2.バンドヒストリー

<b>結成から東京進出まで</b>
幼少の頃からの友人だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような子供であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「NOISE」を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。
地元では進学校として有名な千葉県立安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。
Xというバンド名は当初「正式なバンド名が決まるまでの、仮の名前」であった。「1文字だと、コンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちだったという。当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。
※ちなみに、この「徹子の部屋」出演時にYOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また番組中、Xの楽曲で1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介したが、当時の最高速曲は「オルガスム」や「I'LL KILL YOU」。それらを聴かせたらびっくりされてしまうと判断した、YOSHIKIの無難な選曲である。
高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。

<b>インディーズ時代</b>
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。
この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKI(この当時は、ゲイリー・ヨシキと名乗っていたこともある)がドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHIが客に向かって「食え?!!」と叫び、新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、この時演奏されたのは『オルガスム』。現在のX JAPANのイメージとはかけ離れているが、実話である。
ライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、店員にYOSHIKIがいるかどうかチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシングの対象になった。
当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。ただ、こうした批判にはXに対する彼等のやっかみがあったともされる。
結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた。
それと前後して、メンバーも固定化された。一時期ヘルプとしてXに参加していたTAIJIが1986年の年末に正式に加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。
こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。

<b>CBSソニーとの契約</b>
メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。
実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士氏が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田氏自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「?3rd.」はマネジメントまで引き受け、まさに「プロジェクトX」状態となっていった。

<b>メジャーデビュー、東京ドーム3days</b>
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的な記録であった。
その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のツアーは全て中止されたである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞レースを総なめにして、X現象は全国へと広まって行った。
1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のフィルムコンサートを行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たす。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
しかしこの時、既にYOSHIKIとTAIJIの間には溝ができていた。
1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初めてとなる、東京ドーム3DAYS公演を敢行し12万人を動員。だが、このライブにおいて、ファンは「TAIJIに何かがある」事を感じざるを得なくなる。そして、1月末の「ミュージックステーション」番組内において、ビデオメッセージによりTAIJIの脱退が発表される。
その後、Xに更なる試練が襲いかかる。

<b>ソニーとの契約解除、世界進出</b>
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。
これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。
契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージックの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。
海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。

<b>長期のレコーディング、バンド以外の活動</b>
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。
これと平行して、各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。そして、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。
本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正しまくったという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。
さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。
このようなバンドの状況とは別の所で、日本国内ではフィルムコンサートが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、アルバムがなかなか出ない状況下でも様々な活動があった。

<b>DAHLIAリリース、解散</b>
長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム「DAHLIA」がリリースされた。しかし全10曲中7曲までがシングルカットされるという、ベスト盤的アルバムとなってしまった。
その後ツアーが開始されるが、またしてもYOSHIKIが倒れる。福岡ドームなど数会場の公演が中止となり、以降ツアーが再開される事は無かった。
そして、この頃になるとTOSHIがXに息苦しさを感じるようになっていた。
1997年4月、方向性の相違によりTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に解散を発表、記者会見を開く。1997年12月31日に東京ドームで行われた「THE LAST LIVE」を最後に解散した。
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解散後のX JAPAN
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。その矢先、1998年5月にHIDEは急死してしまう。これにより、2000年のX JAPAN再結成は幻となった。この事が、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させてしまったのは皮肉としか言いようがない。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。
さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われている。
日本国内のみならず、海外、特に東アジア、東南アジア圏でのX JAPAN人気も相当なものである。韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します(原題:Windstruck)』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。
2005年09月10日(土) 15:15:40 Modified by xjapan_wiki




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