織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( 81 )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( 82 )のあたりに建てた。「本能寺の変」により信長が自刃したあと、後継者となった豊臣秀吉が信長の菩提寺として( 83 )を建立した。秀吉は、京都での政権の拠点としての聚楽第建設をはじめ、短冊型の町割、( 84 )、洛中を囲む御土居の建設など京都の大規模な都市改造を進めた。秀吉は死後、( 85 )に葬られ、その山腹に豊国大明神として祀られた。 秀吉の側室の淀殿が、父である( 86 )の菩提を弔うため、( 87 )を建立した。のちに焼亡するが、淀殿の妹である崇源院(お江)が夫の徳川秀忠に願い出て再建し、以来、徳川将軍家の位牌所となった。この寺のある杉戸鐚「白象図」や「獅子図」は( 88 )の作と伝えられ、ユーモラスな表現をしている。 江戸に幕府を開いた徳川政権は、京都を直轄都市とし、( 89 )を京都所司代として、その支配を強めた。また、京都の社寺の復興に努めるとともに、京都産業にも手厚く、特に( 90 )の保護に大いに尽力し、京都は大きく発展するところとなった。 |
(81) 織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( 82 )のあたりに建てた。
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(ア)足利義晴
(イ)足利義輝
(ウ)足利義栄
(エ)足利義昭
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《解答》足利義昭 公式テキスト[増]??ページ/[新]??ページ
(82) 織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( 81 )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( )のあたりに建てた。
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(ア)京都マンガミュージアム(烏丸御池付近)
(イ)京都地方合同庁舎(西洞院御池付近)
(ウ)平安女学院(烏丸下立売付近)
(エ)正親小学校(仲立売智恵光院付近)
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《解答》平安女学院(烏丸下立売付近) 公式テキスト[増]??ページ/[新]??ページ
(83)「本能寺の変」により信長が自刃したあと、後継者となった豊臣秀吉が信長の菩提寺として( )を建立した。
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(ア)阿弥陀寺
(イ)総見院
(ウ)大雲院
(エ)妙心寺
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《解答》総見院 公式テキスト[増]??ページ/[新]??ページ
(84) 秀吉は、京都での政権の拠点としての聚楽第建設をはじめ、短冊型の町割、( )、洛中を囲む御土居の建設など京都の大規模な都市改造を進めた。
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(ア)五条石橋
(イ)寺院街の形成
(ウ)鉾町屋敷替え
(エ)東本願寺の創建
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《解答》寺院街の形成 公式テキスト[増]31ページ/[新]35ページ
(85) 秀吉は死後、( )に葬られ、その山腹に豊国大明神として祀られた。
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(ア)阿弥陀ヶ峰
(イ)高台寺山
(ウ)椿ヶ峰
(エ)月待山
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《解答》阿弥陀ヶ峰 公式テキスト[増]??ページ/[新]??ページ
(86) 秀吉の側室の淀殿が、父である( )の菩提を弔うため、( 87 )を建立した。
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(ア)浅井長政
(イ)織田信長
(ウ)柴田勝家
(エ)朝倉義景
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《解答》浅井長政 公式テキスト[増]126ページ/[新]162ページ
(87) 秀吉の側室の淀殿が、父である( 86 )の菩提を弔うため、( )を建立した。
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(ア)玉鳳院(ぎょくほういん)
(イ)松雲院
(ウ)幡岳院(はんがくじ)
(エ)養源院
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《解答》養源院 公式テキスト[増]89ページ/[新]112ページ
(88)( 87 )のある杉戸絵「白象図」や「獅子図」は( )の作と伝えられ、ユーモラスな表現をしている。
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(ア)尾形光琳
(イ)狩野山楽
(ウ)俵屋宗達
(エ)土佐光起
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《解答》俵屋宗達 公式テキスト[増]89ページ/[新]112ページ
(89) 江戸に幕府を開いた徳川政権は、京都を直轄都市とし、( )を京都所司代として、その支配を強めた。
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(ア)浅野長政
(イ)天野康景
(ウ)板倉勝重
(エ)松平定敬
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《解答》板倉勝重 公式テキスト[増]36ページ/[新]42ページ
(90) また、京都の社寺の復興に努めるとともに、京都産業にも手厚く、特に( )の保護に大いに尽力し、京都は大きく発展するところとなった。
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(ア)友禅染
(イ)京焼・清水焼
(ウ)漆器
(エ)西陣織
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《解答》西陣織 公式テキスト[増]28ページ/[新]23ページ