不思議なことに、男を見ても恐怖はなく、れいなの胸に去来した感情は、男に対する怒りだった。
れいなにとって昨日の出来事は、記憶ごと箱に入れて過去に葬ることが出来たはずのものであり、
放っておけば、いつかは風化していく。
そう思い込むしかなかったし、そうやって納得して、感情の折り合いを付けるしかなかった。

しかし今、この男の存在は現在進行形となり、あろうことか、再びれいなの日常を壊しに来たのだ。
思わず男に詰め寄りそうになったが、周囲にこの男のことで下手に騒がれるのは歓迎できなかった。
れいなは思案した結果、教室から男を連れ出すことにした。

「どこに行くの?」

男は顎を引いて首を傾げながら、身長の低いれいなを上目遣いで下から見上げるように言った。
母親に甘えるような声だった。男のくせに。
れいなは黙ったまま何も言わずに男の前を歩き、実際、男をどこへ連れて行くべきか、それを考えた。
男がいきなり何を喋るか分からなかったので、誰かに会話を聞かれてはいけない。
かといって、自分の身の安全も考慮すると、密室で二人きりになるようなことも避けなければならなかった。
結局、れいなが選んだ場所は校舎正面の玄関前だった。
ここならば、人通りは多いが、わざわざ立ち止まって二人の会話に聞き耳を立てるような人もいない。

「お前、この学校の生徒やったっちゃね」

「うん。ここへ来れば、また君に会えると思ってさ」

男の言葉が、れいなの身を堅くした。

「もうれいなに用はないやろ」れいなは吐き捨てるように言った。

「昨日のことなら、誰にも言ってないっちゃん」

自分の恥ずかしい写真を撮られていた昨日とは違い、今はもう何も弱みを握られていない。
下手に出る必要はないのだが、男に対し強気になって、男を刺激してしまうのも得策とは思えなかった。
それでもやや強い口調になってしまったのは、れいなの故郷の言葉のせいだった。

「警察に言われたら、困るやろ?だからもう、れいなに近付かんでよ」

お願いやけん、とれいなは言った。
すると、男はめずらしく殊勝な顔つきになって、ごめんよ、と言った。

「…は?」

れいなは思わず聞き返した。

「今、なんて?」

聞き取れなかったわけではない。

「ごめんよ、れいな」

自分の耳がおかしくなったわけでもなかった。
どうやら、この男は謝っているらしい。それは許容できることではなかった。

「そんなんで、許されると思っとうと!?お前のせいで、れいなはどれだけ傷付けられたか!」

男と視線が交錯する。

「本当にごめん。僕は君にひどいことをしたよ。謝って済むようなことじゃないよね」

でも、と男は続けた。

「それは、わかってるんだ。でも、どうしても君には伝えておきたいことがあって」

男の声が湿り気を帯びる。

「射精だよ。僕は射精が出来たんだ。君が舐めてくれたおかげだよ」

苦い精液の味が口中に蘇る。
思わず嘔吐しそうになったのを、れいなはなんとか堪えた。

「本当にありがとう、れい――」

「もういい!」れいなが男を遮った。

「お前の話なんて、何も聞きたくない。お前は頭がおかしいっちゃんね」

れいなは男の錯乱した様子を思い出していた。

「お前の過去に何があったのか、れいなは知らんし、興味もない。
 あんだけのことをされたら、いまさら同情もできん。
 昨日のことは誰にも言わないでおくけん、せいぜい安心して――」

「好きだ、れいな」れいなの言葉は、今度は男によって遮られた。

それも、思いも寄らない唐突な一言によって。

「はあ!?」

好きとは、一体どういう意味だ。
今まで何人もの男子から告白を受けたことはあるが、拒絶する気すら起きなかったのは初めてだった。
呆気にとられ、何も行動に移せないでいると、あ、そうだ、と男が言った。

「これ、昨日のお礼にと思って――」

男がズボンのポケットに手を入れた。
男がおもむろに取り出したものは、二枚のお札のように見えた。
れいなは胃が煮えるように熱くなるのを感じ、次の瞬間には、男の手を強く払っていた。
お金で、身体を買われたような気がしたのだ。

「あ――」

男の手から地面にひらひらと舞い落ちた紙は、色鮮やかに彩色されていた。
どう見ても、日本銀行のセンスではなかった。とはいえ、見覚えがないものでもない。
どこかのテーマパークの入場券だったかもしれない。
それが、二枚だ。
立ち眩みを起こしそうになった。

