国民総連合
解散(活動停止)
東京都港区芝琴平町
- 昭和35年時
役職 | 氏名 | 協議体等役職 |
---|---|---|
委員長 | 大森曹玄 (故人) | 戦前・勤皇維新同盟 理事 直心道場 道場長 戦後・黒龍倶楽部 理事 新日本協議会 常任理事 花園大学 学長 |
書記長 後に事務局長 | 中村武彦 (故人) | 戦前・維新公論社 幹部 戦後・黒龍倶楽部 常任理事 後に直毘塾? 代表 |
中央委員 | 橘 孝三郎 (故人) | 愛郷塾 創設者 全日本愛国者団体会議 最高顧問 |
同 | 永井了吉 (故人) | 戦前・勤皇維新同盟 総理 戦後・亜細亜友之会? 常任参与 |
同 | 狩野 敏 (故人) | 戦前・神武会 中央委員 大日本青年党 評議委員 戦後・拓殖大学 理事長 |
同 | 進藤一馬 (故人) | 玄洋社 社長 福岡市々長 |
同 | 毛呂清輝 (故人) | 戦前・維新公論社 幹部 戦後・黒龍倶楽部 世話人 護国団 顧問 新勢力社 主幹 大日本生産党 相談役 |
同 | 豊田一夫 (故人) | 殉国青年隊 総隊長 |
役職 | 氏名 | 協議体等役職 |
---|---|---|
代表世話人 | 中村武彦 (故人) | 黒龍倶楽部 常任理事 後に直毘塾? 代表 |
世話人 | 山田理吉 | 日本同志会? 名誉会長 |
同 | 湯之恵 正行 | |
同 | 田妻 喜代人 | |
同 | 杉 憲次 | |
同 | 岡崎 允佐夫 | 青年皇道隊? 隊長 松江城西高校(淞南高校) 創設者 |
同 | 三宅親連 |
昭和29年結成。
昭和31年改称。
前身は昭和28年に右翼陣営の大同団結と統一戦線の構築を目的に陣営の指導者層が集い立ち上げられた維新運動関東協議会であり、組織の有り様をめぐって小党分立による緩やかな連合体を志向する派と、各団体の合流による単一団体化を志向する派との間で意見対立が起こった事を契機として、後者の「単一団体化」派が救国政党設立を目指し同会を母胎に立ち上げたもの。
旧称「救国国民総連合」。
しかし「小党分立」派は当然加わらず、また大東塾、護国団、大日本生産党といった有力団体が基より不参加を表明していた事もあって当初目指した陣営の大同団結は成らず、名称を改め単一団体としたもののしばらく後に活動を停止した。
機関紙「救国運動」。
なお後年、この大同団結の機運の高まりを基に改めて立ち上げられたのが全日本愛国者団体会議であった。
昭和31年改称。
前身は昭和28年に右翼陣営の大同団結と統一戦線の構築を目的に陣営の指導者層が集い立ち上げられた維新運動関東協議会であり、組織の有り様をめぐって小党分立による緩やかな連合体を志向する派と、各団体の合流による単一団体化を志向する派との間で意見対立が起こった事を契機として、後者の「単一団体化」派が救国政党設立を目指し同会を母胎に立ち上げたもの。
旧称「救国国民総連合」。
しかし「小党分立」派は当然加わらず、また大東塾、護国団、大日本生産党といった有力団体が基より不参加を表明していた事もあって当初目指した陣営の大同団結は成らず、名称を改め単一団体としたもののしばらく後に活動を停止した。
機関紙「救国運動」。
なお後年、この大同団結の機運の高まりを基に改めて立ち上げられたのが全日本愛国者団体会議であった。
表記や記載項目等については基本事項をご参照下さい。 | |||
記事の不備や団体の解散等により必ずしも最新の情報ではない可能性もあります。間違った記述を発見したり最新の情報をご存知の方はお気軽に編集についてをご参照の上で編集に参加して下さるようお願い致します。 | |||
または訂正して欲しい記述や記載されていない情報等がありましたら、情報提供についてをご参照の上でコメント投稿より情報の提供をして頂ければ可及的速やかに編集させて頂きます。 | |||
単一団体 | 協議体 | 新右翼 | 都道府県別 |
憂国リング |
タグ
コメントをかく