日本の周辺国が装備する兵器のデータベース


▼キューポラに12.7佻∩機銃を搭載、砲塔側面に302型対戦車ミサイルの連装発射機2基を搭載した122型中戦車「三液型」(WZ-122A)。120mm戦車砲の基部に装着された赤外線サーチライトは302型対戦車ミサイルの誘導に用いる。



▼122型中戦車「三機型」(WZ-122B/WZ-1221)


▼北京郊外の坦克博物館に現存する80式戦車の試作型(砲塔は122型中戦車)

▼砲塔側面。前部にATM連装発射機を支える取り付け基部が残っている


122型中戦車「三機型」性能緒元
重量37.5トン
全長9.525m
全幅3.28m
全高2.25m
エンジン水冷ディーゼル 700hp(のちに640hpに変更)
最高速度55km/h
航続距離500km
武装120mm滑腔砲×1(40発)
 54式12.7mm重機関銃×1(WZ-122Aは54式12.7仆典ヾ惱届∩×1もしくは71式20亠ヾ慄ぁ1)
 59式7.62mm機関銃×2(主砲同軸+車体固定機関銃/3,000発)
 302型対戦車ミサイル連装発射機×2
装甲砲塔鋳造装甲 車体溶接鋼板
乗員4名

【開発経緯】
中国における戦車生産は、ソ連の技術協力を受けて国産化されたT-54A中戦車(59式中戦車(WZ-120/ZTZ-59/T-54)として制式化)のライセンス生産によって実現された。しかし、その後中ソ関係は次第に冷却化し、最終的には中国に派遣されていたソ連技術者の全面引き上げと技術供給の停止に至り、ソ連からの戦車供給は途絶えてしまうことになる。さらに1966年に勃発した文化大革命は、国内に未曾有の混乱をもたらしその影響は兵器開発の現場や生産工場を巻き込むほどであった。この国際的孤立と政治的混乱の中で、次世代中戦車として開発されたのが122型中戦車(WZ-122)であった。

122型中戦車の開発のきっかけとなったのは、諸外国が開発した戦後第二世代戦車の情報であった。T-64、チーフテン、レオパルト1、AMX-30、M-60などの新型戦車の分析から、これらの戦車は中国の59式戦車、開発中の69式戦車(WZ-121)を上回る性能を有することが明白になった。中央軍事委員会装甲兵科はこの情報を重要視し、1960年代中頃に、69式戦車開発と平行して69式戦車を上回る性能の新世代戦車を開発し、諸外国との技術的ギャップを埋めることを決定した。

これを受けて1967年4月には、装甲兵科と59式戦車を生産中の内モンゴル自治区包頭(パオトウ)の第617工場研究所が協力して、諸外国の第二世代戦車に対向しうる新型戦車の目指すべき性能・新技術についての検討を開始した。同年12月国防工業科学委員会は装甲兵科の提出した開発計画を批准し、製品番号WZ-122が与えられ「122型中型坦克」と呼称されるようになった。

1969年に勃発した中ソ国境紛争では、ソ連軍の新型戦車T-62に対して、中国軍歩兵部隊の既存の対戦車兵器では充分な威力が無く、多くの死傷者を出す結果となった。この戦訓と、捕獲したソ連のT-62の能力は中国軍に対して新型戦車開発の必要性を痛感させることとなった。翌1970年初めには、中央軍事委員会装甲兵科は新型戦車研制工作会議を招集し、次世代戦車の戦術面、技術面での目標を決定した。同2月4日には中央軍事委員会装甲兵科、瀋陽軍区装甲兵科、北京軍区装甲兵科と第五機械工業部が連合(「五種新型車両会戦領小組」)し、その下部に二四会戦弁公室が設置され、3月18日には「五種新型車両会戦領小組」と科学研究院と製造工場からの参加者からなる新型坦克会戦組が改組された。この組織が122型中戦車開発を推進することとなり、正式な開発が開始された。

【122型中戦車 「三液型」(WZ-122A)】
新型戦車に求められた高度な性能要求を達成するために、新しい戦車技術が積極的に導入されることになった。この方針でまとめられたプランが122型中戦車 「三液型」(WZ-122A)である。「三液」とは、新たに導入された油圧式サスペンション、油圧式流体クラッチ、油圧式パワーステアリングの3つの新技術の総称である。「三液型」には、このほか700hpの水冷ディーゼル(のちに640hpに変更)、対戦車ミサイル、120mm滑腔砲、燃焼式薬莢、微光式夜間暗視装置、複合装甲、NBC防護装置、自動消火装置など諸外国の第2世代戦車を凌駕しうる新技術がふんだんに盛り込まれることが求められた。特に重視されたのが、火力と機動力の分野であり、これはソ連のT-62やT-64に対抗しうることが想定された。

