東中野のティンパリー、ベイツに関する言説は北村稔の説を継承したものである。北村説が崩壊すれば、東中野説も崩壊する。その北村稔の説を歴史修正主義者仲間の松村俊夫が批判しているのであるが、この批判が奇妙なことには当たっており、東中野説をも直撃しているので、ここで紹介する次第である。
しかし、松村の目的は北村稔の特に目立った誤りを否定し、新たにティンパリーの陰謀説を補強することにある。


スマイスとティンパーリー
「自伝」のみを唯一の根拠とする判断は誤り 松村俊夫
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/15...


 北村教授は、当時の国際宣伝処長だった曽虚白の自伝のうちの該略次のような表現を事実と受けとめ、それを自説の唯一の根拠とした。

「当時南京にいたティンパーリーが上海に到着すると、漢口に来てもらい、彼と彼を経由してのアメリカ教授のスマイスに依頼して、宣伝刊行物の『日軍暴行紀実』(別名『外人日賭中之日軍暴行』、「戦争とは何か」の中国名)と 『南京戦禍写真』という二冊の本を金を払って書いて貰い、この両者は売れ行きのよい書物になった。」

 しかも北村教授は、拙著もとりあげた南京のベイツと上海のティンパー リーが交わした「戦争とは何か」の出版打ち合わせについて往復書面を知っているにもかかわらず、何故か「ベイツには国際宣伝処との関係は無かったと判断」 した上での結論であった。しかしそこに至る過程には多くの誤りがある と断じざるを得ない。

 第一に、ティンパーリーは南京にいたことはない。但し当時の上海では、ティンパーリーが上海から漢口へ行き、蒋介石の顧問をしていたドナルドという人物から対外宣伝用の資金を貰ってきたとの噂が流れていた(日本の上海領事館から広田外相への電報)。

#ティンパリーが南京にまったく行ったことがないということはない。資金をもらったという話は未確認。

 第二に、南京国際委員会書記だったスマイスは、実質上の文書作成の責任者として委員会を切り盛りしていたが、その個人的な手紙を含む彼の文書からは、ティンパーリーとの接点を示す痕跡はいささかも残っていない。

 第三に、「戦争とは何か」の南京に関する部分は、ベイツとフィッチ(南京YMCA)が書いてティンパーリーに送られたもので、筆者はスマイスではない、発刊の準備段階からロンドンへの原稿の発送、それについての漢口との打ち合わせに関しても、ティンパーリーの南京の連絡先は常にベイツだった。

#スマイスがティンパリーとも、中央宣伝処とも関わっていたという証拠がない以上、曾虚白の自伝の記述のうち冒頭の引用部分の信憑性は低いとするのは当を得ている。

 第四に、亜細亜大学の東中野修道教授がエール大学神学図書館で発見された「ベイツは(テインパーリー同様)蒋介石政権の顧問だった」という決定的な資料の存在がある(1938年と46年にベイツに勲章が贈られている)。従ってベイツが国際宣伝処と関係無い筈はない。

#蒋介石政権の顧問であるならば、国際宣伝処と関係がある、という松村の断定はトンデモである。

 第五に、「戦争とは何か」の中国語版『外人目賭中之日軍暴行』には、当時の国民政府軍事委員会政治部第三処長(宣伝担当)だった郭沫若の序文があるが曽虚白のそれは無い。

#この指摘は妥当なものです。ティンパリーと実際に接触したとしたら、それは郭沫若の方であって曾虚白は脇に押しやられたと推定される。

   戦後、郭沫若は中共に、曽虚白は台湾と別れたから、その反目が曽虚白をして「功労者」のベイツを隠してスマイスにしてしまったのかもしれない。自伝を唯一の証拠として歴史を語ってはならないのである。

#まず、ベイツが国際宣伝処と関係がある、という断定からして根拠がないのですが。自慢話と記憶違いが多い自伝を唯一の根拠にした北村批判は正当である。

 第六に、1938年7月12日の上海でベイツが『戦争とは何か』の出版予告をして、自分が書いた部分を誇らしげに明かしている。

  最後に、『南京戦禍写真』がスマイスの『戦争調査』(正式名「南京地区に於ける戦争被害』)を意味するというのはおかしい。


     写真は写真であって『戦争調査』は多くの統計表を伴った論文である。戦禍写真とは恐らく、『外人目賭中之日軍暴行』に、原本には無いと注釈して掲載されているもので、郭沫若の宣伝担当第三処が作ったのではないかと私は想像している。曽虚白はすべてを承知の上で郭沫若の功績を消したかったのではないだろうか。

#日本語の「写真」は中国語では「照片」と言いますし、中国語の「写真」は実状、真相の意味です。『南京戦禍写真』はスマイスの『戦争調査』に決まっている。こんなことも知らないようでは退場して欲しいものだ。

 スマイスの『戦争調査』について、私は平成13年11月3日付で法廷に 提出した論文「南京大虐殺の証人、宣教師マイナー・S・ベイツの研究」の なかで詳述したので、いずれ機会を見て発表したい。

 私は、『戦争調査』の「はしがき」のみならず、本文中の日本軍による 暴行被害と繰り返している「都市調査」はベイツが主となって作成し、加害者として日本兵を特定していない「農村調査」はスマイスが担当した のではないかと思っている。作成者としてスマイスの名前を冠したのはベイツの智恵ではなかったろうか。1938年3月3日のベイツより ティンパーリーへの手紙に次の一節がある。

#ベイツが書いたという推測に根拠はない。

 「スマイスが中国人の助手を使って農業の調査を、そして私が多くの諮問会議を開いて市民の事業の調査を始めようとしています」         (青木書店刊「南京事件資料集〈1〉」359頁)

 以上の如く、「戦争とは何か」にはスマイスの影は無く、 『南京戦禍写真』も『戦争調査』とは全く無関係であった。

 このように、ティンパーリーは恐らくドナルドの指示のもとにベイツと 連絡をとったことは間違いなく、スマイスではなかった。

#この推測も根拠がない。

 北村教授は、1月16日に日本側に差し止められたティンパーリーの 送信記事を御存じなかったようだが、そこには「30万の市民が虐殺された」 とのみあって地域の特定は無い。一介の民間研究者ですら持っている資料 である。

#東中野も「揚子江デルタ地帯30万人虐殺」などと勝手に地域の特定をしているようだ。

 北村教授は「エピローグ」で南京事件について
 (なぜそのようなことがおこったのか)

 が先ず大切だとする。しかし私は、第一に行うべきは真実の追究である と思う。その意味で、単一の資料だけを以って歴史を考えたことについて 御再考をお願いしたいのである。

#北村批判は正鵠をついていますが、松村自身単一の史料による過ちを冒している。

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