否定派主張

ベイツは南京以外の地区の日本軍の残虐行為を宣伝しようとした。
ベイツは1937年7月から始まっていた支那事変において、11月まで全く残虐行為をしていなかった日本軍が12月から突如急に南京で大虐殺を始めたのでは不自然だと思ったのだろう。

そのため、何とか11月以前にも上海やその他の街で日本軍が残虐行為をしていたことも宣伝もしておきたかったのだが、上海に居たテインパリーかいくら調査しても、1937年11月以前の日本軍の残虐行為は何一つ把握することは出来なかった。

結局、それでもベイツは12月以降南京における日本軍の残虐行為の嘘宣伝を断行するのだが、冒頭に提示した1938年3月に行われた南京のベイツと上海のテインパリーの手紙のやり取りは、宣伝工作員としてのベイツの憂慮を表したものとして面白い。

反論

何がいいたいのかよくわからない。南京だけではないはず、とベイツは考えた、なので、他の都市での暴行も述べた方がいい、と言った。ティンパリーは他の都市では直接の目撃情報がない、二次情報や伝聞で述べてはかえって南京の記述の信憑性がそれによって低下してはならない、と考えた、ということだろう。
この手紙を読んで、宣伝工作員だから、このようなやりとりをしたという結論はまったくでない。宣伝工作員同士が、手紙のやりとりをしているという妄想を抱くと、なんでもそう見えるというだけであろう。

私には人道的見地から南京における暴行を訴えること、それを確実な証拠から言うことの相談をしているとしか判断できない。
ベイツからテインパリーへの手紙
1938年3月3日 われわれの考えはこうです。ずっと行われてきた戦争における野蛮な行為を、戦場から隔たっている公衆に知ってもらうためには、一つの街についてよりももっと広範囲な地域にわたって述べたほうが効果があるということです。遠くにいるものは、南京は結局例外である、つまり首都と言う名前ゆえの政治的憎悪や、時間的、人員的な偶発事件によるものと簡単に思ってしまいます。しかし、同じ時期に、上海、松江、蘇州、無錫、湖州、抗州にも同様な話があることが分かれば、全体的に見てずっと信憑性があるということになります。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編


 
ティンパリーからベイツへの手紙
1938年3月28日 なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとお尋ねですが、『戦争とは何か』の第7章を読んでいただければ分かると思います。この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません。日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から民衆を機銃掃射するといった一連の空爆が主なのです。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編

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