329 名前:梅花空木の雨1/2 [sage] 投稿日:2011/06/04(土) 23:27:12 ID:33/tT1zo [3/5]
330 名前:梅花空木の雨2/2 [sage] 投稿日:2011/06/04(土) 23:29:04 ID:33/tT1zo [4/5]

梅花空木の雨


開いた口が塞がらない、という状況は唐突にやってきた。九歳。車椅子。身内ゼロ。孤独の生活。
八神はやては、車椅子に座ったまま医師である石田の話を聞いていた。表情に変化は無かったが、
閉ざされた唇は僅かに揺れていた。反射的に、時折動く眼差しが微細な動揺を描く。

石田の話を聞き終わると、車椅子に座ったまま頭を下げ感謝の礼を述べた。両手でハンドルを操り
主治医の部屋を後にする。手を動かした分だけ車輪が回り、車椅子は動く。
廊下は病院はお静かにというお触れに従う人達のざわめきと、消毒液の匂いに満ちる。

点滴連れだって歩く人、見舞いの人。医者に看護婦。検診を待っている人。
いろんな人達がいる。死を待つ人も、唾をつけておけば治る人も。そして病院生活が長いはやては知っていた。
受付の椅子に座っているお年寄りの三分の一は用も無く居る事を。
老若男女いろんな人が病院にはいるが、余生を見いだせない老人達に忌避の眼差しを向ける事は無かった。

エレベータの前まで来ると、ハンドルにブレーキをかけて車椅子を止める。周りに、人はいない。
1つ下の階に下りていた昇降機は直ぐに上ってくる。ランプが灯り、扉開かれた時。中は誰もいなくて安堵の吐息を落とした事に
はやて自身気付いていないようだった。他に乗る人も居らず一人ハンドルを動かして乗り込んだ。手を伸ばして二つ上の階のボタンを押すと
再び、エレベータの扉は閉ざされる。劇の幕が落とされるように、姿を消す。

二つ上の階につくと、再びハンドルを操って自室もとい病室に戻る。誰もいない、一人部屋の白い部屋。
カーテンが風を少し孕み揺れていた。濃い緑の匂いに気付き、窓の外を見ると、青空と、少しの雲が浮かんでいる。

「……………………」

昨日も。
おとといも。
その前も。
その前の前の前の前も。
見た空だった。

雨の日も風の日も。
台風が来て、暗雲立ち込める天気の悪い日も。

「…………しょっぱいなぁ」

何を想うのか、空を見たままぽつりと呟いた。
世界じゃ、誰かが死んでいるらしい。
内戦で、事故で、犯罪で。そしてはやてと同じように病気で命を落としている。
そして誰かが涙を流して、声を上げて泣いている。
いろんな世界があって、いろんな人がいる。

不治の病の人もいれば、病気とは無縁で健康に過ごす人もいる。
数分前、はやては石田医師に症状の説明をされた。どうやら、悪化要因というものがなくなったらしい。
これまで、全て原因は不明で余命幾許と言われ足も動かなくなり、明日も知れぬ命と覚悟し続けてきたがその心配もなくなったらしい。

はやては医療の詳しい事は解らなかったし、医者が良くなったと言えばいえば「はい。」悪くなったと言われても「はい。」としか言いようが無い。
悪化していた原因不明の症状が消えたと言われれば、「はぁ」としか言いようがない。家族もない。友達もない。
ただ一人、グレアムおじさんがくれる生活費だけで生きてきたはやてにとって、唐突に開けた世界は小さな戸惑い以外、何者でもないのだ。

空を眺めるその姿は、まさに人ごとだった。もはや死への恐怖は消え去り、達観したものだけが残っていた胸の内に、ぽいと
生存権が戻される。これから、また学校に通わなければいけないのかもしれないが、未来は左程、開けてはいなかった。
戦場に立つ一人の兵士と同じく、はやては空を眺め続けた。

まだ検査はあれこれあるらしいが、もう健康体らしい。
ただ、足が元通りにならなくなった事を除いては。これからは健常者ではなく障害者八神はやてとして生きる事になる。
肩を揺らし大きく息を吸い込んで、肺を酸素いっぱいにしてから吐き出した二酸化炭素に別れを告げた。

濃い緑はイカのような、キノコのような、生命の原初の香りを思わせた。
臭かった。

検査が一区切りつくと、呆気なく退院した。でも暫くは検査に訪れなければいけないらしく、病院と完全な別れはもう少し時間が必要そうだった。
車椅子生活がスタートしたが、其れは以前からなので然程代わりも無く、支障も無かった。暗然とした未来もなく、淡々と日々が過ぎるが、
一つ。困りごとが起こった。秒針の時計が動き続ける八神家のリビングで一人。通帳を手に頭を悩ませていた。はやてはまだ幼く、収入がない。
親もいない。そんなだから、収入源は全てグレアムおじさんという人が銀行振り込みをしてくれていたのだが、退院した月から、振り込みが途絶えたのだ。

吐息一つ。通帳を眺め続ける。いきなり生活に困る額ではない。むしろ、当面おろか数年の余裕はありそうだ。それもこれも、どうせ死ぬんやから
極力お金は使わずに貯めといてお返ししよーと質素な生活を続けてきたのが一因する。それの良し悪しを考えるはやてではないが、収入がなくなるのは困った。
だが、電話番号は知らず唯一知っている連絡先には何通か手紙を出しているが、未だ返事は返ってこない。暫く通帳を眺めてから、車椅子のハンドルを操り
居間を後にして自室に戻った。扉を閉ざす間際、こんなつぶやきが聞こえた。

「私もついに孤児院入りかいな」

空笑いが浮かんでいた。
外は雨が降り始めていた。
寂しそうに弾ける雨粒の囁きが聞こえる。
八神家を、傘をさして見上げる二人の少年がいた。

「行こう」

ただ、雨音が聞こえていた。
ユーノは、何もかもを雨に流した。





著者:110スレ328

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます