九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫
本文要約
一 序説
「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。
一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。
言語の内容たる意味と民族存在はいかなる関係に立つか。
意味の妥当問題と意味の存在問題、後者の方が根本的。
意味および言語と、民族の意識存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。
言語は普遍性をもっているが、絶対的なものではない。
ある意味および言語が、ある民族にはあるけれども、他の民族には同様の体験を核心的なものとして有せず、その意味および言語がないという場合がある。
形式化的抽象によって何らかの共通点を見出すことは不可能ではないが、存在様態としての文化存在の理解においては適切な態度ではない。
ベルグソンは、薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。
１ 類概念を実在であると見る立場。
２ 類概念を名目に過ぎずとする唯名論の立場。
我々は「いき」の理解に際してuniversaliaの問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。「いき」を種概念として扱い、それを包括する類概念の抽象的普遍を向感する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはいけない。
１意識現象→２客観的表現
二 「いき」の内包的構造
「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。
「いきな話」……「異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる」
二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。
媚態の要は、距離を出来うる限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」。江戸文化の道徳的理想。武士道の理想。
「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識。
「武士は食わねど高楊枝」「酔越の銭を持たぬ」「傾城は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」
理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色。
第三の徴表は「諦め」
「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる。」
第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。
道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものである。
理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して（諦）、張のある（意気地）、色っぽさ（媚態）」ということができる。
三 「いき」の外延的構造
(一) 上品―下品
価値判断に基づいた対自性の区別、すなわち物自身の品質上の区別である。
上品は媚態と交渉ないもの。しかし、趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無という差異点を有する。
「いき｣と下品は、媚態の存在が共通点。差異点は趣味の上下優劣を理解するのが普通。
「いき」は上品と下品の中間者。
（二)派手―地味
対他性の様態上から区別される。自己から出て他へゆく存在様態である。積極的。後者は自己の素質のうちへ沈む様態。消極的。非価値的なもの。
派手は「いき」同様積極的な媚態だが、派手のきらびやかな衒いは「いき」の持つ「諦め」と相容れない。
地味は消極的対他関係に立つために媚態を持ち得ないが、一種の「さび」を見せて、「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。
（三）意気―野暮 異性的特殊性における価値判断に基づいた対自性の区別。
（四）渋味―甘味 対他性を持ち、非価値的。
渋味は消極的対他性。甘味は逆。渋味と地味はともに消極的対他性だが、地味は人性的一般性を公共圏とし、渋味は異性的特殊性を公共圏として、甘味の否定によって生じたもの。渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。
甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に至る路があることに気付く。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
趣味はその場合その場合には何らかの主観的価値判断を伴っている。しかしその判断が客観的に明瞭に主張される場合と、主観内に止まって曖昧な形しか取らない場合とがある。前者が「価値的」、後者が「非価値的」。
◎六面体
「さび」…地味、渋味、意気、上品
「雅」…上品、地味、渋味
「味」…甘味、意気、渋味（異性的特殊存在）
「乙」…甘味、意気、渋味、下品
「きざ」…派手、下品
「いろっぽさ」…意気、甘味（上品から出発して意気を経て下品に行く運動。影は往々実物よりも暗い。）
四「いき」の自然的表現
客観的表現の形を取った「いき」について考察する。自然的表現と芸術的表現がある。
○自然的表現
聴覚…ものの言振り。
視覚…垂直線による非現実的理想主義を自覚する。細長い形。
顔は細おもて。目と口と頬とに弛緩と緊張。抜き衣紋、襟足を見せる。
左襟。素足。手を軽く反らせることや曲げること。
つまり、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示する形を採る。
平衡を打破して二元性を措定する点に｢いき｣の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた。
五「いき」の芸術的表現
客観的芸術（模倣芸術）…絵画、彫刻、詩。
主観的芸術（自由芸術）…模様、建築、音楽。
主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を托し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表れてくる。
○模様…平行線。縞物。縦縞。平行線としての二元性。
