順調にイスタンブールに侵攻してきた連合軍だったが、待ち構えていたのは完全防備していたイスタンブール防衛軍、そして古代より存在する大城壁
デオドシウスの城壁であった。
連合軍は三重にも建てられていた城壁、そして堀、周囲の天然の要害となっていたエーゲ海などの存在もあり、苦戦。
オスマン軍側の最高指揮はコンスタンノス二世その人であり、皇帝自ら戦ったのはなんと200年振りほどである。
皇帝自らが陣頭に立った事もあり、オスマン軍の士気は大いに上がった。イスタンブールを強固に防衛しているオスマン軍に対して連合軍は攻めあぐね、城壁内部のイスタンブール中枢には一歩も入れなかった。
そして1918年冬にはオスマン帝国軍のゲリラ戦や補給線分断などによって連合軍の士気が低下。
連合軍とイスタンブール防衛軍の間にて1918年12月24日、イスタンブール条約にて連合国と講和条約を締結した。現領土よりアラビア地域に存在した南部の細長い領土は放棄、そのかわり国家体制と国民の権利、連合国とオスマン帝国の対等の立場などを連合国へ認めさせ、イスタンブールより連合軍を撤退させることに成功した。
この戦いにおける、オスマン軍の損害はトプカプ宮殿の火災、デオドシウス城壁の損壊やイスタンブール城壁より外の郊外市街地の荒廃などであった。
この最初からクライマックス状態、しかも崩壊寸前のオスマン帝国を防衛したコンスタンノス二世は国民、イスタンブール市民たちから
英雄帝として大絶賛された。
その後、コンスタンノス二世は側近であり参戦を決めたエンヴェル・ソレッド、トリート・パシャらを左遷し、自らが先頭に立って再建計画を立てる。
(ちなみに左遷されたエンヴェルやトリートらの子孫として、
エンヴェル・パシャ、
ジェマル・パシャがいる。)