南京大虐殺に関する論争の解説と検証

第66連隊問題 東中野の見解

2.大根田副官は戦闘詳報作成に不慣れだったか?

東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p108-109

では、実際に、第一大隊副官が第一大隊の戦闘詳報を作製したのであろうか。戦場のこと故、大隊副官の負傷による戦線離脱も考えられる。小宅小隊長は次のように述べるのである。
《戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
 大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。
 たしかに、小宅小隊長代理の言うように、一刈第一大隊長は戦線から離脱していた。そのため第一大体命令-----たとえばすでに見た「第四中隊ハ全員ヲ以テ捕虜ノ監視ニ任ズベシ」という命令----などは、渋谷大尉(第一大隊長代理)の発令となっている。
 つまり、渋谷副官が実際の戦闘を指揮していた。そのため渋谷副官は戦闘の一瞬一瞬に瞬間的な判断を迫られ、戦闘詳報をどうするという立場にはなかった。他方、もう一人の大根田副官は、実戦の経験不足からして、戦闘詳報については暗かった。



まず、事実誤認から指摘する。
東中野は小宅の証言を基に渋谷大尉を「大隊副官」としているが、当時、渋谷大尉は「大隊付」の将校ではあったが、副官ではなかった。
『野州兵団の軌跡』p183
 山田聯隊長は、第一大隊付きの渋谷仁太大尉を長に挺身隊を編成した。……
また 、当時の日本軍の通例からすれば、大隊副官は少尉をもって当てることになっており、大尉である渋谷が歩兵大隊の副官であるというのは、通例に反し不自然である。
以上、二つの根拠から、渋谷大尉が副官であったという見解は、間違ったもの見るべきである。

しかし、この事実誤認は大きな意味があると思われる。
東中野の見解では、当時、一刈大隊長が負傷し渋谷大尉が大隊長代理となったことで、戦闘詳報の作製が渋谷大尉から経験不足の大根田少尉に移り、そのことにより「大隊ではまともな戦闘詳報なかった」と主張する。
ところが、実際は、当初から第一大隊の戦闘詳報作製の担当者は大根田副官であり、渋谷大尉はその任に当たっていなかった。
したがって 、 渋谷大尉が大隊長代理となったことで、「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」というような小宅の推測は適当とは言えないことになる。 そして、この推測に依拠する東中野の見解も誤ったものと言えるだろう。

また、仮に大根田副官が戦闘詳報作製の経験が不足していたとしても、大隊本部には書記として、小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長といった書記が存在していたのだから、大根田副官の経験不足は十分補うことが出来たと考えられる。
(軍曹・伍長という下士官であるということは、軍務経験が豊富であることを意味する)。

大根田副官が、戦闘詳報作製に不慣れだったという東中野の見解は誤認した事実を根拠にした証言に依拠したものであり不当である。また、仮に副官が不慣れであったとしても、大隊には経験豊富な下士官が書記として存在していたので、副官の不慣れをフォローすることは可能であった状況は無視できないだろう。


3.旅団命令は捏造されたものだったか?

東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p109

 従って、戦闘詳報については素人ばかりの大隊であった。そのため、まともな戦闘詳報は書けなかったというのが、小宅小隊長代理の証言であった。つまり、第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かったのである。
 ともあれ、第一大隊は何らかの理由で投降兵を処刑した。しかし、戦闘終了後、戦闘詳報に処刑の理由を書く段になった時、実際にありもしなかった「捕虜ハ全部殺スベシ」という架空の旅団命令に、その理由を求めた。
 そのため、問題の処刑命令なるものは、師団命令の記録にもない。旅団命令の記録にもない。聯隊命令の記録にもない。第二大隊の陣中日誌の中にもない。ただあるのは第一大隊戦闘詳報の中だけということになった。
 つまり、処刑命令なるものは、阿羅氏も消去法で推定するように、第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった。これが唯一考えられる可能性のように思われる。



東中野が「処刑命令なるものは、……第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった」と主張する根拠は、
(1)大根田副官が、戦闘詳報執筆について不慣れであったことを理由として、同戦闘詳報が「素人の作文に近かった」
(2)師団・旅団・聯隊・第2大隊において、捕虜殺害を指示する命令が存在しない
という2点である。