122型中戦車に搭載された120mm滑腔砲は、69-擬粟鐚屬謀觝椶気譴69式100mm滑腔砲に続く中国国産の滑腔砲である。砲口部には反動を低減するマズルブレーキを装着(未装着状態の写真もあり)、砲身中央に排煙装置が設けられている。砲の性能については砲身長5,750mm、砲の総重量は2,563kg。俯仰角は-6度〜18度。発射速度は3〜4発/分となっている。なお同時期に開発された69式100亞蟾佶い牢喞摸蓮¬臣羸催戮北簑蠅鮴犬犬討り、当時の中国の未発達な工作精度では120亞蟾佶い砲眛瑛佑量簑蠅生じていた可能性がある。「三液型」の120亞蟾佶ぜ体の性能は不明だが、同砲をもとにして開発された48口径120亞蟾佶い蓮1976年のテストで着弾時の速度1,650m/秒、204mmの均質圧延装甲板を貫徹する性能だったと記録されている[6]。

1960年代に開発が進められていた諸外国の戦車の中には、MBT-70やM60A2、T-64のように戦車砲から対戦車ミサイルを発射するガン・ランチャー方式を採用するものも登場していた。これらのガン・ランチャー発射式対戦車ミサイルは、戦車砲弾より長い射程と高い命中精度を有し、敵戦車をアウトレンジ攻撃することを想定して開発された。ソ連ではこの方法がその後も継承されるが、アメリカでは問題が多発したことで、ガン・ランチャー方式の対戦車ミサイルは姿を消す。

中国でも、各国の動向を踏まえて次世代戦車には対戦車ミサイルの搭載が不可欠であるとの検討結果を受けて、122型中戦車への対戦車ミサイル搭載が決定された。ただし、ミサイルの搭載方法は砲発射式ではなく、砲塔側面前方に連装ミサイル発射機を装備する方法が採用された。発射機は戦車砲から伸びたガイドと接合されており、戦車砲と同調して附仰角を得る仕組み。誘導方式は赤外線有線誘導方式[6]。これは照準器に目標を捉えておけば、ミサイル誘導用の赤外線サーチライトから目標に赤外線光が照射され、ミサイル尾部の赤外線探知機がそれを受信して目標に誘導されるもので、第一世代の対戦車ミサイルのようにジョイスティックによる操作の必要性が無く誘導が容易になっている[6]。

1969年9月、中国は122型中戦車に搭載する中国第二世代と対戦車ミサイルの開発を決定し、開発計画名称として「302対戦車ミサイル」の名を付与した[6]。洛陽での704分廠の建設と並行して、陝西省西安市で、軍・大学・民の連携で対戦車ミサイル開発チームが組織され、1970年には最初の試射を実施するにいたった。しかし、302対戦車ミサイルの開発は難航し長期化したことにより、切迫するソ連戦車部隊への対抗策の一環としての対戦車ミサイル実用化が急がれた結果、ソ連の9M14「マリュートカ」をコピーしたHJ-73が量産化されることが決定[6]。302対戦車ミサイルの開発はいったん中止されたが、その成果をもとに第二世代対戦車ミサイルの開発が1972年に再始動。最終的に1987年に制式採用を勝ち得て、HJ-8対戦車ミサイル(紅箭8)として結実する[6]。302対戦車ミサイルの開発が難航したことで、122型中戦車に対戦車ミサイルを装備するというプランは画餅に終わることになる。

122型中戦車「三液型」の射撃統制装置は、2軸式砲安定装置、微光式夜間暗視装置、レーザー測遠機と弾道コンピュータを連動させた簡易射撃統制システムを採用し、59式戦車と比べて格段に命中率を向上されることが目標とされた。暗視装置は、69式中戦車のアクティブ式赤外線暗視装置に変わって、微光増幅式暗視装置が採用された。アクティブ式赤外線暗視装置は赤外線ライトを照射することで相手側に発見される可能性があったのに対して、微光増幅式暗視装置はパッシブ式装置であり使用を悟られることがない利点を有する。122型中戦車向けに開発された微光増幅式暗視装置は開発が難航しこの段階では完成しなかったが、その後も改良が続けられ1980年代以降の中国戦車に広く搭載されることになる[6]。

