ウィキペディア Wikipedia は、第一位のインターネット百科事典と世間から認知されていますが……。                                                                          ウィキペディアに掲載できない原稿や、真面目な批判的見地からの記事、そのためのウィキペおたく百科事典です。



受刑者とは、懲役刑、禁錮刑又は拘留刑の執行のため刑務所に拘置されている者をいう。
断らない限り、日本国内について取り上げる

受刑者の数

受刑者の数は、2008年には7万人以上いると見られる。1948年には 70.727人で、1988年には 24,605人まで減ったが、また増えだした。

受刑者の待遇

刑務作業

懲役刑に処されている者は刑務作業を科せられている。刑務作業の種類は、家具製作などの木工、靴や衣類の制作、印刷、農業などさまざまである。また、炊事、清掃、被収容者向け図書の貸出なども受刑者が担っている。ただし、受刑者に刑務作業を選ぶ権利は与えられず、また刑務作業を拒否することができないとされる。基本的には、1日8時間労働である。

住むところ

雑居房と独居房があり、受刑者に選ぶ権利はないとされるが、同性愛者は独居房に当てられる可能性が高い。また、極道関係者の幹部にも独居房に入るケースが多い。独居房は3畳ぐらいの空間があるとされている。かつ、最近は、独居房に2人を入れることもされている。雑居房には6人が定員だが、最近は8人が入っている。冷暖房については、満足いくものとはいいがたい。

衣類

刑務所内部で服装を選ぶ権利はないとされる。男子はねずみ色の上下とされる。洗濯は係の受刑者が、週2回ぐらいでするそうである。

頭髪

女子は、パーマ以外の頭髪が許される。男子については、累進処遇第一級の者、満期出所3ヶ月前の者、仮出所準備中のもの、外国人その他の人について、蓄髪届が出されて髪を一定程度伸ばすことが許されるが、その他は丸刈りである。

食事

麦も入った米飯や味噌汁に漬物という食事。パン食も週一回あるところもある。酒類は出ない。
正月三が日にぱ雑煮がでる。

入浴、その他の生活全般

夏季は、週3回、それ以外は週2回、入浴することとなっている。着替えも入れて、入浴時間は15分で済ませなければならないとされている。また、石鹸も、薬用石鹸が使えるわけでない。

受刑者について

裁判所の確定した判決・命令に従い、収容されている。受刑者の事情とすれば、いろいろあり、自分のした悪事を反省している受刑者も多いが、そうとは限らない。
極道関係者は、反省すなわち自己否定であり拒否するのは当然であり、自尊心をもって「おつとめ」を果たし満期を迎えるのを常としている。
本来は無罪なのに受刑者になっているという心情の受刑者もいる。創価学会の元顧問弁護士の山崎正友も受刑者として収監されていた。「決定版 刑務所の事典」数々の刑務所関係の本を出している安土茂も「殺人行為」については「正当防衛」を主張したが、15年間受刑者として大阪刑務所にいた。書いている文章を読めば、理路整然とした説明その他により、その人の無罪を確信してしまうこともある。本当に無罪の可能性が高いと思われる。
冤罪事件で受刑者になった人もいる。事実、強姦事件に関して富山地方裁判所で出した2002年11月の判決が確定した人が、2005年1月まで受刑者として収容されていたが、後で真犯人が自白して無罪が証明されたという例もある。

元受刑者で、出所後に、国会議員になった人

元受刑者で出所後に国会議員になった人に対して、敬意を表して、文章を入力する。

松本治一郎 (1887年生〜1966年死去)

水平社の幹部となるが、徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導し、1927年に徳川公爵暗殺未遂の罪で懲役4ヶ月の実刑判決を受け収監されるが完全の冤罪である。1929年に同連隊爆破陰謀事件をでっち上げられて懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び収監される。出所後の1936年に、帝国議会の衆議院議員選挙に当選する。日本国憲法制定後の1947年の参議院議員選挙に当選し、参議院副議長となる。

神近市子 (1888年生〜1981年死去)

青森県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となる。1916年、愛人だった大杉栄が、三角関係のもつれから、大杉を刺傷し2年間服役する。出獄後、「女人藝術」「婦人文藝」などで文筆活動、戦後、1947年に民主婦人協会、自由人権協会設立に参加する。1953年、第26回衆議院議員総選挙に旧東京5区で左派社会党より出馬して当選、以後日本社会党に移り6回の当選を重ね、1957年の売春防止法成立に尽力した。1969年政界を引退する。

徳田球一 (1894年生〜1953年死去)

旧制第七高等学校退学し、日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1922年、日本共産党結成に参加。1928年直後の2月26日に治安維持法違反で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過ごした。1945年10月10日に、府中刑務所から出所し、日本共産党書記長に就任。
1946年、衆議院議員に当選、以後3期連続当選する。1950年に、レッドパージによる公職追放に遭う。1953年、北京で客死する。故郷の沖縄県名護市で、自民党の市議会議員も含めた賛同のもとで、公費で徳田球一の記念碑が建てられる。

瀬長亀次郎 (1907年生〜2001年死去)

1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後、召集されて砲兵として中国へ出征する。戦後、名護町助役やにうるま新報(現琉球新報)社長に就任するが辞任する。沖縄人民党書記長となり、1952年の第1回琉球政府立法院議員総選挙では最高得票数で当選を果たす。1954年に「沖縄人民党事件」で、冤罪との世論が起こる中、犯人隠匿罪で2年の実刑判決を受けて、沖縄刑務所に収監される。出所後、1956年に那覇市長に当選後、辞職を余儀なくされる。
沖縄県の国政選挙参加による1970年の衆議院議員選挙に当選し、日本共産党に合流しつつも、7期連続当選する。1990年に引退する。小林よしのりの「沖縄論」(小学館)に「亀次郎のたたかい」で登場する。

宮本顕治 (1908年生〜2007年死去)

1933年12月24日の査問中の小畑達夫の死に関して起訴されるが、1944年12月5日、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、不法監禁致死、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の判決を下した。1945年5月に大審院で判決が確定する。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。1945年10月17日にGHQの「政治犯の釈放等を命ずる覚書」により釈放される。1958年に日本共産党書記長に就任、1970年、日本共産党の委員長となる。
1977年7月、参議院議員選挙で全国区から初当選し、1989年まで2期12年、参議院議員を務める。2007年に死去する。

浜田幸一 (1928年生〜)

1951年に、格闘の相手を刺して、傷害罪で懲役1年となる。出所後、青年団活動に頭角をあらわし、富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、1969年の衆議院議員選挙で千葉3区より自由民主党から初当選する。以後、通算当選7回で、1993年7月引退する。衆議院の予算委員長に就任後、「宮沢賢治は人殺し」という発言で辞任したことあり。

今井澄 (1939年生〜2002年死去)

東京大学医学部に在籍中、東大闘争で安田講堂に立てこもり逮捕される。1977年に、判決が確定後、職場の諏訪中央病院のスタッフらの見送りのもと、静岡刑務所に収監される。出所後、諏訪中央病院院長に就任し、地域医療で頭角を表す、1992年、参議院議員選挙長野地方区で、日本社会党から立候補して当選する。後、民主党に移り、1998年の参議院議員選挙に再選する。参議院では決算委員長と厚生委員長になる。2002年、死去する。

中村喜四郎 (1949年生〜)

1976年の衆議院議員選挙に無所属で初当選し自由民主党から追加公認を受ける。1989年には科学技術庁長官に就任し、初の戦後生まれの閣僚となる。1992年、建設大臣に就任する。鹿島建設からの斡旋収賄罪容疑が浮上。検察は任意捜査を求めるも中村がそれを拒否をしたため、検察は逮捕許諾請求を国会に提出して逮捕する方針を取った。国会で逮捕許諾決議は可決にされ、中村は逮捕された。しかし、議員辞職はせず、その後の選挙でも、無所属で当選し続ける。裁判では懲役1年6ヶ月、追徴金一千万円の実刑判決となり議員失職して、黒羽刑務所に受刑者として「おつとめ」を果たす。仮釈放後、2005年の総選挙の茨城7区の小選挙区に無所属で立候補し、10期目の当選となる。2008年現在、唯一の現役の「元受刑者」の国会議員である。

元受刑者で刑務所体験を出版し有名になった人

安部譲二

安藤組組員と伝えられている。府中刑務所に「おつとめ」を果たす。1987年に、「塀の中の懲りない面々」を文藝春秋社から出版する。1987年に松竹で映画化され、森崎東が監督を勤め、藤竜也が主人公を演じる。柳葉敏郎が実在の赤軍の城崎勉を演じている。1987年にTBSでドラマ化されて続編5本が作られたが、渡瀬恒彦が主人公を演じて、安部譲二本人も、刑務官役で数秒出てくる。

花輪和一

漫画家として活躍中に、銃刀法違反で懲役3年の懲役を受けて、札幌刑務所に収監された。その体験を漫画にして「刑務所の中」青林工藝舎から出版する。後に、文庫版が講談社から出版される。「刑務所の中」は、2002年に崔洋一監督のザナドゥー配給で映画化される。山崎努が主人公「ハナワ」役を演じる。

山本譲司

1989年に都議会議員に初当選。その後、1996年10月、衆議院総選挙に中選挙区時代の管直人の地盤を引き継ぐ形で東京21区より出馬、初当選。2000年6月に再選するが9月に秘書給与を流用したとしての詐欺罪で逮捕され、2001年2月に懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け、控訴を取り下げて、黒羽刑務所に服役する。刑務所では累犯障害者達の世話をしていた。出所後ヘルパー2級の資格を取得し、訪問介護員として活動開始している。2004年8月に書き下ろした「獄窓記」が新潮ドキュメント賞を受賞し、2005年4月にTBS制作で同局の水曜プレミア内でドラマ化された。主人公の代議士の「川中浩司」役を柳葉敏郎が演じることとなる。政界に復帰を望む声も高いが、本人は否定している。

関連項目

このページへのコメント

6TCZyn Great article.Thanks Again. Great.

0
Posted by stunning seo guys 2014年01月20日(月) 05:10:27 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メニューバーA

必要であれば何か書いてください。

どなたでも編集できます