あの日々が無ければ、これほどの喜びは感じられなかったかもしれない。
隣を歩く父の横顔を見上げてそう思う。
時に息苦しく感じることもあったが、今となっては、自分の人生に満ち溢れていた幸せを理解することができる。
氷塞都市『コルキド』の王ヴァーンフリートの元に生まれた。
母の記憶は無い。
私の出産と同時に命を落としたらしい。
片親となった自分に待っていたのは、冷たい氷の壁に囲まれた世界の中で行われる父からの厳しい躾と教育だった。
「ヴァレアナ。いつまで起きているつもりだ。早く休め」
「は、はい!お父様……」
「何をしていた?」
「えっと……その……痣(あざ)が気になって鏡を……」
「気にする程のものか。そんなものに気を揉んで睡眠不足にでもなれば、明日の勉学にも触る。その程度のこともわからぬか?」
「はい……申し訳ありません……」
右腕にうっすらと刻まれている痣。
自分はその痣が大嫌いだった。
普段は服の袖で隠しているが、気が付いたときにはそこにあり、どこか骸骨のようにも見えるそれが不気味で堪らなかったからだ。
そして、大嫌いなものがもう一つ。
実の父、ヴァーンフリートである。
彼の厳しさは嫌というほど染み付いており、その声を聞けば体は緊張し、つい背筋が伸びる。
それだけならばよくある話。
人に言わせれば教育熱心な父。
この一言で済まされてしまうだろう。
当然、私が父を嫌う一番の理由は他にある。
――冷酷
父をたった一つの言葉で表現するとしたら、ここまで似つかわしい言葉は他にはない。
私が生まれる以前の父の話は調べるまでもなく耳に入ってきた。
独裁政治による恐怖支配。
弟の首を自らの手で刎ねて、眉一つ動かさなかった姿を目にした城の者達。
私の出産に立ち会うことよりも政務を優先する姿勢。
母の葬儀の場でも涙一つ流さず、そのまま淡々と式を済ませた事実。
その言葉を印象付ける話は他にもいくらでもある。
父を知れば知る程、私の中での苦手意識は密かな憎悪の念へ姿を変えていき、次第に父を避けるようになっていった。
今となっては同じ城で暮らすことさえ嫌悪感を抱く。
非情な父の元に生まれたことを恨み、そのどうしようもない想いで執事に八つ当たりすることもしばしば。
しかし、そんな父から受け取ったものの中に、一つだけ喜ばしく思うものがある。
あれは私が五歳の誕生日を迎えた時の事だった……
「お呼びですか?お父様」
「うむ。お前にこれを授ける」
差し出されたのは、まるで氷そのものが形どったかのような美しい弓だった。
「これは……誕生日……祝いですか?」
「正確にはその前の儀式だ」
その意図がわからなかった。
今になって娘のご機嫌伺いのつもりだろうか。
いぶかしむように父の顔を見上げると、いつもの冷たさのような威厳が感じられない。
無表情を装いながらも、どこか緊張した面持ちにも見えた。
ますます不審に思い、父の後ろに控える大臣達の様子を伺うと、皆どこか焦っているような、複雑な表情を浮かべている。
「さぁ。受け取れ……」
「……はい」
拭いきれない不信感。
父の思惑通りに動くことに思うところもあった。
しかし、理由はわからないが、目の前の弓に惹かれるものを感じたのは確かだった。
恐る恐る弓に手を伸ばす……
「え!?」
「これは……!」
弓に手が触れた瞬間。
突如強烈な光を発したかと思えば、右腕に燃えるような熱を感じた。
「お、お父様……!!」
「案ずるな!」
「でも……腕が……!」
何が起こったのかわからず、慌てふためく私に対しての妙に落ち着いた父の言葉。
異変はその言葉を裏付けるように、次第に収束していった。
暫らくの静寂。
辺りの面々を見渡すと、驚きを隠せない様子の大臣達と、意表を突く満面の笑みの父。
それは私の前で父が初めて見せた笑顔だったような気がする。
そういえば、この直後くらいだっただろうか。
いつの間にか腕の痣は消えていた。
「素晴らしい腕前にございます。姫様」
「ありがとう!」
五歳の誕生日からおおよそ十年。
王家の名に恥じぬ振舞いと器量を身に着けるべく、ありとあらゆる教育と鍛錬に打ち込んできた。
それは、弓の稽古もまた同様である。
初めは慣れない弦の扱いに苦戦した。
手の至る所にマメを作っては破け、またその上にマメができ、日に日に武人の手の形ができていく。
とてもお姫様の手とは思えない代物ではあったが、その代償として、腕前は人並外れた速さで上達し、今や指南役さえも舌を巻く程となった。
「才能に溺れず、ひたむきの努力し続けた賜物でございますね」
「そんな立派なものではありません。誇れるようなものではないのです……」
その言葉を口にしてもらいたい人は他にいる。
ほんの少しでも自分を認め、優しい言葉をかけてもらうことができればという秘めた想い。
しかし、今に至るまでその想いは果たされていない。
ある日、思い立った私は父の書斎を訪れた。
いつまでもこのままではいけない。
やがては父の政務を手伝う身となる。
こんな状態のままで満足のいく成果が得られるはずも無い。
父との関係を良いものとした上で、将来を考えていきたかった。
――コンコンッ
「誰だ?」
「ヴァレアナです。お話したいことがあります。少しお時間を頂けますでしょうか?」
「うむ……入れ」
父は思いの外すんなりと部屋へと招き入れてくれた。
「こんな時間に何だ?」
「申し訳ありません。どうしてもお父様と二人で話がしたかったのです」
「そうか……で、話とは?」
「その……」
いざとなると心が竦む。
ここにきて口籠る自分に対し、さぞ父は苛立っているだろうと、恐る恐るその顔を見上げる。
「早く話せ」
父は怒ってなどいなかった。
ただただ真剣に、まるで政務に臨むかのような表情で私の言葉を待っていた。
何故かそれが無性に嬉しく、涙と共に言葉が溢れ出た。
「お父様は……私のことをどうお思いなのでしょう……?どうしていつも冷たくするのですか?なぜ優しい言葉の一つもかけてはくださらないのですか!?私は頑張りました!お父様に認めて頂けるよう必死に努力しました!!」
「あぁ。話は聞いている。良くやっているそうだな」
「……っ!?」
まるで駄々をこねる子供。
自分自身がそう思えてしまい、急に恥ずかしくなる。
そうではない。
ここに来たのは、これまでにできてしまった父との溝を埋めるため。
「……お父様はお母様を愛していらっしゃいましたか?」
一瞬。
まじまじと見ていなければ気付くことが出来ぬほどに微かなものだったが、確かに父の身体がピクリと硬直した。
「……無論だ」
口にすると共に、緊張の気配はすぐに影を潜めた。
「お母様が私を産み、危篤になられた際には傍におられなかったと聞きました。葬儀の際も、涙一つ流さなかったと噂されています!それは本当ですか!?」
「……事実だ」
「そんな…………そんなにも政務が大事ですか?愛するはずの家族よりも優先すべきことですか?」
「それが王たる務めだからだ」
不可能だ。
父との溝は絶対に埋められない。
どうしようもなく父の考えが理解できなかった。
「話はそれだけか?済んだなら早く部屋に戻れ。まだ仕事が残っている」
「くっ……!!」
私は部屋を飛び出した。
そして泣いた。
一晩中、泣いた。
それから数日が経ったが、父とは口をきくどころか、目も合わせてはいない。
この時、自分の心は既に決まっていた。
もうこのままで良いと。
「姫様!一大事に御座います!」
「大臣?どうしました?そんなに慌てて」
「王が!ヴァーンフリート王が!!」
「お父様が何か……?」
突如、父がいなくなった。
あの父が仕事を放り出すような真似をするとは到底思えない。
だとすれば、何か事件に巻き込まれたか、国を揺るがすような一大事が……
「いつからなのですか?」
「わかりません……少なくとも今朝、なかなかお目覚めにならないお父上にお声がけした際には既に……」
困り顔で説明する大臣。
その後ろの面々も同じ表情を浮かべている。
この時、口にこそしなかったが、私の心境は彼らとは真逆のことを考えていた。
――あのような人、いっそのこと戻らなくても……
大臣達には悪く思ったが、ハッキリ言って父の捜索を進んで行おうという気にはなれなかったのだ。
自分と父の関係は、それ程までに埋めようのないところまで発展している。
少なくとも私自身はそう思っていた。
「実は……ヴァーンフリート王の行方に、一つだけ心当たりが御座います」
「心当たり……それはどこですか?」
「王家の方々のみその扉を開くことのできる書斎にて御座います」
「そんなものが……」
「申した通り、王家の血を継ぐ方々にしか開けぬ扉ゆえ、我々ではそこに王のお姿があるかどうかは判りかねます。そこで、姫様にお力添えを頂けないかと参った次第にございます」
「……事情はわかりました。案内してください」
何故、自分が父の捜索を手伝おうと思ったのかと聞かれれば、興味を惹かれたということが主たる理由だろう。
心では決めたつもりでいても、まだ私はどこかで希望のようなものを探していたのかもしれない。
もしかすると、そこに自分の知らない、本当の父の姿。
それを知るための何かがあるかもしれないと。
「こちらにて御座います」
「これが……」
案内されたのは父の部屋だった。
先日ここを訪れた際には気にも留めなかったが、窓側とは逆の壁にもカーテンがかけられており、その裏に隠すようにして扉が設けられていた。
「術式により封印が施されております。定められた符丁を王家の人間が発することによってのみ、その封印を解くことができるのです」
「定められた符丁……」
符丁。
それは父が定めた合言葉。
父だけが知る秘密の言葉。
「どのような言葉かは王しか存じぬことかと。ひとまず、我らが符丁であると思しき言葉を幾らか考えておりますゆえ、姫様には順にそれらを読み上げて頂ければ、と」
「わ、わかりました……」
一体、この扉の奥には何が。
予想される符丁が羅列された紙を大臣より手渡され、一つ深呼吸を置いた後、ゆっくりと声にしていく。
「コルキド…………グラース…………三種の神器…………民を豊かに――――」
――――――
――――
――
「――――エーデルライン…………新月…………心映しの儀………………これで、全てです……」
「……どれも違ったようですな。姫様……何か他に合言葉に用いられるような言葉に心当たりは御座いませんでしょうか?」
「私がですか……?」
無理だ。
長年の間、毎日父の傍で国を支えてきた大臣達ですら答えに辿り着くことは出来なかったのだ。
いくら実の娘とはいえ、常日頃から父を嫌い、父を知ることから逃げてきた自分にわかるはずもない。
「お願い致します……」
「あ……私は……」
「…………」
私と父の関係について、大臣達とて知らぬわけではない。
頭を下げたまま微動だにしないその姿勢からもそれは伝わる。
「えっと…………」
なんとか思考を巡らせてはみるものの、何も浮かんではこない。
「やはり私には……」
「…………」
それでも固唾を飲みながら頭を下げ続ける大臣達。
彼らは、あの父にどんな理由があってそこまで尽くす気持ちになれるというのだろうか。
全て諦めたはずの自分が、今になってこんな思いをしなくてはならない理由があるのだろうか。
そう考えると、あの夜の記憶が蘇り、ジワリと涙が込み上げてくる。
「何故なのですか……!」
「姫様……?」
「私にわかるはずがありません!お父様がどのような想いで過ごしていたのか……どのようなお考えで王の役目を担っていたのか……何がしたかったかさえもわかりません!!」
「お、落ち着いてくださいませ!」
「もう嫌なのです!認められるはずの無い努力を続けることも!気持ちを押し殺してあの人の近くに居続けることも!!」
自分勝手な父への怒りと憎しみ。
何一つとして得られない無力感と悔しさ。
自身の人生で積もり積もった想いが再び溢れる。
「私がどんな気持ちで生きてきたか……お父様はこれっぽっちも考えてくださらなかった!自ら名付けてくださったという私の名さえも、もう私にとっては呪縛でしかありません……ただの一度さえ“ヴァレアナ”とは呼んでくださらなかった……!」
「姫様!それは違い――む!?なんだ!?」
突如として眩い光を発した目の前の扉。
正確には、扉に施された封印の紋様が光り輝き、間も無くして元の静けさを取り戻した。
「これは……封印が解けた!?」
「ですが……私は合言葉なんて……」
「……ヴァレアナ……だったのでは?」
「え?」
「失礼しました。姫様のお名こそが、ヴァーンフリートの王の定められた符丁だったのでは?」
「お父様が……ヴァレアナと……?」
「もはや疑いようはありませぬ。封印を解くための符丁をお決めになることができるのは王家の当主のみ。恐らくは、姫様がお生まれになってから、王が自ら姫様のお名をそのまま符丁に定められたのかと」
「なぜ……私の名前を……」
「その答えも、ここにあるのではないかと……さぁ、姫様」
促されるようにして扉に手をそっと触れると、重そうに見えるそれは意図も容易く開かれ、隠されていた部屋が皆の前に姿を現した。
高さ二メートル、広さ五メートル四方程だろうか。
思いの外、小さな部屋だった。
奥に申し訳程度に備え付けられた小さな机。
そして部屋を囲むようにして、天井の高さと同じ背の本棚がズラリと並び、そこにはびっしりと本が収められている。
王家以外の者が立ち入ることは許されぬ部屋。
そこに父の姿は無かった。
部屋の外で溜め息をつき、次の当てを議論し始める大臣達。
その時、机に置かれていた一冊の本が目に入った。
おもむろに部屋へと足を踏み入れた私は、それを手に取り適当にページを開く。
――〇〇〇〇年〇〇月〇〇日。
父の命日が今年もやってきた。
去年からのたった一年でも国は変わるものだ。
今日も南側での貴族による直轄区反対運動の対応に追われる。
「……日記?このほとんどが!?」
几帳面に並べられた本達の数は、優に数千冊を数えるだろう。
その全てではないにしろ、膨大な数の日記の一冊一冊全てにコルキドの歩んだ歴史が事細かに記されているのかと思うと、この部屋の空気が急に重たく感じられた。
最も古く見える一冊を観察しただけでも、その年季の入りようがわかる。
恐らく、父、祖父、曾祖父、その遥かずっと昔から受け継がれてきたものなのだろう。
再び手にした日記へと目を落とす。
――余のやり方は本当に正しいのだろうか。
――良くしよう、正しくあろうと行動した結果、更なる軋轢を生んでしまう。
――もしかすると、初めから器ではなかったのではないか。
――自分の不甲斐なさに怒りを覚える。
日記を読み込むほどに聞こえてくる父の心の声。
それは威厳溢れ、国民からも恐れられるコルキドの王のものとは思えないような、ありふれた一人の人間の叫びだった。
自分がうまくやれているか。
こうすべきだったのではないか。
密かに抱えてきた苦悩、葛藤、不安。
そんな人として当たり前の弱さに対しても、このような場でしか正直になることが許されない。
『王』という記号が背負う責任。
異常な生き方こそが正常。
そんな父に対し、自分は、国民たちはどれだけ薄情で残酷な言葉をかけてきたのだろう。
――娘が生まれた。
あれは天使だ。
世界の全てが変わった気がする。
「これは……私が生まれた日?」
日付を確認すると、確かに自分が生まれた十五年前の数字。
なぜ最も新しい日記ではなく、十五年前のものが机にあるのか。
その理由を探すためにもページをめくり続ける。
――ヴァレアナにエーデルヴェルデを授けた。
やはり余の目に狂いはなかった。
これであれは救われる。
良かった。
本当に良かった。
本当に……――――
そのページのインクはグズグズになっており、それ以上読むことはできなかった。
『エーデルヴェルデ』
コルキド王家に伝わる『三種の神器』と呼ばれる三つの武具の一つ。
名前だけは知っている。
叩き込まれたあらゆる教育の中、歴史の勉強をした際にその名を記憶していた。
しかし、今自分の腰に携えている弓こそがエーデルヴェルデであったという事実に、少なからず動揺した。
一体、父はどんな目的で自分にこの弓を預けたのか。
本棚へと目を移し、歴史書や資料文献を探す。
やはりあった。
三種の神器に関わる書物もしっかりと棚に収められている。
埃をかぶった一段と古い本だが、つい最近開かれた痕跡がある。
その中には、エーデルヴェルデを含んだ、神器についての記述が記されていた。
神器『エーデルライン』『エーデルヴェルデ』『エーデルヴィッツ』
この三つの武具の名こそが、コルキド王家に伝わる三種の神器と呼ばれる秘宝。
それぞれ、エーデルラインは城内で代々管理。
エーデルヴェルデは結界の施された塔に封印。
エーデルヴィッツはコルキド領の氷海のどこかに沈んでおり、捜索中とのことだった。
エーデルヴィッツについての情報は詳しく掴めていないのか、それ以上の記述はなされていなかったが、エーデルライン、エーデルヴェルデについては一定の知識が得られた。
盾であるエーデルラインは手にする者の心に反応し、真に純粋な心を持たぬ者にしか扱えず、正を守護し、邪を清める特性を持っている。
弓であるエーデルヴェルデにもまた、同様に特殊な力が秘められていた。
『純粋さ』を特性とするエーデルラインと違い、エーデルヴェルデの特性は『威厳』
その威厳は絶対にして潔癖たる力。
王が王たる姿勢を示し、その心持ちと高潔さを民と共有するための力。
それは悪意や呪いさえも犯すことはできないもの。
つまりは、正を導き、邪を退ける特性である。
では、何故エーデルラインが城内で管理され、所有者に足り得る者に受け継がれてきたのに対し、所在が分かっていながらエーデルヴェルデが封印されていたのか。
それはエーデルヴェルデの所有者の選別に多大なリスクが伴うからであった。
エーデルラインは相応しい所有者にのみその力を行使することができ、相応しくない者にはただの盾としてしか機能しない。
しかし、エーデルヴェルデは相応しくない者が触れれば、その特性である威厳の前にその者も組み伏せられることになり、感情は祓われ、廃人と成り果てる諸刃の剣でもあった。
所有者の選別に際し、これは致命的な欠陥であるともいえる。
その危険性ゆえ、王家しか知らぬ古の塔に安置され、結界を張り封印されたとのことだった。
「お父様はこんなものを私に……」
再び日記を開き、ページを戻す。
必ずあるはずだ。
封印を解き、大きな危険を冒してまで自分にエーデルヴェルデを託した理由が。
ページを自分が生まれた日まで戻し、ゆっくりと父の言葉を読み解いていく。
――娘が生まれた。
あれは天使だ。
世界の全てが変わった気がする。
………………
…………
……
だが、その喜びは束の間、私は絶望した。
娘の右腕に刻まれた呪いの紋。
それを見た時、全てを理解した。
あの魔術師のかけた呪いは、被術者本人を呪うものではなく、その末代までの子孫達を対象とした呪いだ。
あの子の未来はそう長くはないだろう。
なんということか。
「呪いの紋……?」
それが、エーデルヴェルデを父から受け取った際に消えた、右腕の気味の悪い痣のことを指していたのだと直感した。
同時に、私も全てを理解した。
呪いにより、逃れられない死の定めにあった私。
必死に呪いを解く方法を探していた父が、最後の最後に縋った希望こそがエーデルヴェルデ。
父が独断で王家の血でしか解けぬ結界を解き、エーデルヴェルデを実の娘である自分に差し出したのだ。
己が弓の力に呑み込まれる危険もあったはずだ。
仮に父は所有者として認められたとしても、私もまた認められるとは限らない。
もし、そうなれば更に凄惨な事態に陥っていたことだろう。
恐らくは父にとっては人生最大の賭けだったはずだ。
王である自身の運命を賭けることは、コルキドの行く末さえも掛け金に乗せることに等しい。
そこまでして私を救おうとした理由は何だったのか。
もはや疑う余地も無い。
「あぁ……お父様…………!」
ただ、愛ゆえに。
知る由もなかった事実。
気付けなかった父からの愛。
十五歳の誕生日の記述までの間、政務に従事しながらも、必死に自分を救おうと奔走していた父の姿が描かれていた。
目蓋に溜まっていた涙はとうとう溢れ出し、ページの上のインクを滲ませる。
父もこうして一人、喜びの涙を零したのだろう。
それからの日記には、私のことばかりが綴られていた。
――最近、ヴァレアナの帰りが遅い。
政務の手伝いも良いが、万が一にも悪い遊びを覚えたりせぬよう大臣に至急調整させねばなるまい。
――大臣からヴァレアナに結婚を勧めてみてはと進言された。
余程、我の怒りを買いたいらしい。
ヴァレアナに目を付けた事は評価に値するが、あれを政治に利用するなど、どこまでもふざけた考えだ。
無論、どこぞの馬の骨とも知れん軟弱者に渡すこともあってはならぬ。
突然の事に取り乱しかけたが、よくよく考えれば何か理由があったはずだ。
もしや、先日届いた見合い話にも関係があるのだろうか。
あれは我の耳に入った時点で握り潰したため、大臣は知らぬ事実のはず。
ならば何か別の画策がここで起ころうとしているということか。
既に城内に手のものを潜ませているとは敵ながら見事な手際の良さだ。
しかし我の目を誤魔化せるものと思わぬことだ。
ヴァレアナの平穏は必ず守ってみせる。
「お父様……こんなにも私のことを……」
――場内を寝間着のまま出歩いていたヴァレアナを注意した。
少しの間といえど、もしもあのような姿を城の男共に見られでもすれば、どんな劣情を生むか知れたものではない。
城内の秩序を守ることもまた王たる務め。
まずはヴァレアナに相応の寝間着を用意することにする。
機能性は勿論のこと、王家の娘に相応しい威厳あるものを仕立てさせなければならぬ。
「お、お父様……?」
――昨日、少々厳しく叱り過ぎたことが原因だろうか。
ヴァレアナと口を利かなくなって三日が経過した。
素直に謝罪の言葉を口にすれば許してもらえるだろうか。
しかし、どのような言葉をかけるべきなのか分からぬ。
こんなこと、大臣達にも相談できるはずも無い。
どうすれば良いのだ。
「………………」
なぜだろう。
父の知らなかった一面を知る程に、何かが壊れていくような気がする。
――ヴァレアナの本音を聞いた。
父親として失格だ。
民のためを想い、後ろ指を指されようとも立ち止まることをしないと誓った。
それは我にとっての光であるあの子のためにもなるはず。
なんとしても護りたかった。
だが、どうやら我は過ちを犯していたようだ。
娘との僅かなひと時さえも犠牲にした結果がこれだ。
何も知らず、理解しようともしなかった。
たった一人の最愛の娘を泣かせて何が国の王か。
もうヤメだ。
「この日は……」
自分にとってもあまり思い出したくはないあの夜の日付。
日記はそこで終わっていた。
「それではダメだと言っておるだろう!国民に気付かれでもすればパニックになるぞ!?」
「機密性を重視すれば人員が割けぬ!もしものことがあればお主、責任は取れるのだろうな!?」
部屋の外から大臣達の声が響いてきた。
どうやらこれからの対策について煮詰まっている様子。
「すみません。お待たせしました」
「おぉ、姫様!何かありましたか!?」
「残念ですが、お父様の行方に関する手がかりは何も……とりあえず、一度落ち着きましょう。熱くなった頭では良い案も浮かびません」
「そう……ですな。皆、暫し休息を取ろう。また後程、会議室に集まるということで」
「承知した」
「うむ。そうするか」
その場を解散し、父の部屋に静けさが戻っていく。
最後に部屋を後にしようと待っていた時、一人の大臣に声を掛けられた。
「姫様も少しお体を休められると良いでしょう。朝食もお取りになっておられないのに、もう昼過ぎです」
「ありがとう……そうさせてもらいます……」
「姫様?顔色が優れないようですが、何かありましたかな……?」
「……お父様の日記を読みました。後で皆にも伝えますが、どうやら先日、私がお父様とお話したことが今回の発端のようです……」
「あぁ……やはり、あの晩のことですな」
「聞いていたのですか!?」
「いえ。断じてそのような真似は。ただ、姫様がお父上の部屋を後にされるのを目にしたものですので」
「そう……でしたか。失礼しました。許してください」
「いえ。とんでもございません。ただ、そのままお父上の部屋の前を通った際、部屋の中からお父上がお泣きになられているような声をお聞きしました。姫様が去られた直後の事です」
「そんな……」
一度自室へと戻り、私は泣いた。
父の秘めていた愛を理解せず、それどころか彼を嫌い、憎んでいた自分を恥じる気持ちと、父への謝罪の念からの涙だった。
気が付くと、窓の外では陽が落ちていた。
泣き疲れ、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
会議の予定だったが、どうやら大臣が気を利かせて起こさずにいてくれたのだろう。
落ち着きを取り戻した心に溢れる想い。
父にただ謝りたい。
できることなら、やり直したい。
そして私は淡々と旅の準備をする。
一人で父を探すための。
「どこへ行くつもりだ……?」
「え!?」
背後から突然かけられた声。
ビクッと体を震わせ、ゆっくりと部屋の扉の方を振り返る。
「お……お父様?」
「黙って城を留守にしてしまった。大臣共はさぞ慌てていたことだろうな」
父は髭を凍らせ、身体のあちこちに雪を積もらせていた。
さらには明らかに見て取れる疲れ。
何か特別な事情があったのだろうか。
「これまで一体どちらへ行かれて――」
違う。
今、かけるべきはそのような言葉ではない。
「お父様。ヴァレアナは、お父様にお伝えしなければならないことがあります」
「……聞こう」
――――――
――――
――
「むぅ!?あ、あの日記を読んだのか!?あれは人に見せるようなものでは……」
いつになく動揺する父。
例え実の娘であろうとも、他の人間の日記を勝手に読み漁るという行為は不埒なものであり、しかもそれが国を治める国王の私物となれば事はさらに重大。
自分の知らない父の本音。
それを知りたいという好奇心から取った行動の軽率さをここにきて痛感した。
「お、お父様に黙って勝手なことを……申し訳ありません……!」
「いや…………そうか……少し取り乱した。すまぬ」
「ですが、私は――」
「構わぬ。何度も口にしようとしたが……ふふ……我には向いていなかった。結果的にはこれで良かったのかもしれぬ」
「お父様……」
言葉を遮られた瞬間、怒りの声を覚悟したが、父から向けられる言葉と眼差しはとても穏やかで静かなものだった。
「ヴァレアナ。我と一緒に来てはくれぬか?我はお前との時間を取り戻したい。だが、その前に一つだけやらねばならぬことがある。お前にも手伝って欲しい」
ヴァレアナ。
なんの感慨も沸かない自身の名。
その一言だけで心に張られた氷が瞬く間に解けていく。
「…………」
「む!?や、やはり嫌と申すか……?」
「いいえ。初めてお父様の口から名を呼んでいただきました」
「あぁ……そうであったな。すまぬ」
「ふふ……喜んでお供させていただきます。私がお父様にしたことへの償いが、その程度のことで済むはずもありませんが、これからずっと、少しずつ返していこうと思います」
「……感謝する」
「はい!」
あの日々が無ければ、これほどの喜びは感じられなかったかもしれない。
隣を歩く父の横顔を見上げてそう思う。
時に息苦しく感じることもあったが、今となっては、自分の人生に満ち溢れていた幸せを理解することができる。
明けかけた夜空に物思いにふける父。
その父の手を握り、私は引っ張るようにして国の外へと歩き出した。
「そういえばお父様。まずは呪いを解いて頂いたお礼をいなくてはなりません。何か私にできることはありますか?」
「気にすることではない。あれは我の独断でしただけのこと。それにより多少国を騒がせもした。反省せねばならぬが、お前が気にすることではない」
「構いません。私にできる事なら何でもおっしゃってください」
「ん?むぅ……そうだな……」
「お父様?」
「で、では……一度だけで良い。一度だけ……『パパ』と……呼んでみてはくれぬか?」
「…………それ以外でお願いします」
「……うむ。忘れろ」
隣を歩く父の横顔を見上げてそう思う。
時に息苦しく感じることもあったが、今となっては、自分の人生に満ち溢れていた幸せを理解することができる。
氷塞都市『コルキド』の王ヴァーンフリートの元に生まれた。
母の記憶は無い。
私の出産と同時に命を落としたらしい。
片親となった自分に待っていたのは、冷たい氷の壁に囲まれた世界の中で行われる父からの厳しい躾と教育だった。
「ヴァレアナ。いつまで起きているつもりだ。早く休め」
「は、はい!お父様……」
「何をしていた?」
「えっと……その……痣(あざ)が気になって鏡を……」
「気にする程のものか。そんなものに気を揉んで睡眠不足にでもなれば、明日の勉学にも触る。その程度のこともわからぬか?」
「はい……申し訳ありません……」
右腕にうっすらと刻まれている痣。
自分はその痣が大嫌いだった。
普段は服の袖で隠しているが、気が付いたときにはそこにあり、どこか骸骨のようにも見えるそれが不気味で堪らなかったからだ。
そして、大嫌いなものがもう一つ。
実の父、ヴァーンフリートである。
彼の厳しさは嫌というほど染み付いており、その声を聞けば体は緊張し、つい背筋が伸びる。
それだけならばよくある話。
人に言わせれば教育熱心な父。
この一言で済まされてしまうだろう。
当然、私が父を嫌う一番の理由は他にある。
――冷酷
父をたった一つの言葉で表現するとしたら、ここまで似つかわしい言葉は他にはない。
私が生まれる以前の父の話は調べるまでもなく耳に入ってきた。
独裁政治による恐怖支配。
弟の首を自らの手で刎ねて、眉一つ動かさなかった姿を目にした城の者達。
私の出産に立ち会うことよりも政務を優先する姿勢。
母の葬儀の場でも涙一つ流さず、そのまま淡々と式を済ませた事実。
その言葉を印象付ける話は他にもいくらでもある。
父を知れば知る程、私の中での苦手意識は密かな憎悪の念へ姿を変えていき、次第に父を避けるようになっていった。
今となっては同じ城で暮らすことさえ嫌悪感を抱く。
非情な父の元に生まれたことを恨み、そのどうしようもない想いで執事に八つ当たりすることもしばしば。
しかし、そんな父から受け取ったものの中に、一つだけ喜ばしく思うものがある。
あれは私が五歳の誕生日を迎えた時の事だった……
「お呼びですか?お父様」
「うむ。お前にこれを授ける」
差し出されたのは、まるで氷そのものが形どったかのような美しい弓だった。
「これは……誕生日……祝いですか?」
「正確にはその前の儀式だ」
その意図がわからなかった。
今になって娘のご機嫌伺いのつもりだろうか。
いぶかしむように父の顔を見上げると、いつもの冷たさのような威厳が感じられない。
無表情を装いながらも、どこか緊張した面持ちにも見えた。
ますます不審に思い、父の後ろに控える大臣達の様子を伺うと、皆どこか焦っているような、複雑な表情を浮かべている。
「さぁ。受け取れ……」
「……はい」
拭いきれない不信感。
父の思惑通りに動くことに思うところもあった。
しかし、理由はわからないが、目の前の弓に惹かれるものを感じたのは確かだった。
恐る恐る弓に手を伸ばす……
「え!?」
「これは……!」
弓に手が触れた瞬間。
突如強烈な光を発したかと思えば、右腕に燃えるような熱を感じた。
「お、お父様……!!」
「案ずるな!」
「でも……腕が……!」
何が起こったのかわからず、慌てふためく私に対しての妙に落ち着いた父の言葉。
異変はその言葉を裏付けるように、次第に収束していった。
暫らくの静寂。
辺りの面々を見渡すと、驚きを隠せない様子の大臣達と、意表を突く満面の笑みの父。
それは私の前で父が初めて見せた笑顔だったような気がする。
そういえば、この直後くらいだっただろうか。
いつの間にか腕の痣は消えていた。
「素晴らしい腕前にございます。姫様」
「ありがとう!」
五歳の誕生日からおおよそ十年。
王家の名に恥じぬ振舞いと器量を身に着けるべく、ありとあらゆる教育と鍛錬に打ち込んできた。
それは、弓の稽古もまた同様である。
初めは慣れない弦の扱いに苦戦した。
手の至る所にマメを作っては破け、またその上にマメができ、日に日に武人の手の形ができていく。
とてもお姫様の手とは思えない代物ではあったが、その代償として、腕前は人並外れた速さで上達し、今や指南役さえも舌を巻く程となった。
「才能に溺れず、ひたむきの努力し続けた賜物でございますね」
「そんな立派なものではありません。誇れるようなものではないのです……」
その言葉を口にしてもらいたい人は他にいる。
ほんの少しでも自分を認め、優しい言葉をかけてもらうことができればという秘めた想い。
しかし、今に至るまでその想いは果たされていない。
ある日、思い立った私は父の書斎を訪れた。
いつまでもこのままではいけない。
やがては父の政務を手伝う身となる。
こんな状態のままで満足のいく成果が得られるはずも無い。
父との関係を良いものとした上で、将来を考えていきたかった。
――コンコンッ
「誰だ?」
「ヴァレアナです。お話したいことがあります。少しお時間を頂けますでしょうか?」
「うむ……入れ」
父は思いの外すんなりと部屋へと招き入れてくれた。
「こんな時間に何だ?」
「申し訳ありません。どうしてもお父様と二人で話がしたかったのです」
「そうか……で、話とは?」
「その……」
いざとなると心が竦む。
ここにきて口籠る自分に対し、さぞ父は苛立っているだろうと、恐る恐るその顔を見上げる。
「早く話せ」
父は怒ってなどいなかった。
ただただ真剣に、まるで政務に臨むかのような表情で私の言葉を待っていた。
何故かそれが無性に嬉しく、涙と共に言葉が溢れ出た。
「お父様は……私のことをどうお思いなのでしょう……?どうしていつも冷たくするのですか?なぜ優しい言葉の一つもかけてはくださらないのですか!?私は頑張りました!お父様に認めて頂けるよう必死に努力しました!!」
「あぁ。話は聞いている。良くやっているそうだな」
「……っ!?」
まるで駄々をこねる子供。
自分自身がそう思えてしまい、急に恥ずかしくなる。
そうではない。
ここに来たのは、これまでにできてしまった父との溝を埋めるため。
「……お父様はお母様を愛していらっしゃいましたか?」
一瞬。
まじまじと見ていなければ気付くことが出来ぬほどに微かなものだったが、確かに父の身体がピクリと硬直した。
「……無論だ」
口にすると共に、緊張の気配はすぐに影を潜めた。
「お母様が私を産み、危篤になられた際には傍におられなかったと聞きました。葬儀の際も、涙一つ流さなかったと噂されています!それは本当ですか!?」
「……事実だ」
「そんな…………そんなにも政務が大事ですか?愛するはずの家族よりも優先すべきことですか?」
「それが王たる務めだからだ」
不可能だ。
父との溝は絶対に埋められない。
どうしようもなく父の考えが理解できなかった。
「話はそれだけか?済んだなら早く部屋に戻れ。まだ仕事が残っている」
「くっ……!!」
私は部屋を飛び出した。
そして泣いた。
