今は亡き耳かきコリッの避難所

耳ツボ「鍼あんま屋」【後編】

耳ツボ「鍼あんま屋」に行った次の日は
後頭部から口や首にかけて
力が抜けたような感覚で、痺れていた。
いままで詰まっていた耳の老廃物と
耳周辺の疲労を取り除いた後の
快感が形を変えて居座っているようだった。
その痺れは、仕事をするにあたって
邪魔というわけではなかったが、
歯を食いしばるような力が入らなくなった
のが少しもどかしかった。
日が経つにつれ、
そのような状態はゆるゆると消えていった。

一週間後、
肩から腕にかけては緊張が取れてしゃきしゃきと
動いていたし、眼精疲労は和らいでいた。
胃も軽くなっていた。
私はほとんど健康体になっていた。

しかし、耳の穴が痒い。
あの店で耳掃除をしてもらおうと思って
私はずっと耳掃除をしていないのだ。

私は予約の電話をした。



白いレースのカーテンから
やわらかい光を注いでいる。
ゆったりした椅子に寝そべって、
ワクワクしながら私は待っていた。
今日は、ラベンダーの香りがしている。
心が落ち着くやさしい紫の香りだ。
かすかにオルゴールの音が聞こえた。
G線上のアリアだ。

私の斜め前には、
大きな液晶テレビがあった。
「何に使うんだろう…?」
店主が座るはずの椅子の周りは
銀色の多種多様な器具や、
一人用の冷蔵庫ぐらいの大きさの
コンピュータのようなものまであった。

「お待たせしました。」

バササッ…
店主は、大きな紙を貼り付けた。
また、なにか難しい説明をしてくれるのだろうか。
店主は説明をはじめた。



耳の穴から鼓膜までの間を外耳道といいます。
大人で約2.5cmあります。
外側から3分の1は軟骨で出来ています。
残りの3分の2は骨です。

軟骨で出来ている耳壁には
耳毛と皮脂腺と耳垢腺があります。

皮脂腺は、皮脂を分泌して、
耳の中に潤いを与えて傷つくのを防いでいます。
耳垢腺は、汗腺の一種です。
苦い粘液を分泌しています。
耳の中の乾燥を防いだり、埃を吸着しています。
また、苦い粘液が虫除けにもなっています。
耳毛はそれらの分泌物をまとって
埃や異物をキャッチします。

耳には迷走神経が走っています。
迷走神経は生命の維持に直接関係するような
重要な脳神経です。
迷走神経は、喉・気管・食道・腹部内臓にも
あって味覚を伝えたり、感覚を伝えたりしています。
副交感性の神経です。
主に内臓の感覚をつかさどっていますが、
一箇所だけ、耳や外耳道では
体性の感覚である温痛感覚の伝達をしています。

耳掻きをすると咳が出てくるのは、
耳掻きをすることによって
耳に近い咽喉の感覚も影響されてしまうからです。

迷走神経を刺激して快感を得ると、
脳内のA10神経が活性化して、
ドーパミンが分泌されて、
より快感を感じます。

しかし、ドーパミンが過剰に分泌されると
幻覚を見たり精神分裂病になったりします。
それを抑制するためにギャバ神経から
βーエンドルフィンが分泌されます。
βーエンドルフィンは
体に対して過剰な刺激や高揚や異常が
あったときに、それを緩和させるためのものです。

βーエンドルフィンは、モルヒネの6.5倍の
威力がある強力な脳内麻薬です。
脳内麻薬は痛みを緩和して恍惚感を
生み出します。

出産の時に、痛みが飛んで恍惚としたり、
「ランニングハイ」という
ジョギングの時に恍惚となる症状は
βーエンドルフィンの働きです。
中にはジョギング中毒になる人もいます。

耳掻き→恍惚
の仕組みが分かったでしょうか?

怒りやストレスを感じると
ノルアドレナリンが分泌されます。
また恐怖を感じた時はアドレナリンが分泌されます。
これらは猛毒物質です。
過剰に分泌されると老化や病気になりやすくなります。
これに対してβーエンドルフィンは
気持ちいいと感じたときに分泌されやすく、
老化を防ぎ、自己治癒力を高めます。



難しい話だったが…
激しく掻けば掻くほど、恍惚となるというのは
麻薬中毒に似ているということだな、と
私は思った。

「これから耳の掻き方をお教えします。」

店主は肌色の肉片を手の上に載せた。
その表面には毛がプツプツと生えていた。

「これを耳壁の皮膚だと思ってください。」
耳掻きをする時のちょうどいい力の入れ具合を
してみてください。」
私は耳掻きを持って、肉片をゆっくり掻いた。
「だめですよ、強すぎます。こうやって」
店主は丁寧に掻く。
透明な硬い毛は耳掻きに沿って流れていった。

