日本は言霊、数霊の国です。蘇民将来、八百万の神

昭和天皇(しょうわてんのう、明治34年(1901年)4月29日 - 昭和64年(1989年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。生物学者でもある。大東亜戦争時の最高権力者であったが、天皇は日本統治に利用すべき存在とされ、アメリカから戦争責任を問われなかった。このことは後に多くの論争を引き起こした。生歿年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および寿命が最長である。
在位中の元号

昭和


[編集]


追号

在位中の元号である昭和より昭和天皇と追号された。

略歴

1901年4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵 川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。

1908年、学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。

1916年に立太子礼をおこなって皇太子となる。

1921年3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。

同年11月25日、20歳で摂政に就任する。

1923年12月27日、虎ノ門付近で社会主義者の難波大助に狙撃されるが、命中せずに命を取り留める。(虎ノ門事件)

1924年に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)と成婚。

1926年12月25日、大正天皇の死去(崩御)により践祚し、即位する。

戦艦武蔵艦上で

1929年、神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する特別講義を受ける。

1945年8月15日、太平洋戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇の中で初めて国民に天皇の声を聞かせる。

1946年1月1日、新日本建設に関する詔書(人間宣言)を発表し、神格を否定する。全国巡幸を通じて、戦後の開かれた皇室の基礎を築く。

1962年、南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌を詠んだ。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

1971年9月27日より皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。

1975年9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを訪問する。

1987年9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。

1989年1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲癌により死去。

1989年2月24日、大喪の礼が行われる。


[編集]


事件
[編集]


田中義一首相を叱責

満州某重大事件の責任者処分に関して、田中義一内閣総理大臣は責任者を厳正に処罰すると天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、昭和天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中義一を激しく叱責し、彼を罷免した。
[編集]


天皇機関説事件

1935年、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接にはなんら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。

機関説は、本来は、国家有機体説にたったものであるが、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びついていた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木−美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。
[編集]


二・二六事件

1936年に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、昭和天皇は「我が頼みとする大臣達を殺すとは我が首を真綿で締めるが如き行為だ、こんな奴等を赦してやる必要などない」と激怒、「お前達がやらぬなら私が近衛師団を率いて直接鎮圧に当たる」と発言したとされる。

これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。しかし、毅然とした態度に当時独走傾向が強かった一部軍人の間に、さらなる独走傾向を強めたとされる。

この時の発言を、太平洋戦争終結の聖断と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年にエリザベス女王が来日した際、首謀者真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自らの通訳に選んでいる。
[編集]


大東亜戦争開戦

1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の

「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海はみな兄弟と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。)


という短歌を詠み上げた。これは立憲君主として、政策は民意によって形成されるべきであるという考えに立ちつつ、それでも戦争を望まないという最終的な意思表明をしたものだと思われる。これにわかる通り、天皇は専制君主とならぬよう自覚し、自らを律して行動していた。
[編集]


戦争責任
昭和天皇とマッカーサーの会見(1945年9月27日)

大東亜戦争時の最高権力者であったが、連合国から戦争責任を問われなかったことは後に多くの論争を引き起こした。

敗戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)のもとでは、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。

統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年の満州事変から日中戦争、さらに大東亜戦争へと続く、いわゆる十五年戦争の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事等についての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問え得ないとする主張とのあいだで論争がある〔大日本帝国、大日本帝国憲法を参照〕 。 また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であり、太平洋戦争(大東亜戦争)に関して、天皇が開戦をした等という考え方はそもそも取りえない、又は、戦争責任という概念自体がそもそも空論であり、戦後において勝者が敗者を私刑するための空想概念であるとする説も主張されている。

敗戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇を被告として裁く事となると、国内世論が占領軍に反発し、円滑な占領政策が行えなくなるとの懸念)と、天皇制国体の護持を信奉する支配階級の思惑(天皇の戦争責任を一部の軍人と政治家に転嫁して、責任追求を回避させること----このため、松平康昌・田中隆吉らはGHQへ情報を提供し積極的な協力をした)によって、戦犯として裁かれることはなかった。他にも理由として、昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサー元帥は当初命乞いするのではないかと考えていたのに対し、昭和天皇は「私はどうなっても構わない。責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。」と語り、マッカーサー元帥が大いに感動したからとも言われている(マッカーサーメモより)。但し、この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかでない。

1946年1月1日に発表された年頭の詔書、いわゆる人間宣言で、天皇の神格を否定した。その一方で、「降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」なる短歌を詠んでおり、捲土重来を期したと見られている(松は日本、降る雪をGHQの圧力に喩えたのだと読み解く声あり)。
[編集]


外遊
レーガン大統領夫妻(左がナンシー、中央が大統領)と昭和天皇(右)。1983年11月9日、東京にて

皇太子時代の1921年3月3日から同年9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見した。イタリアではヴィットリオ・エマヌエーレ国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。

1971年には再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したが、大東亜戦争中にアジアに点在する植民地を攻撃されたことに怒る退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。

また、1975年にはアメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。ロサンゼルス滞在時にディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。
[編集]


死の前後

1988年9月19日に吐血してから翌年1月7日に崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティが自粛になった。

1988年の中日ドラゴンズのリーグ優勝パレードの自粛

1988年の明治神宮野球大会中止

井上陽水出演のCM(日産自動車:セフィーロ)で「みなさんお元気ですか?」の音声カット

五木ひろしの結婚披露宴の中止

1988年の「日本歌謡大賞」が中止。



崩御後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。

大相撲初場所の1日延期

崩御後数日間に渡って、TVはCMなしで追悼特番のみを放送し続けた(参考リンク)

1989年の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)

1989年の全国高校サッカー選手権大会は2日間順延された。



関連項目

コマーシャルの放送されなかった日


[編集]


足跡
[編集]


短歌

昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだとされている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。

昭和天皇の歌集

みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編) (1951年11月、毎日新聞社)

おほうなばら:昭和天皇御製集 (宮内庁侍従職編) (1990年10月、読売新聞社)

昭和天皇御製集 (宮内庁編) (1991年7月、講談社)


昭和天皇・香淳皇后の歌集

あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集 (木俣修編) (1974年4月、読売新聞社)




[編集]


生物学研究

昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いでいる。1925年6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)在野の粘菌研究第一人者南方熊楠より進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは昭和天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。 昭和天皇の生物学研究の意味については、山偕芳麿や黒田長礼の研究と同じく殿様の生物学とする見解や、「その気になれば学位を取得できた」、とする評価がなされることがある。さらにこれらの評価を、いずれも天皇の生物学研究を、あまりにも一般人と同じレベルで見すぎているとする見解もある。すなわち昭和天皇が、研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解である。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼びひそかに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深い。なお、昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。

メニューバーB


にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





Wiki内検索

メニューバーA



天1=2、2=2,3=2,123=6、人4=1、5=1、6=0,7=0、8=1,45678=3、地9=1,10 =3、910=4。日6月3星4,
天+1=日=天=6、6の現人神。67欠け、
 十3年(星)十2月(月)1日(日)。日が1で、月が十2、星十3で完全な生命の樹,十は0ですので321。月日の121は、正6面体ブロック4つで凸の形になって、御輿、三社造りとなっています。天地人634、日月星634。総数13で平成13年に符合。日=天で天照大神。








 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

管理人/副管理人のみ編集できます