一晩中、泣いた。
それから数日が経ったが、父とは口をきくどころか、目も合わせてはいない。
この時、自分の心は既に決まっていた。
もうこのままで良いと。
「姫様!一大事に御座います!」
「大臣?どうしました?そんなに慌てて」
「王が!ヴァーンフリート王が!!」
「お父様が何か……?」
突如、父がいなくなった。
あの父が仕事を放り出すような真似をするとは到底思えない。
だとすれば、何か事件に巻き込まれたか、国を揺るがすような一大事が……
「いつからなのですか?」
「わかりません……少なくとも今朝、なかなかお目覚めにならないお父上にお声がけした際には既に……」
困り顔で説明する大臣。
その後ろの面々も同じ表情を浮かべている。
この時、口にこそしなかったが、私の心境は彼らとは真逆のことを考えていた。
――あのような人、いっそのこと戻らなくても……
大臣達には悪く思ったが、ハッキリ言って父の捜索を進んで行おうという気にはなれなかったのだ。
自分と父の関係は、それ程までに埋めようのないところまで発展している。
少なくとも私自身はそう思っていた。
「実は……ヴァーンフリート王の行方に、一つだけ心当たりが御座います」
「心当たり……それはどこですか?」
「王家の方々のみその扉を開くことのできる書斎にて御座います」
「そんなものが……」
「申した通り、王家の血を継ぐ方々にしか開けぬ扉ゆえ、我々ではそこに王のお姿があるかどうかは判りかねます。そこで、姫様にお力添えを頂けないかと参った次第にございます」
「……事情はわかりました。案内してください」
何故、自分が父の捜索を手伝おうと思ったのかと聞かれれば、興味を惹かれたということが主たる理由だろう。
心では決めたつもりでいても、まだ私はどこかで希望のようなものを探していたのかもしれない。
もしかすると、そこに自分の知らない、本当の父の姿。
それを知るための何かがあるかもしれないと。
「こちらにて御座います」
「これが……」
案内されたのは父の部屋だった。
先日ここを訪れた際には気にも留めなかったが、窓側とは逆の壁にもカーテンがかけられており、その裏に隠すようにして扉が設けられていた。
「術式により封印が施されております。定められた符丁を王家の人間が発することによってのみ、その封印を解くことができるのです」
「定められた符丁……」
符丁。
それは父が定めた合言葉。
父だけが知る秘密の言葉。
「どのような言葉かは王しか存じぬことかと。ひとまず、我らが符丁であると思しき言葉を幾らか考えておりますゆえ、姫様には順にそれらを読み上げて頂ければ、と」
「わ、わかりました……」
一体、この扉の奥には何が。
予想される符丁が羅列された紙を大臣より手渡され、一つ深呼吸を置いた後、ゆっくりと声にしていく。
「コルキド…………グラース…………三種の神器…………民を豊かに――――」
――――――
――――
――
「――――エーデルライン…………新月…………心映しの儀………………これで、全てです……」
「……どれも違ったようですな。姫様……何か他に合言葉に用いられるような言葉に心当たりは御座いませんでしょうか?」
「私がですか……?」
無理だ。
長年の間、毎日父の傍で国を支えてきた大臣達ですら答えに辿り着くことは出来なかったのだ。
いくら実の娘とはいえ、常日頃から父を嫌い、父を知ることから逃げてきた自分にわかるはずもない。
「お願い致します……」
「あ……私は……」
「…………」
私と父の関係について、大臣達とて知らぬわけではない。
頭を下げたまま微動だにしないその姿勢からもそれは伝わる。
「えっと…………」
なんとか思考を巡らせてはみるものの、何も浮かんではこない。
「やはり私には……」
「…………」
それでも固唾を飲みながら頭を下げ続ける大臣達。
彼らは、あの父にどんな理由があってそこまで尽くす気持ちになれるというのだろうか。
全て諦めたはずの自分が、今になってこんな思いをしなくてはならない理由があるのだろうか。
そう考えると、あの夜の記憶が蘇り、ジワリと涙が込み上げてくる。
「何故なのですか……!」
「姫様……?」
「私にわかるはずがありません!お父様がどのような想いで過ごしていたのか……どのようなお考えで王の役目を担っていたのか……何がしたかったかさえもわかりません!!」
「お、落ち着いてくださいませ!」
「もう嫌なのです!認められるはずの無い努力を続けることも!気持ちを押し殺してあの人の近くに居続けることも!!」
自分勝手な父への怒りと憎しみ。
何一つとして得られない無力感と悔しさ。
自身の人生で積もり積もった想いが再び溢れる。
「私がどんな気持ちで生きてきたか……お父様はこれっぽっちも考えてくださらなかった!自ら名付けてくださったという私の名さえも、もう私にとっては呪縛でしかありません……ただの一度さえ“ヴァレアナ”とは呼んでくださらなかった……!」
「姫様!それは違い――む!?なんだ!?」
突如として眩い光を発した目の前の扉。
正確には、扉に施された封印の紋様が光り輝き、間も無くして元の静けさを取り戻した。
「これは……封印が解けた!?」
「ですが……私は合言葉なんて……」
「……ヴァレアナ……だったのでは?」
「え?」
「失礼しました。姫様のお名こそが、ヴァーンフリートの王の定められた符丁だったのでは?」
「お父様が……ヴァレアナと……?」
「もはや疑いようはありませぬ。封印を解くための符丁をお決めになることができるのは王家の当主のみ。恐らくは、姫様がお生まれになってから、王が自ら姫様のお名をそのまま符丁に定められたのかと」
「なぜ……私の名前を……」
「その答えも、ここにあるのではないかと……さぁ、姫様」
促されるようにして扉に手をそっと触れると、重そうに見えるそれは意図も容易く開かれ、隠されていた部屋が皆の前に姿を現した。
高さ二メートル、広さ五メートル四方程だろうか。
思いの外、小さな部屋だった。
奥に申し訳程度に備え付けられた小さな机。
そして部屋を囲むようにして、天井の高さと同じ背の本棚がズラリと並び、そこにはびっしりと本が収められている。
王家以外の者が立ち入ることは許されぬ部屋。
そこに父の姿は無かった。
部屋の外で溜め息をつき、次の当てを議論し始める大臣達。
その時、机に置かれていた一冊の本が目に入った。
おもむろに部屋へと足を踏み入れた私は、それを手に取り適当にページを開く。
――〇〇〇〇年〇〇月〇〇日。
父の命日が今年もやってきた。
去年からのたった一年でも国は変わるものだ。
今日も南側での貴族による直轄区反対運動の対応に追われる。
「……日記?このほとんどが!?」
几帳面に並べられた本達の数は、優に数千冊を数えるだろう。
その全てではないにしろ、膨大な数の日記の一冊一冊全てにコルキドの歩んだ歴史が事細かに記されているのかと思うと、この部屋の空気が急に重たく感じられた。
最も古く見える一冊を観察しただけでも、その年季の入りようがわかる。
恐らく、父、祖父、曾祖父、その遥かずっと昔から受け継がれてきたものなのだろう。
