時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

モンゴル民族共同体
GroßMongolian National Commonwealth

国旗

国章
国の標語なし
国歌モンゴルの国歌
公用語モンゴル語
首都ウルガ
最大の都市
政府
 民族代表ダジン・ビャンバスレン 
 執政委員会議長メンダサイハン・エンフサイハン
面積
総計  1,564,116㎢
人口
総計  300万人
GDP
50億USD
建国人民共和国の解体 1949年12月31日
民族共同体設立 1950年1月1日
通貨トゥグルグ
時間帯UTC+7
ISO 3166-1MN/MNG
ccTLD.mn
国際電話番号976
モンゴル民族共同体(英:Mongolian National Commonwealth)は、は、モンゴル民族評議会-蒼狼-が政権下の、1950年以降のモンゴル国の通称である。

国名

正式名称は、モンゴル語(キリル文字)表記でугсаатны нийгэмлэг (オグサトゥニー・ニアイジェメレ)、ラテン文字転写はugsaatny niigemleg。

日本語の表記はモンゴル民族共同体。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。

モンゴル語名「オグサトゥニー・ニアイジェメレ」の「オグサトゥニー」は「国」、「ニアイジェメレ」は「共同体」を意味する。

歴史

ボクド・ハーン政府

20世紀に入ると、欧米列強の植民地主義に圧倒され、清朝の衰退が顕著になっていた。そんな中、かねてより清の統治に不満のあった外蒙古諸王公は清朝からの分離独立を模索していた。1911年10月、辛亥革命によって清の実効統治が急速に弱体化すると、外モンゴルのハルハ地方の諸王侯はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意した。同年12月、モンゴル最高の活仏であるジェプツンダンバ・ホトクト8世を清朝皇帝に代わる君主としてボグド・ハーンに推戴する儀式が挙行された。こうして誕生したボグド・ハーン政権は、1913年には、同じく清朝からの独立運動を展開していたチベットとの間で相互承認条約を締結した。ボグド・ハーン政権の統治機構は清朝のそれをほぼ承継し、速やかな政府構築を行なった。また、内蒙古では諸王公の多くが1912年にはボグド・ハーンに帰服したため、南部境域安撫大臣を設け、1913年1月にはモンゴル軍を派遣し、一時はその大部分を制圧したが、政権の後ろ盾であるロシア帝国が中華民国北京政府との関係悪化を懸念し、モンゴル軍の内蒙古からの撤退を要求したため、断る術の無いボグド・ハーン政権は国土統一を目前にして撤収を余儀無くされた。

1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外蒙古は自治のみが承認された。内蒙古でも独立を目指す動きが見られたが、内蒙古の大半の地域が漢民族居住地になっており、中国は内蒙古を手放そうとしなかった。また、漢民族が主体の内蒙古を併合することで政権の主導権を奪われることを恐れたモンゴル人の思惑もあり(既に内蒙古では、漢族がモンゴル族の5倍近い人口となっており、内蒙古をモンゴル領とした場合、モンゴル族より漢族の数の方が多くなってしまう可能性があった)、内外蒙古の合併は実現しなかった。

1917年、ロシア革命が勃発して外モンゴルの後ろ盾だったロシア帝国は崩壊したため、首相のトグス・オチリン・ナムナンスレンは中国からの防衛を要請するために赤軍と接触するも失敗し、1919年には中国軍が侵攻してモンゴル人国家は一時的に崩壊し、外モンゴルは中華民国の統治下に入った。しかし、1920年、赤軍との内戦を行っていたウンゲルン率いる白軍がモンゴルへ侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。

ウンゲルンはモンゴルの問題に干渉せず、ボグド・ハーンの命令に従っていくつかの問題でのみモンゴル人を支援した。一方、ロシアの入植者は、レオニード・シパイロが率いるウンゲルンの秘密警察局から残虐行為を受けた。モンゴルの民族主義者はこれを喜んだが、社会主義者はこれに苛立ちを覚え、ボクド・ハーンに依頼し、ウンゲルンにバイカル遠征を開始させた。序盤こそ優勢だったが、徐々に押され、1921年9月15日に、赤軍により処刑された。

その間に、ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主として戴くモンゴル人民政府が樹立された。この革命にはナヴァーンネレンといったモンゴル王公らも賛同した。新生モンゴルは立憲君主国として出発し、ソビエト連邦の強い影響下で国家運営が行われた。

しかし、1924年にジェプツンダンバ・ホトクト8世が死去するとモンゴル人民政府は君主制を廃止し、政治体制を人民共和国へと変更してモンゴル人民共和国が成立した。ソビエト連邦に次ぐ世界で2番目の社会主義国となったモンゴルは、その後ソビエト連邦と歩調を合わせ、その衛星国となった。

人民共和国

1921年、ボドー、ダンザン、ドクソムらの指導、ダムディン・スフバートルの軍事的活躍とソビエト連邦(ソ連)の赤軍の支援でボグド・ハーン(活仏・化身ラマ)を推戴し中華民国から独立したモンゴルは、1924年にボグド・ハーンの死に際して、コミンテルンの指導もあり、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国を宣言。こうして1924年11月26日にモンゴル人民共和国が誕生した。当時ではソ連に続く世界で2番目の社会主義国家でかつアジア初の社会主義国であった。大晋民国や国民政府はソ連の傀儡国家として独立を認めず、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。また、扶桑も戦前は独立を承認していなかった。
その後も一貫してソ連一辺倒の政策を続け、「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれた。
国内では1930年代以降、ホルローギーン・チョイバルサンやユムジャーギィン・ツェデンバルによる独裁体制を取った。ソ連のような重工業の発展は起こらなかったが、首都のウランバートルでは軽工業の建設と人口の集中が発生し、それ以外の地域では小麦栽培を中心とした大規模農業開拓や牧畜業の集団化及び定住化が起こった。
1942年にソ連邦は独ソ戦に敗北しスターリンの権力が低下した事により極東での反スターリン派閥の活動は活発化し45年にはヨシフ・スターリンが病死したことによる後継者争いである第2次ロシア内戦が勃発する。人口の希薄さや遊牧の存続にも起因した都市や市場の不在により重工業建設は難航したが、ソ連内戦で亡命してきた技術者や流れてきた資本でエルデネト鉱業を設立するなど資源開発は活発に行った。今日でもモンゴル経済は鉱業が中心となっている。
しかし、当時、モンゴルはソ連以外の国との交流がほとんどなく、世界で最も孤立した国の一つであった。そのため、1945年以降、ソ連での官僚主義の失敗を直接受け、内閣主導の国家にする新国家運動が起こる。これを受けて、チョイバルサン首相は人民革命党を解散し、新たに民族評議会-蒼狼-を設立し、5つの派閥を容認した。同時に憲法改正を実施し、新憲法として国母法を制定した。

民族共同体

新国家に移行した2年後の1952年、癌の治療を受けていたチョイバルサンはウルガで死去した。後任の執政委員会議長は、ダラミン・トモール・オチルであった。トモール・オチルは、モンゴルの民族主義を加速させ、「現代的なモンゴル帝国」の建設を目標とした。そのため、現在の第六管区への進出やチンギス・ハーン生誕800年祭など様々な施策をし、GDPは伸び続けた。しかし、その発展には、「モンゴルのための尊厳法」により、多数のユダヤ人や華人、ロシア人が不当に逮捕され、中には死刑にされた者もいた。また、ドイツ人をモンゴル帝国の理想を共にする民族として優遇政策をとった。このような過激な政策は世界から孤立し、1985年に暗殺される。

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