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四方田犬彦「東京大学新聞」1981年1月


■シャイニング

 四方田犬彦が様々なメディアに書いた評論やエッセイをまとめた書籍で、タイトルは『人それを映画と呼ぶ』。フィルムアート社より1984年4月に刊行された。この記事自体は、東京大学新聞1981年1日号に掲載。
 スタンリー・キューブリックの『シャイニング』は、通常〈幽霊屋敷物〉と呼ばれる恐怖映画のジャンルに属している作品なのだが、恐怖映画としては決して完璧の作品ではない。むしろ失敗作かもしれない。
 これは、この当時の評価がまだ揺れていたころの批評の書き出しとしては、典型的なスタイルだと思われる。はっきり面白くないと書くこともできず、だからといって傑作ということもできない。どう評価していいかわからないが「恐怖映画としては失敗」と書いておけば無難、みたいな雰囲気を感じる。何人もの批評家が似たような書き方をしているのが、いまとなっては微笑ましくすらある。引き続き四方田は、恐怖映画としての欠点を指摘する。
 恐怖映画は観客を非日常的な状況へと導き、抜き差しならぬ恐怖を体験させるために、かならず媒介者、狂言廻しを必要としてきた。理性と人間的感情を備えた観客と同次元の人物、端的に言えば観客の代表としての登場人物のことである。観客は彼(彼女)の肩越しに世界を体験し、彼を通して情報を獲得する(あるいは獲得できずに終わる)わけである。この燈明な人物が危機に陥った場合に、観客も同時に恐怖に見舞われ、彼が無事に現実世界に帰還できたことを確認して、観客は安堵の息を吐くのである。

 『シャイニング』に欠落しているのは、こうした観客が同一化すべき人物の存在である。錯乱した父親は恐怖の授け手である。息子は人知を超えた説明不能の超能力の所有者であって、観客と対等な存在ではない(といって、彼は『スター・ウォーズ』の連作のように、マニ教的善悪の二項対立に荷担して宇宙開闢神話を演じるわけでもない)。母親はといえば、恐怖を投与される平均的人物ではあるのだが、われわれ観客はその原因をあらかじめ知らされている。結局のところ、『シャイニング』には、細やかな計算に基づいて積み重ねられた疑惑が、ある一点から雪崩のように恐怖に転じてしまう、といった力学が欠けていることがわかる。恐怖は拡散され、結末はあまりに陳腐なアンチ・クライマックスである。
 こういった意見(観客が同一化すべき人物の存在)は、決して間違いではないだろう。いまだって大半の映画はそういう手法で作られる。ただ、『ソウ』や『キューブ』みたいな作品を通過してしまった現在では、ややオールドスクールな意見だと見られるかもしれない。もっといってしまえば、『2001年宇宙の旅』にだって、そんな登場人物がいたかどうか疑わしく、キューブリックがあえてそうしていると理解したほうがいいだろう。

 引き続き四方田を引用するが、論調はここから一転する。
 したがって『シャイニング』の魅惑はこうした物語の構成法にではなく、別の場所に存在しているといわなければなるまい。
 そう、『シャイニング』には魅惑があると、四方田はいっているのだ。
 『シャイニング』に一貫しているのは、深奧へ深奧へと速度をもって移動していくカメラの動きであり、その軌跡が必然的に紡ぎだしてしまう迷路の感覚である。それはリリパットを訪れたガリヴァーの視線だ。冒頭の、ホテルに向かって家族を乗せて山沿いの道を走る自動車をどこまでも追い続ける俯瞰の画面が、この作品全体のリズムを決定している。ほとんど無限に続くかのごとき印象を与えるホテルの廊下で玩具の自動車を走らせる息子をカメラは恐るべきロー・アングルで追い、その動きは庭園に設けられた複雑な植え込みの迷路での息子と父親の追跡劇へと継承される。ホテルのロビーで迷路のミニチュア模型を覗き込む錯乱の父親と、次に続く現実の巨大な迷路のなかの母子を捉えた俯瞰ショットは『シャイニング』のなかでもっとも〈核〉となる箇所であり、この作品を恐怖映画であるよりも「ジャックと豆の木」に近付けることに成功している。ジャック・ニコルソンと豆の木! これは利口な男の子が悪い巨人を騙して破滅させ、可哀そうな母親を幸福にするといったメルヘン映画なのだ。そして、同時に、極大と極小をめぐるスウィフト的思考の映画でもあるのだ。
 おおそうだったのか、と、思わず目から鱗が落ちるような独創的解釈。ひょっとすると珍解釈と見る向きもあるかもしれない。そして四方田は、ラストシーンも好意的に解釈する。
 『シャイニング』の主眼点は未知なる物への不安や超現実のヴィジョンにあるのではなく、こうした活劇の愉しみである。ここではすべてが迷路の様相を帯びている。都会から人里離れたホテルへ、ホテルから庭園のなかの迷路へ。少年は父親を迷路に閉じ込め凍死させることで救われるが、フィルムが正装をした父親の写真で終わることはキューブリックのユーモアと理解してよい。ジャック・ニコルソンは冷凍され静止した映像に変化することで、追跡劇を旨とする〈活劇〉写真の領域から放逐されたのであり、活動することのない単なる写真とは(ロラン・バルトがその遺書で述べたように)すでに死そのものと見なしてよいためである。
 バルトが出てくるあたりがこの時代の、そして四方田らしい評だといえようが、これには異論もあることだろう。ジャック・ニコルソンは永遠の命(霊界のだが)を得たのであり、いつでもまた蘇って次の被害者を待っているのだ、といった解釈をする人も多い。
2006年02月15日(水) 00:44:02 Modified by badsboss

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b1241d10.jpg (17.52KB)
Uploaded by badsboss 2006年02月15日(水) 00:38:13



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