副武装としては、二梃の7.62亠ヾ惱董兵臻て閏粥楴崑料位霧把蠎亜砲鵬辰┐董∨づ秕緝右キューポラには20价荏機関砲もしくは12.7佻∩機関銃が設置された。これは第三次中東戦争においてアラブ側がイスラエルの対地攻撃で多大な損害を出した戦訓を受けて、戦車固有の対空能力の強化が求められたことによる。また、最大の仮想敵であるソ連軍が強力な空軍力を保有しており、対ソ有事の際には制空権を奪われた状態でソ連空軍からの対地攻撃の脅威にさらされる危険性が高いとの認識も、戦車固有の対空戦闘能力を少しでもかさ上げしたいという要求につながった[6]。20mm機関砲は1971年に「71式20mm機関砲」として制式採用された[6]。71式の性能は、砲口初速1,010m/秒、発射速度は理論値で400〜500発/分、実勢値150発/分。有効射程2,000m。機関砲の俯仰角は-5〜85度で、40発入りの弾倉一基を装備[6]。20mm機関砲は、低空から飛来する攻撃機や武装ヘリコプターなど航空目標への攻撃のみならず、地上のソフトスキン目標への打撃力も期待された[6]。しかし、20亠ヾ慄い簣∩12.7mm重機関銃では射撃時の反動が大きく、一人で射撃、照準、装弾を行うことは困難なことが判明し、その後開発された改良型の「三機型」では12.7价荏機関銃に改められた。

122型中戦車「三液型」の名前の由来である、油圧式サスペンション、油圧式流体クラッチ、油圧式パワーステアリングは当時の新世代戦車が採用するであろうと推測された新技術であった。「三液型」の操縦はこれらの新技術の採用によって、59式戦車よりもはるかに快適なものであった。しかし、こちらもトラブルが相次いだことで改良型の「三機型」では従来の機械式クラッチ(前5段、後1段)に改められることになった。

「三液型」の油圧式サスペンションは前後左右の姿勢制御、上下160mmの車高変更が可能。また履帯の自動張度調整装置も付いており、整備兵の負担軽減にも効果があるとされた。足回りは前部に誘導輪、上部転輪なしの大型転輪5つ、後部主動輪で構成されている。足回りも「三機型」では59式以来のトーションバー方式に変更された。

このほか122型中戦車は、中国戦車で初めてNBC防護装置、自動消火装置を採用。通信機も中国国産のCWT-176型が搭載され通信可能範囲を向上させることに成功した。なお、開発目標に含まれていた複合装甲については試作車両では採用されず、二種類の試作車「三液型」、「三機型」ともに砲塔は鋳造装甲、車体は溶接鋼板が採用された。

【122型中戦車 「三機型」(WZ-122B/WZ-1221)】
1970年9月25日には「三液型」の最初の試作車両が完成した。しかし、当時の中国の国際的孤立と技術的遅れは深刻であり「三液型」に求められた先進技術の開発は難航し、開発は一時停止状態となった。これを受けて中央軍事委員会装甲兵科は、技術的リスクの高い「三液型」の開発を中止し、既存の技術で新型戦車を開発することに方針転換を行った。この車両は「三液型」に対して122型中戦車 「三機型」(WZ-122B/WZ-1221)と呼称されることになった。「三機」とはトーションバー、機械式クラッチ、機械式操縦装置を指した表現である。その結果、完成していた「三液型」初号車は僅かな試験を行った後、保管されることになった。なお、この「三液型」試作車輛は、洛陽で建設が進められた新しい戦車工場で量産される戦車開発のたたき台として用いられることになる(詳細は704中戦車を参照されたし。)

「三機型」は「三液型」の改良型というよりも、高すぎる要求を現実的な所に戻した存在ということができるだろう。以下では「三液型」との変更点を中心に記述する。

戦車砲は引き続き120mm滑腔砲を装備したが、砲身中央の排煙装置が「三液型」よりもやや長い形状に変更され、両車の識別点となっている。マズルブレーキは未装着。射撃統制装置では、国内技術のみでの開発は難航したことから、夜間暗視装置が微光増幅式からすでに実用化済みのアクティブ型赤外線暗視装置に変更された。副武装としては、前述の通り砲塔右キューポラ上部の71式20mm機関砲が射撃時の反動が大きく、一人で射撃、照準、装弾を行うことは困難だったため、「三機型」では12.7价荏機関銃に改められた。足回りについても、冒険的な新技術の導入が図られた「三液型」とは対照的に、従来型の機械式クラッチ(前5段、後1段)、59式以来のトーションバー方式に変更された。

