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あしかがじけん

事件の経過

犯行

1990年5月12日、午後7時前、栃木県足利市内のパチンコ店「ロッキー」から、当時4才の女の子が行方不明になり、翌5月13日の朝に、近くの渡良瀬川河川敷で遺体となって発見される。渡良瀬川の中から、被害者の着衣が泥だらけの状態で見つけられる。
その中の「半袖下着」に精液が付着していたとして、栃木県警察科学捜査研究所(科捜研)が血液型を分析し、B型と判明する。

警察の捜査

足利では、1979年と1984年にも、同様の幼女殺害事件がおこり、未解決だったため、警察はメンツをかけた大捜査を展開する。しかし、半年過ぎても大きな進展がなかった。

あせりの出始めた頃、市内に住む元幼稚園送迎バス運転手・菅家利和の名前が、近隣住民に対する聞き込み捜査中に浮上します。アダルトビデオを多数所有していることと、聞き込みの刑事に対して話した幼稚園の経営者の「そういえば子供を見る目つきが怪しかった」などという、心無い言葉により、犯人として目星をつけられ、以後一年間毎日尾行されることになる。しかし菅家は、尾行された一年の間、幼女に対する声かけなどなかったことが確認され、このことは後に刑事が法廷で証言している。それにもかかわらず、捨てたごみのティッシュをは尾行中の刑事に拾われ、科学警察研究所のDNA鑑定に掛けられる。

1991年12月1日、「被害者の下着に付いていた精液とDNA型が一致した」という理由で足利署に連行されたうえ、殺害を自供したとして、翌日に逮捕となる。菅家は、1979年の幼女誘拐殺人事件と1984年の幼女誘拐殺人事件について、自供させられ再逮捕される。ただし、1979年の事件についてはアリバイが成立することが判明し、両方の幼女誘拐殺人事件は、嫌疑不十分の不起訴処分となる。

第一審

1992年2月から始まった宇都宮地方裁判所での裁判は、、裁判官、検察官だけでなく、弁護人までもがDNA鑑定を絶対視し「罪を認めて情状酌量を勝ち取る」という弁護方針がとられ、検察側証拠を弁護側がほとんど全部認める。菅家は、無実を主張し始めるが、事実調べが一切行われず、現地調査さえされないないまま、1993年7月7日、同地裁、久保眞人裁判長は、無期懲役の判決を下す。菅家はすぐに控訴、この事件の冤罪性と本件DNA鑑定への疑問を感じた佐藤博史弁護士を中心に、新たな弁護団が編成される。

控訴審

1994年4月から始まった控訴審(東京高裁)では、DNA鑑定の不備や数値のデタラメさ、目撃者・犯行ルート・殺害方法・犯行後の行動などの「自白」と「客観的事実」との矛盾を、弁護団は指摘する。1996年5月9日、高木俊夫裁判長は「DNA鑑定と自白は信用できる」として、「控訴棄却」の判決を下す。被告人弁護側は、翌日上告する

上告審

弁護団は1997年1月38日、最高裁に上告趣意書を提出する。
その後、弁護側が日本大学法医学教室に依頼したDNA鑑定で、菅家の毛髪のDNA型が犯人のものと一致しないことが判明したとして、補充書を次々と提出する。
2000年7月17日、最高裁第二小法廷の亀山継夫裁判長以下、5人の裁判官の全員一致で上告棄却を決定する。

再審請求

2007年12月20日、日本弁護士連合会が足利事件再審支援を決定する。ただちに再審弁護団結成する。2007年12月25日、弁護団は再審請求書を宇都宮地裁へ提出する。
2008年2月13日に再審請求が棄却となる。「弁護人提出の各新証拠は、それぞれの立証命題と関連する旧証拠の証明力を減殺させるものではないから、いずれも明白性を欠くといわざるを得ない」「したがって、本件再審請求は理由がないから、刑事訴訟法447条1項により、これを棄却する」というもの。

2008年2月18日、弁護団は、東京高等裁判所に即時抗告する。2009年の5月8日に、女児が生前に着ていたシャツの付着物と菅家受刑者のDNA型が同一かどうかについて、検察、弁護側双方が推薦した2人の法医学者に依頼した鑑定の結果が公表される。弁護側推薦の筑波大学の本田克也教授の鑑定では、シャツから検体を抽出したところS受刑者の型と一致しなかった。検察側が推薦した大阪医科大学の鈴木広一教授は鑑定書で、当時の鑑定方法について「刑事司法に適用する科学技術としては標準化されていなかった」としている。

2009年6月4日、東京高等検察庁は、「無罪を言い渡す明らかな証拠に該当する蓋然性が高いと判断した」としてS受刑者の釈放する決定を行う。

2009年6月23日、東京高等裁判所の矢村宏裁判長が、再審開始を決定する。

再審

2009年10月21日、宇都宮地方裁判所で、再審公判が開始する。

2010年3月26日、宇都宮地方裁判所の佐藤正信裁判長が無罪判決が下し、宇都宮地方検察庁が上訴権放棄を宣言、無罪判決が確定する。

栃木県で起きた類似の事件

同じ栃木県の足利市と太田市で、類似の事件が起こっている

1979年の幼女殺害事件

1979年8月3日午後2時過ぎ足利市で5歳の女の子が同い年ぐらいの男の子と渡良瀬川方面に歩いていくのを目撃されるのを最後に行方不明となる。8月9日i、最後の目撃場所から2km下流の渡良瀬川河原で全裸でリュックサックに詰められ死んでいるのが発見された。このリュックサックは、市内の業者が50年〜55年の間に登山用に作っており、特殊仕様で数10個しか売られていなかった。
行方不明になる直前にはトレパン姿の30歳ぐらいの男と話しているのを近所の主婦が目撃している。
Sが、殺害を自供するが、後のアリバイが成立し、嫌疑不十分の不起訴処分となる

1984年の幼女殺害事件

1984年11月17日、足利市大久保町の5歳の女の子が、家族で出かけた市内のパチンコ店「大宇宙」から行方不明となり午後6時ごろで、店の周囲を探し回ったが見つからず、足利署に届けられた。
11月17日午後4時すぎ、女の子の通う幼稚園に、行方不明の女の子らしい声と40代ぐらいの男からの電話が入る。男が、女の子の自宅の電話番号を聞く。11月17日午後4時21分に、女の子の自宅に電話が入り、「たすけてちょうだい」との女の子の声と同時に、「佐野のこうせいびょういん」と所在を知らせる。足利署は、「佐野厚生病院」に捜査員を派遣するが、女の子の姿はなかった。
1986年3月7日、足利市の市立大久保小学校東側の畑で、女の子の衣類が発見され、3月8日に女の子の白骨死体が発見される。
菅家が、殺害を“自供”するが、嫌疑不十分の不起訴処分となる。

1996年の幼女行方不明事件

1996年7月7日午後1時50分ごろ、栃木県太田市で夫婦に連れられてパチンコ店「パチトピア」に来ていた4歳の女の子が行方不明になる。当日午後2時10分、警察に届けられる。パチンコ店の防犯カメラの分析より、午後1時27分に来店し、女の子の近くに行き、午後1時42分頃でていた不審人物が浮かび上がる。

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