しかし、すでに見てきたとおり、大根田副官が戦闘詳報執筆に不慣れであったという根拠は事実誤認であり、また、仮に不慣れであっても大隊書記である下士官の存在を考慮すれば、戦闘詳報が「素人の作文に近い」というようなことはあり得ない。また、他の部隊の戦闘記録に捕虜処刑命令が見当たらないのは、この命令が正式な作戦命令として発令されたものではないからであり、その意味で、他の部隊の戦闘記録に残らないのは当然のことである。
このように、東中野が 「筆者の創作であった」と主張する2つの根拠は、2つとも妥当なものとは言ず、その見解が誤ったものであると言わざるをえないだろう。

このページへのコメント

未だに南京大虐殺等という明らかな捏造を本気で信じているとは、お前
ら反日ブサヨク共はどれだけ頭がお花畑な輩共なんだ?
お前ら反日ブサヨク共は南京大虐殺論争について、さも反日ブサヨク側
の勝利で決着が付いたように語っているが、そのような事実は当方が知
るかぎり存在しないんだが?

まず南京大虐殺があったかどうかについてだが、当時の資料で南京攻略
戦前に南京城内の安全区を管理していた「南京安全区国際委員会」が
食料配給の試算のために行った人口調査で、南京人口は約20万人と認識
されている。
そして、南京陥落の3ヶ月後に同じく「南京安全区国際委員会」の事務局
長であったルイス・S・C・スマイスが実施した戦争被害調査(スマイス
報告)では南京の人口は25万人とされている。

つまり、中国が唱える「犠牲者30万人説」が正しいとするなら、当時の
人口を超える人間が殺害され、且つ大量虐殺が行われている現場に、三
ヶ月で虐殺前よりも多くの人口が移り住んだことになる。

また、攻略戦終了後一ヶ月と経たない1938年1月1日、南京自治委員会の
発会式が挙行されている。式場には南京難民区に避難していた3万人の
市民も詰め掛け、新政権の出現を日の丸と五色旗を振って祝い、国民政
府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す
宣言が発表されている。

ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6

お前ら反日ブサヨク共はこういった歴史的事実を知らないのだろうか?
これらの事実からすれば、「戦闘が行われた都市だから当然死者はいた
だろうが、それが虐殺と言えるものではない」と考えるのが普通ではな
いだろうか?

更に言えば、1938年(南京陥落の翌年)には日本軍の進軍を遅らせる為、
中国軍(国民党)が黄河の堤防を決壊させ莫大な被害を出す事件があっ
たが、その際、日本軍は避難する民衆を救助し「中国軍により破壊され
た堤防の修復作業」まで行っている。
(因みに中国軍は民衆や民衆と協力して救助作業や防水作業を行う日本
軍を攻撃した)

ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

こんな事をする軍隊が、都市1つの住人全てを殺すようなことをするだ
ろうか?

これだけの事実が有りながら、戦後半世紀経っても未だに増加を続ける
被害者数を言い張る中国の言が正しいと言い張るのであれば、まず被害
者の遺体、遺骨、遺品など何でも良いので被害者が存在するという証拠
の提示が第一なのではないだろうか?

お前ら反日ブサヨク共は日中戦争で南京問題は散々槍玉に挙げるくせに、
その半年後に起きた国民党軍による黄河決壊事件の際、日本軍が被害者
救助や堤防修復に尽力したのに対し、本来人々を守るべき中国側が日本
軍、及びそれに協力する市民や救出された被害者に対し航空機まで用い
た攻撃を行い、更に当初「洪水は日本軍の攻撃により発生した」と虚偽
の発表を行っていたという点を同等に取り上げない時点で、お前らの主
張は片手落ちどころか両手落ちと言わざるを得ない代物でしか無いだろ
う。

以上、反論できるなら反論してみろ。但し証拠付きでな。
尚、反論は↓此処でも受け付けて居るぞ。
ttp://jipangbito.blog93.fc2.com/blog-entry-54.html

0
Posted by ロン・セガン 2023年08月27日(日) 06:37:20 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます