美術教育史 戦前
明治における美術教育史
戦前の普通教育における美術教育史は主に明治5年の「学制」発布から始まると考えられる。
最初、美術や図画という言葉はなく、罫画や画学とされていた。
図画の言葉が一般化するのは明治14年以降のことである。
鉛筆画時代
最初は他の教科同様西洋の模倣的な、実用主義的なものであった。絵を描くためのものではなく技術的なものであり、
臨画という方法により、臨本と言われる教科書を使って行われた。
明治10年代に鉛筆が普及してからは主に鉛筆を使っての教育が
行われていたようである。
毛筆画時代
岡倉天心とフェノロサによって、国粋主義の思想が台頭するにつれ洋画や鉛筆画は排除され、毛筆画にとって代わられるようになった。
完全に鉛筆画が無くなったわけではないが、明治23〜24年ころには
毛筆画が鉛筆画を圧迫する形となった。
新定画帖
明治40年の小学校令改正により義務教育年限が六年に延長され翌年、国定教科書の改正が行われた。
その流れを受け、明治43年、「新定画帖」が刊行される。
新定画帖は鉛筆画、毛筆画という道具上の区別を廃し、
臨画一辺倒の図画教育から脱して児童の発達に応じた教材を提示、
指導体系の確立を図ったものであり、
図画教育の近代化に貢献した画期的な教科書であった。
しかし臨画主義を否定するものではなかったため、
次の自由画教育運動の際に批判の的となる。
大正における自由画教育運動
自由画教育運動は主に山本鼎によって進められた。2006年07月26日(水) 23:42:05 Modified by art_edu