再び手にした日記へと目を落とす。
――余のやり方は本当に正しいのだろうか。
――良くしよう、正しくあろうと行動した結果、更なる軋轢を生んでしまう。
――もしかすると、初めから器ではなかったのではないか。
――自分の不甲斐なさに怒りを覚える。
日記を読み込むほどに聞こえてくる父の心の声。
それは威厳溢れ、国民からも恐れられるコルキドの王のものとは思えないような、ありふれた一人の人間の叫びだった。
自分がうまくやれているか。
こうすべきだったのではないか。
密かに抱えてきた苦悩、葛藤、不安。
そんな人として当たり前の弱さに対しても、このような場でしか正直になることが許されない。
『王』という記号が背負う責任。
異常な生き方こそが正常。
そんな父に対し、自分は、国民たちはどれだけ薄情で残酷な言葉をかけてきたのだろう。
――娘が生まれた。
あれは天使だ。
世界の全てが変わった気がする。
「これは……私が生まれた日?」
日付を確認すると、確かに自分が生まれた十五年前の数字。
なぜ最も新しい日記ではなく、十五年前のものが机にあるのか。
その理由を探すためにもページをめくり続ける。
――ヴァレアナにエーデルヴェルデを授けた。
やはり余の目に狂いはなかった。
これであれは救われる。
良かった。
本当に良かった。
本当に……――――
そのページのインクはグズグズになっており、それ以上読むことはできなかった。
『エーデルヴェルデ』
コルキド王家に伝わる『三種の神器』と呼ばれる三つの武具の一つ。
名前だけは知っている。
叩き込まれたあらゆる教育の中、歴史の勉強をした際にその名を記憶していた。
しかし、今自分の腰に携えている弓こそがエーデルヴェルデであったという事実に、少なからず動揺した。
一体、父はどんな目的で自分にこの弓を預けたのか。
本棚へと目を移し、歴史書や資料文献を探す。
やはりあった。
三種の神器に関わる書物もしっかりと棚に収められている。
埃をかぶった一段と古い本だが、つい最近開かれた痕跡がある。
その中には、エーデルヴェルデを含んだ、神器についての記述が記されていた。
神器『エーデルライン』『エーデルヴェルデ』『エーデルヴィッツ』
この三つの武具の名こそが、コルキド王家に伝わる三種の神器と呼ばれる秘宝。
それぞれ、エーデルラインは城内で代々管理。
エーデルヴェルデは結界の施された塔に封印。
エーデルヴィッツはコルキド領の氷海のどこかに沈んでおり、捜索中とのことだった。
エーデルヴィッツについての情報は詳しく掴めていないのか、それ以上の記述はなされていなかったが、エーデルライン、エーデルヴェルデについては一定の知識が得られた。
盾であるエーデルラインは手にする者の心に反応し、真に純粋な心を持たぬ者にしか扱えず、正を守護し、邪を清める特性を持っている。
弓であるエーデルヴェルデにもまた、同様に特殊な力が秘められていた。
『純粋さ』を特性とするエーデルラインと違い、エーデルヴェルデの特性は『威厳』
その威厳は絶対にして潔癖たる力。
王が王たる姿勢を示し、その心持ちと高潔さを民と共有するための力。
それは悪意や呪いさえも犯すことはできないもの。
つまりは、正を導き、邪を退ける特性である。
では、何故エーデルラインが城内で管理され、所有者に足り得る者に受け継がれてきたのに対し、所在が分かっていながらエーデルヴェルデが封印されていたのか。
それはエーデルヴェルデの所有者の選別に多大なリスクが伴うからであった。
エーデルラインは相応しい所有者にのみその力を行使することができ、相応しくない者にはただの盾としてしか機能しない。
しかし、エーデルヴェルデは相応しくない者が触れれば、その特性である威厳の前にその者も組み伏せられることになり、感情は祓われ、廃人と成り果てる諸刃の剣でもあった。
所有者の選別に際し、これは致命的な欠陥であるともいえる。
その危険性ゆえ、王家しか知らぬ古の塔に安置され、結界を張り封印されたとのことだった。
「お父様はこんなものを私に……」
再び日記を開き、ページを戻す。
必ずあるはずだ。
封印を解き、大きな危険を冒してまで自分にエーデルヴェルデを託した理由が。
ページを自分が生まれた日まで戻し、ゆっくりと父の言葉を読み解いていく。
――娘が生まれた。
あれは天使だ。
世界の全てが変わった気がする。
………………
…………
……
だが、その喜びは束の間、私は絶望した。
娘の右腕に刻まれた呪いの紋。
それを見た時、全てを理解した。
あの魔術師のかけた呪いは、被術者本人を呪うものではなく、その末代までの子孫達を対象とした呪いだ。
あの子の未来はそう長くはないだろう。
なんということか。
「呪いの紋……?」
それが、エーデルヴェルデを父から受け取った際に消えた、右腕の気味の悪い痣のことを指していたのだと直感した。
同時に、私も全てを理解した。
呪いにより、逃れられない死の定めにあった私。
必死に呪いを解く方法を探していた父が、最後の最後に縋った希望こそがエーデルヴェルデ。
父が独断で王家の血でしか解けぬ結界を解き、エーデルヴェルデを実の娘である自分に差し出したのだ。
己が弓の力に呑み込まれる危険もあったはずだ。
仮に父は所有者として認められたとしても、私もまた認められるとは限らない。
もし、そうなれば更に凄惨な事態に陥っていたことだろう。
恐らくは父にとっては人生最大の賭けだったはずだ。
王である自身の運命を賭けることは、コルキドの行く末さえも掛け金に乗せることに等しい。
そこまでして私を救おうとした理由は何だったのか。
もはや疑う余地も無い。
「あぁ……お父様…………!」
ただ、愛ゆえに。
知る由もなかった事実。
気付けなかった父からの愛。
十五歳の誕生日の記述までの間、政務に従事しながらも、必死に自分を救おうと奔走していた父の姿が描かれていた。
目蓋に溜まっていた涙はとうとう溢れ出し、ページの上のインクを滲ませる。
父もこうして一人、喜びの涙を零したのだろう。
それからの日記には、私のことばかりが綴られていた。
――最近、ヴァレアナの帰りが遅い。
政務の手伝いも良いが、万が一にも悪い遊びを覚えたりせぬよう大臣に至急調整させねばなるまい。
――大臣からヴァレアナに結婚を勧めてみてはと進言された。
余程、我の怒りを買いたいらしい。
ヴァレアナに目を付けた事は評価に値するが、あれを政治に利用するなど、どこまでもふざけた考えだ。
無論、どこぞの馬の骨とも知れん軟弱者に渡すこともあってはならぬ。
突然の事に取り乱しかけたが、よくよく考えれば何か理由があったはずだ。
もしや、先日届いた見合い話にも関係があるのだろうか。
あれは我の耳に入った時点で握り潰したため、大臣は知らぬ事実のはず。
ならば何か別の画策がここで起ころうとしているということか。
既に城内に手のものを潜ませているとは敵ながら見事な手際の良さだ。
しかし我の目を誤魔化せるものと思わぬことだ。
ヴァレアナの平穏は必ず守ってみせる。
「お父様……こんなにも私のことを……」