「なるほどよくわかりました。
しかし、これは何ですか?」
「これはミミガーと言います。豚の耳です。
沖縄では有名です。」

隣の部屋からジュージューと焼ける匂いがした。
助手がホカホカの料理を持ってきてくれた。
「ミミガーを料理しました。」
「へぇ、おいしそうだね。」
歯で噛むと、コリコリと音がした。
「耳そのものを調理するので、
その中にある軟骨も一緒に食べることになりますが、
これが、コリコリとして美味しいのです。
ピーナッツバターとお味噌で和えています。
コラーゲン、エラスチンなどの蛋白質が豊富で、
美容と健康に大変優れたゼラチン食品です。」
肉のジューシーな味が空腹に染みる。
ピーナッツの濃い味と味噌が香ばしい。
耳掻きをされる前に、
耳料理を食べるとはオツなものだ。

「耳の中を掃除します。
当店では、青色光ファイバーで
耳の中をテレビ画面に映し出して、
お客様に楽しんでいただいております。
テレビ画面が青くなるということではありません。
青色の光で察知した映像は、精度が高くなります。
新技術です。」

光ファイバー付き耳掻きが
おずおずと耳の中に入ってきた。
茶色の毛に黄色の耳垢がまとわりついて
ボサボサしていた。

「…。」
私は少し恥ずかしかった。

1週間ほど耳掃除をしていないだけなのに、
予想以上に汚れていた。
毛と耳垢だらけで前がまったく見えなかった。
ズッ…………ッッ…
ザリ……ザリザリ…
耳毛の「すだれ」を横倒しにしながら、
耳掻きが耳垢を除去していった。
カリカリ…カリカリカリ…カリカリ
カリカリ……カリカリカリ…
コリコリコリ…コリコリコリ……コリコリコリコリ…
次々と耳垢が掻き取られていく。

店主の手の動きと、私の視覚と
耳壁の感覚が一致した。
くすぐったいようなおかしな感覚だった。
店主の手がコリッと「耳垢を引く」と
快感で首のほうがビリビリする。

「これはズーム(拡大)機能がついています。」
店主はレンズを取り替えた。カチャカチャ…

拡大した耳壁だ。
茶色で太い、しなやかな生き物のような耳毛が
うねりながらビッシリとはえた林が見えた。

耳毛の付け根は、
まるで風呂場の放置した石鹸の入れ物のように、
付け根に白い脂がこびり付いていて、
その上、耳垢とおぼしき粉がまとわりついていた。
耳毛の付け根の皮膚をひと擦りすると、
耳毛の付け根から白いニュルッとした
黄色い脂の塊と、透明な汁が滲み出した。
「わぁ、こんなに。」
「新陳代謝がありますから。」と店主。

耳の奥のほうは、
毛が生えていなくてツルツルしていた。
耳壁には、ところどころに血管の形が見えた。
「毛細血管」と呼ばれるものだろうけど、
数倍ズームだからとても太く感じた。
皮膚は白っぽいが血管が目立っていた。
「耳の奥は特に皮膚が薄いですから、
デリケートです。注意して掻きましょう。」
どおりで、ガリガリ掻くとかさぶたが出来たはずだ。
耳の奥は薄い皮膚の下が頭蓋骨だ。
しかし、私はゴリゴリと頭に響く音が好きなのだ。
そう言われてもやめられないだろうな、と思った。

一番奥に半透明な膜があった。
それは鼓膜だった。
「鼓膜の向こうには、精密な働きをする器官が
たくさんあります。」と店主は言った。

乾燥して耳壁にこびり付いている
既に出来上がった耳垢と、
カリカリこすることによって、古い皮膚などの
新たに剥がれ落ちる耳垢と、
カリカリこすることによって、
皮脂腺や耳垢腺が刺激されて
分泌される水分のようなものと、
それらのものが合わさって
一括して耳掻きのサジに
乗ってくるのだということが、
ズーム画面を見てわかった。

「耳掻き」は、それらを一気に取り去る…
すっきりするはずだ、と私は思った。

「次の器具の準備をしますので、
少々お待ちください。」と店主は言った。

「はい。」
私はあまりの気持ちよさに酔ったようになって
目を瞑っていた。



…一気に取り去る…

私は妄想した。
例えばミクロの世界として。
「耳掻き」は工事現場でいうところの
「パワーショベル」のようなものか?
とても荒い取り方をしている。
出来れば、手で持つスコップぐらいの繊細な器具で
耳掻きできないだろうか?
小さくなった私がスコップを持って耳の中に入る、
そして、耳毛の付け根に詰まっている耳垢を
全部掘り出したい。
まるで溝掃除のように。
古い角質と脂分が混ざったネットリして、
ところどころ乾燥した耳垢を、私は掘り出しいく。
ザクッとひとすくいが土のように重たいが、私は頑張る。
重くてギュウと足元を踏ん張ると、
毛の根元の耳垢腺から透明な汁が出る。
それはとても苦い液体だ。
溝に溜まっていた耳垢がみるみる水分を含んでいく。
ますます重さを増した耳垢だが、私は負けない。
あらかた溝が綺麗になったら、
耳毛に寄りかかって休憩する。
すると、耳毛が斜めに倒れて、毛の根元から
分泌液が出る。シュワワッ……
いままで「栓」をされていたのだ。
こんどは新鮮な分泌液だ。

