大徳寺は、鎌倉時代末期に( 21 )が創建。建武の新政を断行した( 22 )の帰依を受け、京都五山の上に格付けされて保護されたが、室町時代になると、幕府の保護を辞して、在野の寺院となった。一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( 23 )の援助で復興。さらに、安土桃山時代には( 24 )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( 25 )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。 |
(21) 大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建した。
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(ア)臨済義玄(りんざい ぎげん)
(イ)雪舟等楊(せっしゅう とうよう)
(ウ)明庵栄西(みょうあん えいさい)
(エ)宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)
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《解答》宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう) 公式テキスト[増]95ページ/[新]123ページ
(22) 大徳寺は建武の新政を断行した( )の帰依を受け、京都五山の上に格付けされて保護されたが、室町時代になると、幕府の保護を辞して、在野の寺院となった。
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(ア)後醍醐天皇
(イ)後鳥羽天皇
(ウ)光厳天皇
(エ)醍醐天皇
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《解答》後醍醐天皇 公式テキスト[増]95ページ/[新]123ページ
(23) 大徳寺は一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した。
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(ア)三井高利
(イ)沢庵宗彭(たくあん そうほう)
(ウ)尾和宗臨
(エ)尾形宗謙
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《解答》尾和宗臨 公式テキスト[増]95ページ/[新]123ページ
(24) 安土桃山時代には( )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( 25 )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
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(ア)豊臣秀吉
(イ)後陽成天皇
(ウ)柴田勝家
(エ)徳川家康
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《解答》豊臣秀吉 公式テキスト[増]95ページ/[新]123ページ
(25) 安土桃山時代には( 24 )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
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(ア)龍源寺
(イ)黄梅院
(ウ)大仙院
(エ)総見院
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《解答》総見院 公式テキスト[増]95ページ/[新]123ページ
東寺の正式名称は( 26 )で、唐から戻った空海により真言密教の根本道場に定められた。また、空海は庶民のための学校「( 27 )」を建立したことでも知られている。 東寺の五重塔の高さは、現存する木造の塔としては最大であり、焼亡再建を繰り返し、現在は( 28 )代目にあたる。東寺は密教美術の宝庫で文化財の多い寺として知られ、( 29 )などの絵画をはじめ多数の国宝を有している。東寺の境内や門前では弘法大使の月命日である毎月( 30 )に、「弘法さん」と呼ばれる市が開かれ、大勢の人で賑わっている。 |
(26) 東寺の正式名称は( )で、唐から戻った空海により真言密教の根本道場に定められた。
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(ア)弘法護国寺
(イ)大日護国寺
(ウ)教王護国寺
(エ)真言護国寺
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《解答》教王護国寺 公式テキスト[増]84ページ/[新]106ページ
(27) 空海は庶民のための学校「( )」を建立したことでも知られている。
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(ア)綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
(イ)綜芸勧学院(しゅげいかんがくいん)
(ウ)綜芸学芸院(しゅげいがくげいいん)
(エ)綜芸観智院(しゅげいかんちいん)
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《解答》綜芸種智院(しゅげいしゅちいん) 公式テキスト[増]84ページ/[新]106ページ
(28) 東寺の五重塔の高さは、現存する木造の塔としては最大であり、焼亡再建を繰り返し、現在は( )代目にあたる。
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(ア)4
(イ)5
(ウ)6
(エ)7
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《解答》5代目 公式テキスト[増]85ページ/[新]106ページ
(29) 東寺は密教美術の宝庫で文化財の多い寺として知られ、( )などの絵画をはじめ多数の国宝を有している。
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(ア)明恵上人樹上座禅図
(イ)阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)
(ウ)観音猿鶴図
(エ)両界曼荼羅図(西院曼荼羅)
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《解答》両界曼荼羅図(西院曼荼羅) 公式テキスト[増]85ページ/[新]106ページ
(30) 東寺の境内や門前では弘法大使の月命日である毎月( )に、「弘法さん」と呼ばれる市が開かれ、大勢の人で賑わっている。
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(ア)15日
(イ)21日
(ウ)25日
(エ)28日
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《解答》21日 公式テキスト[増]221・231ページ/[新]285・297ページ