さて、今回の前提では、人間の脳にも人格があってもよい。また「魂」がアタッチされていない人間がいてもよい。ということで以下の4種類を考えることができる。
- 哲学的ゾンビA: 「魂」がアタッチされていない+脳に人格がない
- 魂のある人間A: 「魂」がアタッチされている +脳に人格がない
- 哲学的ゾンビB: 「魂」がアタッチされていない+脳に人格がある
- 魂のある人間B: 「魂」がアタッチされている +脳に人格がある
2.は普通に「魂」の存在を信じている人が考えるであろうパターン。「魂」に人格があるので、特に違和感はないだろう。逆に、3.は「魂」が存在しない場合。脳に人格があるので、特に違和感はないだろう。
ということで、問題は1.人格がない場合(哲学的ゾンビA)と、4.人格が複数ある場合(魂ある人間B)である。
論点2a: 哲学的ゾンビA
哲学的ゾンビAは、「魂」がアタッチされておらず、脳に人格もないので、どこにも人格がない。しかし、定義上、哲学的ゾンビAは外見(脳内解剖しても)からは人格がないことを確認できない。
さて、こんな哲学的ゾンビAは存在しうるだろうか?
記憶・思考などについて「魂」が脳に依存する(もしくは、脳に制約されている)ので、感覚やクオリアを持たなく哲学的ゾンビAといえども、脳神経系は常に何かを出力し続けると考えてもいいはずだ。
それが、外から見て、差異があるかないかは簡単に答えは出ない。というのはそもそも、この哲学的ゾンビは哲学の議論用のもの。当然、今でも議論に使用されるくらいだから。なので、とりあえず、この哲学的ゾンビAは保留。
論点2b: 魂のある人間Bはありうるか
論点1b/1cで、「魂」の思考・記憶は脳を使うか、独自の思考・記憶機能を持っていたとしても、脳と同等以上の能力は使えないとした。
「魂」の思考・記憶は、脳の思考・記憶を使うなら、脳の人格の判断と、「魂」の判断に大きな乖離は作れそうにない。なにしろ、前提となる過去の経験が同一である。そして、「魂」の思考は、脳と独立にあるとしても、脳を超えない。
大きな乖離がないなら、多くの場合、「魂」は脳を操作する必要はない。そうなると、「魂」は自分で行動していると思い込んでいるだけの傍観者になる。
乖離が生じたときに、「魂」は脳を操作すればよい。この頻度が少ないか(短期記憶が失われるくらいの時間間隔)、あるいは操作がわずかである(気の迷い程度)なら、脳の人格サイドに違和感は出ないと思っていいだろう。
論点2c: 私は何者なのか?
とりあえず、自分には人格があるとすると、自分が以下の4つのどれであるかを区別できるだろうか?
- 魂のある人間Aの「魂」の人格
- 哲学的ゾンビBの脳の人格
- 魂のある人間Bの脳の人格
- 魂のある人間Bの「魂」の人格
まず、1.と2.を区別する方法はないだろう。どっちも人格は1個しかないから。
3.と4.はおそらく原理的に識別不可能と思われる。というのは
- 脳を操作失敗した「魂」の人格と、「魂」に操作された脳の人格のどっちであるかは区別がつかない。いずれも、意図と違うことが起きているから。
- 「魂」は記憶を脳に依存しているために、脳の操作に成功しようが、失敗しようが、参照可能な記憶は脳にあるもののみ。
では、1.&2.と、3.&4.を区別できるだろうか?
これは、脳の人格が「魂」による脳の操作を認識できるか否かにかかっている。とりあえず、論点2bでは認識できるつもりで論をたてたが、まじめに考えると、そう簡単ではないかもしれない。
たとえば、以下のような経験は、脳の人格と「魂」の人格の判断の乖離があって、「魂」が脳を操作した結果だろうか?
- 何故、これを買ったのか分からない。
- 意味もなく涙が零れ落ちた。
- こいつが嫌いなのだが、その理由がまったくわからない。
おそらく、これらは何も証明しない。
となると、1.&2.と、3.&4.を区別する方法も簡単には思いつけない。
ということで、保留。