耳掃除をされている大きい私は、
小さい私の作業中は
掻き毟りたくなるぐらい痒いが我慢しなければならない。



店主は準備が済んだようだ。

「歯科で歯垢を徹底的に除去する時に使う、
小さな円筒形のラバーが回転する器具を
ご存知ですか?」
「はい。」
「私はそれを耳掃除専用として改造しました。」

カチリ☆…
店主は器具を取り出した。※下記参照

「この器具の先端は円筒形のシリコンラバーです。
ジェルがまとわりつきやすいように
螺旋状の溝が刻まれています。」
店主は緑色の専用ジェル(洗浄用)を
円筒の中に埋め込んだ。
スイッチを押すとヴーンとかすかな音がしながら
回転した。
手で持つ部分は、ずっしりとした銀色の金属だ。
「本格的な医療器具なのでとても安定した回転をします。
耳壁を専用のジェルでマッサージしつつ
耳壁を揉みながら、耳掻きでは取りきれない
かすかな耳垢や、脂分を絞りだして洗浄します。」

器具を耳の中に入れた。
クルクルと高速回転しているのがわかる。
シリコンラバーを耳壁にくっつけた、
すると皮膚がグニュグニュと揉みほぐされる。
ジェルのニュルニュルした泡がいつの間にか
出てきていて摩擦を少なくしている。
ムニュ…ウニュ…ムニュ……
…心地よい。
耳毛もその方向になびいているようだ。
気持ち良い…マッサージされているようだ。
毛穴の余分な脂分や老廃物が揉み出されていた。

シリコンラバーの先端を取り替える。
円筒形から、円錐形へ。
これも、螺旋状の溝が刻まれている。

「こんどはシリコンラバーの先端が尖っています。
耳垢が溜まりやすい部分や痒い部分、
代謝が激しく垢が溜まりやすい部分を
ピンポイントで洗浄できます。」
耳壁が歪に曲がっている部分や
耳壁の凹みに先端が触れる。
その凹みは、耳垢が特に溜まりやすい場所だった。
そういった日頃、特に痒い部分を
ツンツンとつつかれるような感覚で
高速回転のマッサージを受ける。
背筋がビクビクするぐらい気持ちよい。
クリュクリュクリュ……アワアワアワアワ……クリュクリュ……
クルクルクルクルクル………

店主は太めの注射器を出した。
注射器の先端は針ではない。
青くて細いゴムの筒がついている。

注射器には温水が入っていた。
「すすぎます。」
プチューーーー!!!

耳に注射器で温水を入れた。
なまぬるい感触が耳の中に広がる。
さっきの泡と混ざりあっていた。
よく耳が聞こえない。

「こんどは吸います。」

注射器を反対方向に引く。
ズオオーーーーーーーッ!!!

温水は耳から排出される。
注射器の中には、
無数のカスが浮いていた。
茶色い大きなものや
白い小さなものまで…耳垢だ。

すっきり、音の聞こえがよくなった。
耳壁が風呂上りのようにすっきりしていた。

やさしく入れたり出したりするので、
気持ちいい。
その「すすぎ」を何回かくりかえした。

耳の中はすっかり綺麗になった。
スースーとした。
耳の中が寒ほどだ。

「これだけの器具をそろえるのに、
億のお金がかかっています。」
「すごいですね。」
「あなたは、店がオープンして
すぐに来てくださったし、
機械の試運転に協力していただいたので、
割安にしておきます。」
「ありがとうございます。」

若い店主は言った。
「実は、私は中国人です。
…こういってはナンですが、
私はお金持ちの子供なんです。
私は耳掻きが大好きで、儲けを
あまり考えないでこの店を開いたのです。
父が中国でエステ店を経営していますので、
よかったら行ってみて下さい。
父の店も耳掻きに関しては
相当こだわっています。これは割引券です。」
「ありがとうございます。中国に行ってみます。」

私は中国に旅立つことにした。

このページへのコメント

万国共通ではないがアジアでは耳かき店はめっちゃ多いよ

0
Posted by あ 2018年01月15日(月) 00:52:46 返信

耳かきは万国共通だったのか…

0
Posted by 777 2017年03月18日(土) 09:34:27 返信

これはとても良い作品…+810点

0
Posted by ぼくひで 2016年07月24日(日) 23:54:10 返信

オチが面白かった(小並感)

1
Posted by 悶絶壮年 2016年04月03日(日) 04:53:43 返信

前編から店主の日本語に違和感があったがやはり外国人か
よく出来てるな

1
Posted by  2014年09月20日(土) 08:09:37 返信

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