コーンウォール公カドールの子。
ローマへと遠征へ向かう際のアーサー王に死後の王位を任せられた騎士であり、カムランの戦いの後に王位を継承しブリテンの後継者となったという。
(史実〜アーサー王物語)
アーサー王物語の登場人物としては稀有な、『原型となった人物が史実に近い記録で確認できる』人物。
ギルダスの『ブリトン人の没落』に報告される暴君が原型とおぼしい。二つ名リストの『不浄な雌獅子から産まれた暴虐な仔獅子コンスタンティン3世』はこの人。
多数の女性との姦通を噂され、更には王位を持つ若者を司祭に化けて騙し討ちして殺したと書かれており、ギルダスには「なぜ自分から地獄の業火に焚べられに行かないのか?」などと罵倒され、悔い改めることを勧められている。
その後の伝承では『悔い改めて修道士となり、王位を譲った』とされ、聖コンスタンティンと呼ばれることもあるが、これは同じ名前の人物との混同であるという説も強い。(どうやら当時はコンスタンティンというのはよくある名前だったらしい)
聖ディヴィット、聖ペトロックなど、『聖人に諭され改心し修道院へ行った』逸話が多くある。
登場する伝承によって聖人だったり王だったりなど立場が違っており、当時の伝承の混乱が見て取れる。
その中でも『ブリタニア列王史』では「カムランの戦いで致命傷を負ったアーサーから王冠を譲渡された」とされており、反乱を続けていたモードレッドの二人の息子の軍を打ち破り、教会の中へ逃げ込んだモードレッドの息子たちを祭壇の前で殺す。
しかしそれが神の逆鱗に触れたのか3年後に甥のアウレリウス・コナヌスに殺害され、ウーサーの隣に埋葬された。
おそらくはアーサー王の存在を史実に繋げる役割であり、そのために元の暴君としての側面を削り、コンスタンティンが殺した『王家の若者』を『モードレッドの息子』とすることで正当性を持たせたものと考えられる。
その流れを継ぎ、編纂した『アーサー王の死』では完全に暴君としての側面を消され、円卓の騎士の一員となった。
コーンウォール公カドールの子であり、ローマ遠征に赴くアーサーに己が不在の間の摂政の一人、及び戦死した場合の正式な後継者として任命されている。
アーサー王死後、王位に即位した後は元のカンタベリー司教を再び司教として迎え、国を平穏に統治したとされるが、散り散りになったベディウィエールなどの円卓の騎士を呼び戻すことは叶わなかった。
『フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス』
ローマ皇帝コンスタンティヌス三世。
407年、当時の西ローマ皇帝ホノリウスに不満を持ったブリタンニア(古代ローマが現在のイギリス南部に設置した属州の一つ)のローマ軍団に皇帝として宣言された人物。
皇帝を名乗ったコンスタンティヌスはブリタンニアの軍団を率い、当時蛮族に脅かされていた(ホノリウスはこれを放置していた)ガリアへと向かい、迅速に混乱を回復。ガリアとヒスパニアから皇帝として歓迎される。
ホノリウスはコンスタンティヌスに対して討伐軍を出したが、様々な事情から討伐軍の戦線は崩壊。ホノリウスは講話せざるを得ず、西ローマの共同皇帝として承認された。
しかしその後急激にコンスタンティヌスの立場は転落。
ブリタンニアは蛮族に奪われ、ホノリウスとの講和に反対したヒスパニアには離反され、支配力を急速に失った結果ガリアにも叛乱を起こされる。
各地でコンスタンティヌスの勢力は敗北し、最終的には西ローマ帝国に降伏する形となる。
コンスタンティヌスを降伏させた将軍は彼の身の安全を約束していたが、ホノリウスの指示によってコンスタンティヌスは処刑された。411年。
アーサー王伝説において
ブリタンニアの皇帝という経歴ゆえか、『ブリタニア列王史』ではアーサー王伝説の登場人物、「ブリテン王コンスタンティン二世」となっている。
ユーサー・ペンドラゴンの父(つまりアーサーの祖父)であり、ブリテンの民を糾合し一丸となって国を建てようとしたが、ピクト人によって暗殺されたとされる。