラジオ番組で、「(当時の)アニメ誌を出している中で一番小さな会社なんだし、よく今まで持ったものだ」とコメント、そして「春には復刊させたい」としていた。
しかし、その年の春が過ぎても復刊は無く、再びコメントを求められた編集長は
「季節の『春』ではなく『業界に春が来たら』という意味」と、回答に窮していた。休刊後もアニメック編集部はアンソロジーコミックやムックの編集部として会社倒産まで存在した。
編集長はアニメック創刊から編集部がなくなるまで1度も交代せず、小牧雅伸が務めた。