放射状に一点に集中したものは×。無関心性と無目的性が重要。放射状の縞は中心点に集まって目的を達してしまっている。曲線は×。つめたいものが○で、すっきりしていないとダメ。
○色彩
灰色…「諦め」の色。媚態に欠ける。具体的な模様においては、灰色は二元性を主張する形状に伴っている。そうしてその場合、多くは形状が「いき」の質料因たる二元的媚態を表わし、灰色が形相因たる理想主義的非現実性を表わしている。
褐色…色調の華やかな性質と、他方に飽和度の減少とが、諦めを知る媚態、垢抜けした色気を表現。
青…鮮やか。冷色。黒系統。赤系統は、×。
「いき」は過去を擁して未来に生きている。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。
「いき」＝ 縞模様（質料因）＋黒味のある色（非現実的理想性）
○建築
四畳半。行灯。「たが袖」の薫。
○音楽
六 結論
一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様に、ものの「色合」に関している。すなわち、道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。
「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であった。
概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、超えることのできない間隙がある。
我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成しうるように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである。
「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接触してquidを問う前に、意識現象のうちに没入してquisを問うことに存している。およそ芸術形式は人性的一般または異性的特殊の存在様態に基づいて理解されなければ真の会得ではない。
「いき」はボオドレエルのダンディズム、ニイチェの高貴と、類似点および相違点がある。
一切の肉を独断的に呪ったキリスト教の影響の下に生い立った西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携えて地獄に落ちた。
西洋文化では、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全領域に渡って霊化して、特殊の存在様態を構成するようなことはほとんど見ることができない。
「かつて我々の精神が見たもの」を具体的な如実の姿において想起しなければならない。
想起さるべきものはプラトン的な類概念の抽象的一般性ではなく、唯名論的な、個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。
我々の精神文化を忘却のうちに葬り去らないようにすべきだ。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が、「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。
一 序説
「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。
一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。
言語の内容たる意味と民族存在はいかなる関係に立つか。
意味の妥当問題と意味の存在問題、後者の方が根本的。
意味および言語と、民族の意識存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。
言語は普遍性をもっているが、絶対的なものではない。
ある意味および言語が、ある民族にはあるけれども、他の民族には同様の体験を核心的なものとして有せず、その意味および言語がないという場合がある。
- フランス語、ドイツ語との比較。
形式化的抽象によって何らかの共通点を見出すことは不可能ではないが、存在様態としての文化存在の理解においては適切な態度ではない。
ベルグソンは、薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。
１ 類概念を実在であると見る立場。
２ 類概念を名目に過ぎずとする唯名論の立場。
我々は「いき」の理解に際してuniversaliaの問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。「いき」を種概念として扱い、それを包括する類概念の抽象的普遍を向感する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはいけない。
１意識現象→２客観的表現
二 「いき」の内包的構造
「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。
「いきな話」……「異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる」
二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。
媚態の要は、距離を出来うる限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
- アキレウスと亀の例
第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」。江戸文化の道徳的理想。武士道の理想。
「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識。
「武士は食わねど高楊枝」「酔越の銭を持たぬ」「傾城は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」
理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色。
第三の徴表は「諦め」
「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる。」
第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。
道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものである。
理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して（諦）、張のある（意気地）、色っぽさ（媚態）」ということができる。
三 「いき」の外延的構造
(一) 上品―下品
価値判断に基づいた対自性の区別、すなわち物自身の品質上の区別である。
上品は媚態と交渉ないもの。しかし、趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無という差異点を有する。
「いき｣と下品は、媚態の存在が共通点。差異点は趣味の上下優劣を理解するのが普通。
「いき」は上品と下品の中間者。
（二)派手―地味
対他性の様態上から区別される。自己から出て他へゆく存在様態である。積極的。後者は自己の素質のうちへ沈む様態。消極的。非価値的なもの。
派手は「いき」同様積極的な媚態だが、派手のきらびやかな衒いは「いき」の持つ「諦め」と相容れない。
地味は消極的対他関係に立つために媚態を持ち得ないが、一種の「さび」を見せて、「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。
（三）意気―野暮 異性的特殊性における価値判断に基づいた対自性の区別。
（四）渋味―甘味 対他性を持ち、非価値的。
渋味は消極的対他性。甘味は逆。渋味と地味はともに消極的対他性だが、地味は人性的一般性を公共圏とし、渋味は異性的特殊性を公共圏として、甘味の否定によって生じたもの。渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。
甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に至る路があることに気付く。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
趣味はその場合その場合には何らかの主観的価値判断を伴っている。しかしその判断が客観的に明瞭に主張される場合と、主観内に止まって曖昧な形しか取らない場合とがある。前者が「価値的」、後者が「非価値的」。
◎六面体
「さび」…地味、渋味、意気、上品
「雅」…上品、地味、渋味
「味」…甘味、意気、渋味（異性的特殊存在）
「乙」…甘味、意気、渋味、下品
「きざ」…派手、下品
「いろっぽさ」…意気、甘味（上品から出発して意気を経て下品に行く運動。影は往々実物よりも暗い。）
四「いき」の自然的表現
客観的表現の形を取った「いき」について考察する。自然的表現と芸術的表現がある。
○自然的表現
聴覚…ものの言振り。
視覚…垂直線による非現実的理想主義を自覚する。細長い形。
顔は細おもて。目と口と頬とに弛緩と緊張。抜き衣紋、襟足を見せる。
左襟。素足。手を軽く反らせることや曲げること。
つまり、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示する形を採る。
平衡を打破して二元性を措定する点に｢いき｣の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた。
五「いき」の芸術的表現
客観的芸術（模倣芸術）…絵画、彫刻、詩。
主観的芸術（自由芸術）…模様、建築、音楽。
主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を托し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表れてくる。
○模様…平行線。縞物。縦縞。平行線としての二元性。
放射状に一点に集中したものは×。無関心性と無目的性が重要。放射状の縞は中心点に集まって目的を達してしまっている。曲線は×。つめたいものが○で、すっきりしていないとダメ。
○色彩
灰色…「諦め」の色。媚態に欠ける。具体的な模様においては、灰色は二元性を主張する形状に伴っている。そうしてその場合、多くは形状が「いき」の質料因たる二元的媚態を表わし、灰色が形相因たる理想主義的非現実性を表わしている。
褐色…色調の華やかな性質と、他方に飽和度の減少とが、諦めを知る媚態、垢抜けした色気を表現。
青…鮮やか。冷色。黒系統。赤系統は、×。
「いき」は過去を擁して未来に生きている。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。
「いき」＝ 縞模様（質料因）＋黒味のある色（非現実的理想性）
○建築
四畳半。行灯。「たが袖」の薫。
○音楽
六 結論
一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様に、ものの「色合」に関している。すなわち、道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。
「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であった。
概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、超えることのできない間隙がある。
我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成しうるように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである。
「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接触してquidを問う前に、意識現象のうちに没入してquisを問うことに存している。およそ芸術形式は人性的一般または異性的特殊の存在様態に基づいて理解されなければ真の会得ではない。
「いき」はボオドレエルのダンディズム、ニイチェの高貴と、類似点および相違点がある。
一切の肉を独断的に呪ったキリスト教の影響の下に生い立った西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携えて地獄に落ちた。
西洋文化では、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全領域に渡って霊化して、特殊の存在様態を構成するようなことはほとんど見ることができない。
- ニーチェ、『ツァラトゥストラ』に出てくるセリフ、「女の許へ行くか。笞を忘るるな」。
「かつて我々の精神が見たもの」を具体的な如実の姿において想起しなければならない。
想起さるべきものはプラトン的な類概念の抽象的一般性ではなく、唯名論的な、個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。
我々の精神文化を忘却のうちに葬り去らないようにすべきだ。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が、「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。
2007年06月29日(金) 04:48:25 Modified by hitudokusyo