――場内を寝間着のまま出歩いていたヴァレアナを注意した。
少しの間といえど、もしもあのような姿を城の男共に見られでもすれば、どんな劣情を生むか知れたものではない。
城内の秩序を守ることもまた王たる務め。
まずはヴァレアナに相応の寝間着を用意することにする。
機能性は勿論のこと、王家の娘に相応しい威厳あるものを仕立てさせなければならぬ。
「お、お父様……?」
――昨日、少々厳しく叱り過ぎたことが原因だろうか。
ヴァレアナと口を利かなくなって三日が経過した。
素直に謝罪の言葉を口にすれば許してもらえるだろうか。
しかし、どのような言葉をかけるべきなのか分からぬ。
こんなこと、大臣達にも相談できるはずも無い。
どうすれば良いのだ。
「………………」
なぜだろう。
父の知らなかった一面を知る程に、何かが壊れていくような気がする。
――ヴァレアナの本音を聞いた。
父親として失格だ。
民のためを想い、後ろ指を指されようとも立ち止まることをしないと誓った。
それは我にとっての光であるあの子のためにもなるはず。
なんとしても護りたかった。
だが、どうやら我は過ちを犯していたようだ。
娘との僅かなひと時さえも犠牲にした結果がこれだ。
何も知らず、理解しようともしなかった。
たった一人の最愛の娘を泣かせて何が国の王か。
もうヤメだ。
「この日は……」
自分にとってもあまり思い出したくはないあの夜の日付。
日記はそこで終わっていた。
「それではダメだと言っておるだろう!国民に気付かれでもすればパニックになるぞ!?」
「機密性を重視すれば人員が割けぬ!もしものことがあればお主、責任は取れるのだろうな!?」
部屋の外から大臣達の声が響いてきた。
どうやらこれからの対策について煮詰まっている様子。
「すみません。お待たせしました」
「おぉ、姫様!何かありましたか!?」
「残念ですが、お父様の行方に関する手がかりは何も……とりあえず、一度落ち着きましょう。熱くなった頭では良い案も浮かびません」
「そう……ですな。皆、暫し休息を取ろう。また後程、会議室に集まるということで」
「承知した」
「うむ。そうするか」
その場を解散し、父の部屋に静けさが戻っていく。
最後に部屋を後にしようと待っていた時、一人の大臣に声を掛けられた。
「姫様も少しお体を休められると良いでしょう。朝食もお取りになっておられないのに、もう昼過ぎです」
「ありがとう……そうさせてもらいます……」
「姫様?顔色が優れないようですが、何かありましたかな……?」
「……お父様の日記を読みました。後で皆にも伝えますが、どうやら先日、私がお父様とお話したことが今回の発端のようです……」
「あぁ……やはり、あの晩のことですな」
「聞いていたのですか!?」
「いえ。断じてそのような真似は。ただ、姫様がお父上の部屋を後にされるのを目にしたものですので」
「そう……でしたか。失礼しました。許してください」
「いえ。とんでもございません。ただ、そのままお父上の部屋の前を通った際、部屋の中からお父上がお泣きになられているような声をお聞きしました。姫様が去られた直後の事です」
「そんな……」
一度自室へと戻り、私は泣いた。
父の秘めていた愛を理解せず、それどころか彼を嫌い、憎んでいた自分を恥じる気持ちと、父への謝罪の念からの涙だった。
気が付くと、窓の外では陽が落ちていた。
泣き疲れ、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
会議の予定だったが、どうやら大臣が気を利かせて起こさずにいてくれたのだろう。
落ち着きを取り戻した心に溢れる想い。
父にただ謝りたい。
できることなら、やり直したい。
そして私は淡々と旅の準備をする。
一人で父を探すための。
「どこへ行くつもりだ……?」
「え!?」
背後から突然かけられた声。
ビクッと体を震わせ、ゆっくりと部屋の扉の方を振り返る。
「お……お父様?」
「黙って城を留守にしてしまった。大臣共はさぞ慌てていたことだろうな」
父は髭を凍らせ、身体のあちこちに雪を積もらせていた。
さらには明らかに見て取れる疲れ。
何か特別な事情があったのだろうか。
「これまで一体どちらへ行かれて――」
違う。
今、かけるべきはそのような言葉ではない。
「お父様。ヴァレアナは、お父様にお伝えしなければならないことがあります」
「……聞こう」
――――――
――――
――
「むぅ!?あ、あの日記を読んだのか!?あれは人に見せるようなものでは……」
いつになく動揺する父。
例え実の娘であろうとも、他の人間の日記を勝手に読み漁るという行為は不埒なものであり、しかもそれが国を治める国王の私物となれば事はさらに重大。
自分の知らない父の本音。
それを知りたいという好奇心から取った行動の軽率さをここにきて痛感した。
「お、お父様に黙って勝手なことを……申し訳ありません……!」
「いや…………そうか……少し取り乱した。すまぬ」
「ですが、私は――」
「構わぬ。何度も口にしようとしたが……ふふ……我には向いていなかった。結果的にはこれで良かったのかもしれぬ」
「お父様……」
言葉を遮られた瞬間、怒りの声を覚悟したが、父から向けられる言葉と眼差しはとても穏やかで静かなものだった。
「ヴァレアナ。我と一緒に来てはくれぬか?我はお前との時間を取り戻したい。だが、その前に一つだけやらねばならぬことがある。お前にも手伝って欲しい」
ヴァレアナ。
なんの感慨も沸かない自身の名。
その一言だけで心に張られた氷が瞬く間に解けていく。
「…………」
「む!?や、やはり嫌と申すか……?」
「いいえ。初めてお父様の口から名を呼んでいただきました」
「あぁ……そうであったな。すまぬ」
「ふふ……喜んでお供させていただきます。私がお父様にしたことへの償いが、その程度のことで済むはずもありませんが、これからずっと、少しずつ返していこうと思います」
「……感謝する」
「はい!」
あの日々が無ければ、これほどの喜びは感じられなかったかもしれない。
隣を歩く父の横顔を見上げてそう思う。
時に息苦しく感じることもあったが、今となっては、自分の人生に満ち溢れていた幸せを理解することができる。
明けかけた夜空に物思いにふける父。
その父の手を握り、私は引っ張るようにして国の外へと歩き出した。
「そういえばお父様。まずは呪いを解いて頂いたお礼をいなくてはなりません。何か私にできることはありますか?」
「気にすることではない。あれは我の独断でしただけのこと。それにより多少国を騒がせもした。反省せねばならぬが、お前が気にすることではない」
「構いません。私にできる事なら何でもおっしゃってください」
「ん?むぅ……そうだな……」
「お父様?」
「で、では……一度だけで良い。一度だけ……『パパ』と……呼んでみてはくれぬか?」
「…………それ以外でお願いします」
「……うむ。忘れろ」
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