【開発の難航と発展的解消】
1970年11月27日、「三機型」の開発が正式に開始された。1971年1月17日に最初の試作車両が完成し、1973年までパオトウ、南京などで計3000kmを走行する試験を実施、一定の結果を得ることが出来たが、技術的に未解決の問題点や一部機器の低信頼性などが発生した。これを解決するために更なる技術開発と実地試験が続行され、戦車開発は再び停滞した。1974年からは文化大革命による混乱によって、122型中戦車を生産するか否かについての決定を下すことが不可能になり、開発は既存の試作車両を用いて細々と研究が継続されるという状態となった。

1970年代後半、毛沢東の死と文化大革命の終焉を受けて、ようやく122型戦車の開発が再開される環境が整った。しかし、各国で第三世代戦車が次々と登場する状況の中で、122型中戦車の水準では各国第三世代戦車に対抗できないと可能性が生じてきた。また、西側との関係改善に伴って各種の新技術の入手が可能となったことも、なお一層の成熟を要する国産技術のみで構成された122型中戦車にとっては不利に働いた。

1978年4月、「五種新型車両会戦領小組」は党組拡大会議を開催し、新しい国産第二世代戦車の達成目標、「レオパルト2の水準を基点とし、T-72に対向できる第2世代戦車の開発」を決定し、これに伴い122型中戦車の開発は発展的解消されることになった。この決定に基づいて、122型中戦車を基にして1223型、1224型、1226型、1226F2型などの次世代戦車のテストベッドが開発され各種新技術の実証に用いられた。

この会議では、新世代戦車の研究開発とともに、西側との関係改善に伴って入手可能となった各種新技術を基にして西側第二世代戦車に準じた性能を持つ戦車の開発も決定された。これによって製作されたのが122型中戦車の上部と69式中戦車の車体下部を結合させた1223型試作戦車であり、後の80式戦車(WZ-122/ZTZ-80)に発展することになった。なお、80式主力戦車の製品番号は122型中戦車と同じWZ-122とされた。これは上記の開発経過を踏まえてのことであり、80式戦車が122型中戦車の発展型とみなされたためではないかと思われる。

122型中戦車は中国の国際的孤立の中で、野心的な次世代戦車を開発しようとした試みであった。そして、国際的孤立と技術的制約に加え、政治的混乱がその開発を阻害することになった。改革開放以後、西側からの技術導入によりこのギャップを埋めようとすることになるが、政治的変動と海外からの技術移転停止が戦車開発を阻害する事例は第二次天安門事件で再び繰り返されることになる。

122型中戦車 「三液型」WZ-122A最初の試作車両。名前の由来は、油圧式サスペンション、油圧式流体クラッチ、油圧式パワーステアリングを採用したこと
122型中戦車 「三機型」WZ-122B/WZ-1221「三液型」の不調を受けて、既存の技術でまとめた車両。「三機」とはトーションバー、機械式クラッチ、機械式操縦装置のこと
704中戦車 洛陽で建設が進められた新戦車工場「704分廠」を中心に開発が進められた戦車。設計のたたき台として「三液型」試作車輛が用いられ、装填補助装置や新型エンジンなど新装備が採用されるも開発中止
1223型試作戦車WZ-1223122型中戦車の上部と69式中戦車の車体下部を結合させた試作戦車。西側技術導入のテスト車両であり、80式主力戦車の原型となる
1224型戦車WZ-1224次世代戦車技術実証車。120亞蟾佶ぁ∧9臍甲、流体式クラッチ、ドイツ製1000hpエンジンを採用。のち分解され各種試験に用いられる
1226型戦車WZ-1226次世代戦車技術実証車。重量45トン。小型転輪6個、油気圧/トーションバー方式の足回りを採用。中国製8気筒165型(1000hp)エンジンを採用
1226F2型戦車WZ-1226F2次世代戦車技術実証車。WZ-1226と類似しているが、エンジンは中国製の12気筒150型(1000hp)を採用

【参考資料】
[1]「三代主戦坦克在孕育-中国122中型坦克」『坦克装甲车辆』2005年第3期(中国兵器工业集团公司/坦克装甲车辆杂志社)
[2]「試金石-中国下馬主戦坦克型号内幕」『国際展望-尖端科技報道』総第529期2005年12月号(国際展望雑誌社)
[3]中国武器大全「中国坦克族譜」
[4]兵器知識網「図説我国早期研制的二代坦克」
[5]紅狐狸軍事天地「関于中国坦克発展的蛛絲馬述」
[6]虹摄库尔斯克「一代军工人的梦想-中国的704中型坦克」『兵器』总204期 2016.05(中国兵器工业集团有限公司、39〜60ページ)

122型戦車の派生型
中国陸軍

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