「…気分が悪い。家に帰る。絶対に付いて来んでよ」

れいなは男に背を向けて歩いた。男が付いてくる様子はなかった。
振り返って男の様子を確認すると、男は寂しそうに、そのチケットを拾い集めていた。



絵里君、見て。このワンピース、可愛いでしょ。
これはね、さゆみのお母さんに買ってもらったの。
ずっと前に、好きな男の子がいるってお母さんに言ったら、お母さん、凄く喜んでくれて。
それじゃあ、デートのためのお洋服が必要だねって。さゆみは、悪いからいいよって言ったのにね。

絵里君、憶えてる?
いつか絵里君の病気が良くなったら、遊園地に行こうって、約束したよね。
ううん、遊園地じゃなくてもいいの。
さゆみは、絵里君と一緒ならどこでもいい。
本当だよ。それ以外は何もいらない。
絵里君が傍にいてくれれば、それでいいの。

それなのに。
それなのに、絵里君は、どうして?
どうして、さゆみを見てくれないの?
どうして、またその女と一緒にいるの?
その女は、淫乱なんだよ。みんなそう言ってる。
誰とでも寝る女なんだって。
兄とだって寝るんだ。
その女は、実の兄とだってエッチしたんだよ。自分の快楽のために。
小学生の頃から、ずっとエッチしてた。
そんな淫乱女、絵里君には相応しくない。そうでしょ?

さゆみは、その女とは違う。
さゆみは淫乱じゃない。
絵里君のためのお洋服も着て、今日はこんなに可愛いんだよ。

だから絵里君、お願い。さゆみを見て。
さゆみを、一人にしないで。
さゆみを、絵里君のものにしてよ。

自分の肩を抱き、校内のベンチでうずくまるようにして。
さゆみは泣いていたの。

「どうして泣いてるの?」

突然、そう話しかけられたの。
最初は、絵里君かと思ったんだけど、違う人だった。
紺のブレザーに、赤いネクタイ。
見たことない制服。
見たことない人。
でも、無邪気で優しそうな瞳は、さゆみの大好きな絵里君に少し似てた。

「ディズニーランド。君も行きたいのかい?チケットならあるよ」

その人はさゆみにそう言いながら、さゆみの前に二枚の券を差し出したの。

「元気出しなよ。これを持って、あの彼を誘ってみるといい。好きなんでしょ、彼のことが」

その人は、校舎前にいる絵里君を軽く手で指し示して言った。
さゆみが校舎前の様子を窺っていたのを、その人は見ていたのかも。

「もう、いいんです」とさゆみは言ったの。

「さゆみじゃ、絵里君のお姫様にはなれないみたいだから」

自分の言葉が悲しくて、また涙が溢れてくる。

「そっか、参ったな。このチケット、せっかく取ったのに」

その人は、困った、って表情を浮かべた。

「実を言うと、私は、私の彼女と行こうと思っていたんだけどね。
 でも突然その彼女に、あなたとはもう会えない、と言われてしまった。
 それきり、電話をかけても出てくれないし、仕方ないから、直接会って話をしようとしたんだ。
 彼女の大好きな、このディズニーランドのチケットを用意してね。
 これがあれば機嫌も直るだろうと思っていたんだけど、それも断られちゃったよ」

話を聞いていると、どうやらこの人も、好きだった人に振られてしまったみたい。
さゆみと同じだ。

「これ、さ」手に持っていたチケットを見ながら、その人が言う。

「有効期限が今日までになってるし、もし良かったら、私と一緒に行ってくれない?
 もちろん、君さえ良ければ、だけど」

「えっ。でも――」

「だって、勿体ないし。それに、君も私も、何だか惨めじゃないか。
 私は、まだ彼女のことが好きだ。私はこの別れに到底納得できていない。別れたくないんだよ。
 でも、彼女に未練がましい男だって思われるのもイヤで…」

放っておいたら、その人も泣き出してしまいそうだった。

「あの、元気を出してください。この先、まだまだ人生は長いですから」

さゆみが言うと、その人は少し呆れて、それから屈託のない表情で笑った。

「これじゃ、どっちが元気づけられたのか、わからないね」

素敵な笑顔だった。この人の彼女は、どうしてこの人を振ったのだろう。
さゆみには、悪い人のようには思えなかった。背は低いけど。

さゆみは、その人の申し出を承諾することにしたの。
自分で提案した割に、その人は驚いていたみたいだった。

「本当にいいの?今言ったけど、これは彼女のために取ったチケットで、余り物みたいなものなんだよ?」

「さゆみたちも、余り物ですよ」

「はは。まあ確かにそうだね」

さゆみは言ったの。

「今日だけ、お互いに、お互いの好きだった人の代わりになるんです。
 それで、お互いの気持ちが紛れるなら」

その人は頷いた。

「せっかくの土曜日を、せめて有意義に過ごすことくらいは出来そうだね。
 それじゃ、今日一日、よろしくね」



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