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にしやま きんご

略歴

西山謹吾先生のご紹介から転載、再構成
1958年3月30日生。1984年3月に高知医科大学卒業
1988年、12月高知医科大学大学院修了。1989年に、近森病院麻酔科勤務する。1990年10月に、高知医科大学麻酔科蘇生科助手となる。1992年1月、高知医科大学救急部講師につく。1994年10月、高知赤十字病院救命救急センター救急部副部長。1996年4月 高知赤十字病院救急部部長となる。1999年2月28日、「臓器の移植に関する法律」制定後の初の脳死判定および臓器摘出を行う。2004年4月に高知大学臨床教授を兼任する。「高知のミスター救急」というあだ名がある。

最初の法的脳死判定と合法的臓器摘出

1999年2月22日に運ばれてきた患者に対して、フェノバルビタールジアゼパムという中枢神経抑制剤を処方し、総合的判断の元に、船橋市立医療センターでは脳死と判断できない状態で、脳死判定が行われるのを見守る。法的脳死判定前に、無呼吸テストを繰り返していた。この脳死判定に対して、医学関係者から批判が出されている。日本弁護士連合会も、この脳死判定について、人権救済の勧告を行っている。
臓器摘出のさい、患者の血圧が、120mmhgから140mg、150mmhg と上がっていることを確認する。患者には、麻酔ガス静脈麻酔が処方され、臓器摘出がなされた。「臓器摘出時には、患者は脳死でなかった」という意見が脳外科医師から出て、日本弁護士連合会の人権救済の申立てに書かれているが、日本弁護士連合会は判断を控えている。

2006年12月の脳死移植臓器摘出

2006年12月17日、日本国内では第50例目の脳死移植臓器摘出を手がける。
1999年2月22日の脳死判定について、反省し、国が作成した脳死判定マニュアルを病院独自に改定し、「無呼吸テスト時には、マジックとメジャーが必要」などと細やかな指示を付け加えた。
最初の法的脳死判定・合法的臓器摘出と違い、いまのところ、批判の声が上がっていない。

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