架空国家を自由に作ってください。

設立1885年
創設者デュラント・パリーグ?
本部アムルースク=オスマン帝国、北キプロス
構成員1408人
重要人物メリア=シトラス
バヤジィト=シトラス
コルセ=ネーティン

概要

レヴィン教過激派アムルースク=オスマン帝国で主に信仰されている宗教、レヴィン教の教えを理想化し、各地で破壊活動をしているテロ組織。
レヴィン崇高主義や新オスマン主義などを理想に掲げている。
レヴィン教過激派というのは通称名で、本来の組織名はレヴィン国である。

目的と活動

目的

当組織は、レヴィン教による一極支配、世界支配を望み、中東〜西アフリカ、バルカン半島全域などを支配下にし、レヴィン教国家を建設することが目的である。
現存するレヴィン教国家、アムルースク=オスマン帝国とは別の、強固な宗教国家を造ろうとしている。

活動

彼らは1885年より歴史の表舞台に姿を現し、主に当時のオスマン帝国の帝都、コンスタンティノープルでの破壊活動をしたのが始まりとされる。

年表

1800年代

設立当初〜武装化
1885年帝都、トプカプ宮殿砲撃事件
1890年トプカプ宮殿襲撃事件
1892年エディルネ事件

1900年代

活動過激〜衰退
1900年ドルマバフチェ宮殿襲撃事件
1909年コンスタンティノープル城壁事件
1914年世界大戦に乗じる混乱の中、虐殺事件を起こす。
1918年愛国党本部襲撃事件
1925年アナトリア同時多発テロ事件
1927年オスマン警察?により強制捜査、幹部が多数逮捕。
1941年化学兵器テロをしようとするも異臭事件を起こし、失敗。
1945年第二次化学兵器テロ失敗。
1966年北キプロスの本拠地が強制捜査。
1968年アナトリア国鉄の複数の駅でテロを起こす。
1969年一度目の解散。
組織再編〜活動活発化
1970年エスキシェヒルにて「レヴィン教シックル派」として組織再編。
1971年名前を変え、各地の土地を買収。
同年8月ブルサの土地に本拠地を建設開始。
1972年信者が1000人を超える。
1974年コンスタンティノープルに総本部を設置。
1975年アンカラ総本部完成。
1976年宗教団体として布教活動を開始。
1977年信者を1350人を突破。
同年8月アナトリア半島各地に支部を建設。
1979年信者勧誘の方法や被害者の会が創設される。
1980年帝国議会総選挙に教祖プリアルと共に出馬、惨敗。
1981年武装化を決める。
1983年組織再編後、初めてのテロ活動開始。
1984年信者をリンチして殺害。
同年信者リンチ事件を引き起こし5人目の殺害。
1985年ブルサ施設全体が完成。
1986年信者が3500人突破。
1987年アンカラにて虐殺事件を起こす。死者は1600名。
1989年アナトリア国鉄、地下鉄にて化学兵器テロを起こす。被害者は6500名、死者は13名。
1991年組織の素性がレヴィン過激派と公に知られる。
1993年コンスタンティノープルを襲撃。しかし皇室親衛隊に撃退され返り討ちにされる。
1995年ブルサ施設の強制捜査が開始。
同年各支部、総本部の強制捜査が一斉に開始。
同年各地にいた幹部らが一斉に逮捕。
同年総本部にいた5名の最高幹部らを逮捕。
1996年ブルサ施設に隠れていた教祖のプルシェンコを逮捕。同日に死刑判決、処刑。
1998年各総本部の閉鎖。
1999年教団反対デモがアナトリア半島各地で起こる。

2000年代

教団崩壊〜残党勢力の登場
2000年「正式見解」として事件を認め謝罪。
同年「規制法」が帝国議会で承認、発布される。
2004年ブルサ施設の取り壊しが決定。
2006年ブルサ施設が取り壊される。
2010年幹部や信者らの裁判にて残敗訴。
2013年全幹部らの処刑。
2016年残党が摘発され散り散りに。
2017年未だ残る残党が北キプロスに集結。
2018年北キプロスにて残党が国軍と衝突。
同年北キプロス解放戦線とした再編。公安調査庁の呼び名は「レヴィン過激派」。

信者数

教団が国教省に報告した信者数の一覧。
年代信者数備考
1965年750人
1972年1000人
1977年1350人
1986年3500人
1987年1万1500人教団最盛期
1998年5200人
2005年3200人
2015年2400人
2018年1408人

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