(p.52)
主意主義者と考えられている人々の関心と、ハリソンの研究の焦点を形作った堕落以降の人間についての悲観論者には重なりがあり、彼らを切り離すことはできない。しかし、主意主義という独立な概念を廃するとことは我々の理解が不十分になるのではないか、ということは指摘する価値がある。
神の全能性は、確かに、これまで主意主義者対主知主義者と述べられてきた議論をしていたものたちにとって、差し迫った関心事のように思える。そして、全能性への関心が、無神論者と考えられる人々に対して神の存在を証明するという試みと密接に関係していることは明確である。無神論の脅威が、結局は聖書の記述に基づいている我々の精神的能力の不十分さに訴えることで減じられるとはほとんど思えない。実際、神が何をできて何をできないのかという議論が、人間の精神的能力よりもはるかに直接的に、彼らの自然哲学の内容に関わる意味を持つ一方で、堕落以後の精神的能力の不十分さに訴えることは、言ってみれば、著者の、仲間のプロテスタントへのアウグスティヌス的規範の受容を見せるという自然哲学の文学におけるレトリックのレベルでは機能するとさえ論じられた。いずれにせよ、特に17世紀のイギリスで実験的な方法が発展した背景の大部分をハリソンが明らかにしたが、この実験方法は主意主義の伝統に代わるものではなく、並んで密接に関係していると考えられるべきだと結論付けるのが合理的であるように見える。



デカルト、神学者、そして自然法則
 新しい哲学者たちが流れ込んでいった神学の深さと細かさから判断すると、彼らは単に口先だけの信心で、不信心という責任から逃れるために神学に関心をはらったというわけではない、というのは明らかである。それどころか、彼らが、自身の哲学的な主張を下位に置くほどまでに、神学を自分たちの生活に不可欠であると実際に考えていたのは明らかである。
 非常に明確な例が、物理学の新しい体系の基礎として正確な自然法則を成文化するという最初の試みにおいて得られる。曖昧な意味での自然法則の観念(ミツバチは蜂蜜を作り、太陽はいつも昇る、などといった自然法則である)は、記憶に残る前の遠い昔から存在している。しかし、デカルトは、非常に多くの物理現象を説明、予測することのできる、決まった数の正確な自然法則の近代的概念を導入した。本当は、デカルトは、因果論的な観念から物理現象を説明するためにはそれらの法則に依存しなければいけなかったのであるが。
因果論的説明は、アリストテレス物理学には不可欠なものであったが、デカルトの新しい体系は伝統的なアリストテレスの四元因説の観点からの説明は認めなかった。
(p.53)
デカルトの三つの自然法則は、それゆえ、それ自体が代わりに自然の説明原理となるように提案された。例えば、デカルトの第2の法則である、「すべての運動は、それ自体において、直線となり、結果的に、円運動をする物体は常に円の中心から離れようと動く傾向がある」という法則は、なぜ投石器に押さえられながら回転した弾が回転の中心から離れる傾向を持っており、しかし放されたときに回転の接線方向に飛んでいくのか、という現象や、その他の多くのことを説明できる。そして今度はその日常的な現象から、類推によって、惑星の運動や光線のふるまいなどの現象を説明することができるのだ。
しかしデカルトは、法則の作成者ではなく物理学者と考えられており、その上どうやって生命のない物質がデカルトの定めた法則を知り、ましてやそれに従わなくてはいけないというのか。デカルトは、このような疑問に、実際に訊かれる前ですら答えなくてはいけないことを知っていた。結果的に、彼は神をその物理学に導入せざるを得なかった。デカルトは、その自然法則はデカルトではなく神によって定められたものであって、自然法則は、生命のない物質に課されたものというより、物質は常に自然法則に従ってふるまうと保証した神が、自ら課したものであった。デカルトの神学は、自らの自然法則に従う神の自制の永続性を確かにするためだけでなく、第2の法則(それ自身で動く物体は、そのような運動が、物体の進むべき道について新たな決定をし続けるような神を必要としないことから、直線上を進む)を説明するためにさえも、神の不変性を強調した。
以上より、我々は明確で非常に意味深い、自然哲学の革新者についての事例を得ることができる。その革新者は、日常的な信仰心による気紛れな思いつきでなく、自身の物理学には不変の神による保証が不可欠だと認識していたからこそ、注意深く組み上げられた神学を自身の自然哲学に導入したのだ。

デカルトの神学は、確かに標準的なキリスト教神学の一般的な言葉に従っていたにもかかわらず、その細部において実質的には、彼自身の目的に合わせられた独特のものであった。しかし、彼がそのような企てに没頭していたただ一人であるということでは決してない。主要な自然哲学者の多くは、自分の自然哲学が宗教と神学に関係していると示すために同じような労力を割いた。おそらく最も著名な例はケプラー、ボイル、ニュートン、ライプニッツだろう。実際、ファンケンシュタインとゴークロジャーによる初期の近代自然哲学における神学の重要性についての主張の観点から、なぜ主要な自然哲学者たちは記憶にある中で最も信心深いように思えるのかが分かる。つまり、彼らはその知的な気力を、科学に対するのと同じくらいに神学に費やしたからである。そしてまさに、彼らはそうあったが故に、主要な自然哲学者となりえたのだ。


(p.54)
自然神学、理神論、そしてその向こう
 ゴークロジャーの、直近代における科学と宗教の野心的な統合は、「科学文化の出現」に宗教が否定しがたい重要性を持つことを十分に示した。しかし、その主要な目的は「すべての認識の価値観の科学的なものへの一元化についてと、それがどのように起こるのか」を示すことだった。短く言えば、それは科学の勃興の研究であり、結局は、科学と宗教が対等の関係となって後の時代を進んでいく物語ではない。16,17世紀の自然哲学者による世俗的な神学は、結局短い発展しか残さなかった。直近代の科学と宗教を研究する学問のほとんどは、科学の勃興と宗教の衰退に関心を持っている。そして皮肉なことに、次の章で十分に議論される自然神学といわれるものが勃興する。
 間違いなく、この科学と宗教の出会いを明示することに最初に貢献したのは、CharletonのThe Darknes… であり、MoreのAntidote…であった。これらの始まりから、自然神学はますます強力になった。それは特に、ボイルの「キリスト教を証明する」という意志によって設置された毎年の講義でニュートンの自然哲学が頻繁に使われるようになったイングランドで顕著だった。1692年のBentleyによる講義にはじまり1714年まで続いたボイル・レクチャーは、イングランドでの啓蒙運動の特徴であったニュートン自然哲学と英国国教会の聖なる同盟を築いた。
 しかし、神の存在を証明するためにニュートン自然哲学の込み入った事情を強調することは、神の哲学が理性に取って代わられることをいみし、結果として教会の慣習を犠牲にして理神論を成長させ、そしてほぼ間違いなく世俗化が始まるきっかけとなってしまった。
 少なくとも一人の解説者にとっては、このことは科学と宗教の関係において究極の皮肉に思えた。ウェストフォールは、信心深い自然哲学者の、さらには主要な聖職者の、宗教的価値観による伝統的手段でなくニュートン自然哲学によって神の存在を証明する努力も、皮肉にも同時代の人々を理神論に導いたと主張してきた。
 無神論の脅威に打ち勝つための模索の中で、英国国教会の自然宗教への強調は、啓示や聖書の妥当性を否定するという理神論的な傾向を進め、英国国教会の不可逆的な弱体化を進めた。

このページへのコメント

2chで話題のやつですd(´∀`*)グッ★ http://ylm.me/

0
Posted by 素人です 2011年11月21日(月) 20:58:03 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます