ラコルニア帝国で最も危険な男と称され、皇帝
バルトが拘禁すら命じた程の狂将。
その後、
カルカシア領に送られるが、この地で
ティアに出会い、彼女の慈愛によって性格は多少緩やかになった。
1524年に山賊団
アザルとの戦いに出陣、容赦なく山賊を駆逐するが、
レアルーシの起こした戦いに巻き込まれることを懸念した
ミューゼルは、参戦要求を断る口実を作る為、わざと山賊団との戦いを長引かせることを発案、ウァールが進言した追撃を認めず山賊団を生き残らせた。
しかし、
ティアと
レアルーシが和解し、共に
ロイカーンの戦いへと赴くこととなったことによって状況は一変、後顧の憂いをなくすため方針が転回され、ウァールは山賊討伐部隊を率いて再度出陣し、
アザル山脈に攻め込んだ。
緒戦は地の利を利用して討伐軍を翻弄した山賊団であったが、この戦法に苛立ったウァールは、
ビッキーに命じて山に火をつけ、
アザル山賊団の半数を焼き殺した。
このことから、彼は「殺戮卿」と呼ばれる事となる。
ロイカーンの戦いの際には
ラコルニア軍先鋒部隊として自ら前線に立ち獅子奮迅の働きで勝利に貢献。
その後は表立った紛争が起こらなかった事もあり、
ティアの護衛を務め、1531年に彼女が病でその生涯を終えるまで常に側にいて彼女を守り続けた。
その後、彼が歴史の表舞台に再び登場するのは、和平反対派による「
シチル事変」が勃発した時であった。
暗殺団と交戦し、これを退けるも、その後の足跡は不明となる。
その為、多くの史書では「
シチル事変にて暗殺団と相打ちした」として扱っているが、それを裏付ける資料は現在も出ておらず、想像の域を出ない。