過去の日記〜考えたことなど(1)

*考えたことなど/ヨハネ受難曲('05/3/13)

昨日は「ヨハネ受難曲」by J.S.Bachのコンサートで通奏低音を弾きました。この3回の週末それぞれ時代/スタイルの違う音楽の場で音を出すことが出来、目まぐるしくも楽しい時間でした。
 受難曲も含め、この時代の宗教曲は字を読めない人たちても聖書の内容が理解できるように、という目的で作られていますから、ドイツ語の細かい意味はわからなくても、目の前に聖書に書かれたイエスの受難の出来事が現われていると感じるほどにリアルです。2001年にも同じ合唱団、指揮者で演奏したのですが、その時の記憶はあまりなく、おかげで?改めてこの曲を新鮮に「聴く」ことも出来ました。アリアもどの曲も本当に良いのですが、この曲は合唱がポイントなのですね。合唱の歌詞は聖書のとおりの描写と宗教的創作詩のコラールからなり、合唱は「バラバではなくイエスを十字架につけろ」と叫ぶ民衆の声やイエスを揶揄する兵卒たちの嘲りなどを表す一方で、信仰告白や応答であったり、という重要な役割を担っています。
 なぜ重要かと言うと、ここからバッハがどの立場に立っていたかがわかる気がするからです。思うに、彼は合唱=当時の教会に集う民衆の立場で「聖書の言葉を聴いて」いたのではないでしょうか。これは「会衆主義」のプロテスタントの教会では、当たり前のように思われていますが、音楽上でそれを表明しているのは結構重要なことかもしれません。また「民衆」という言い方をしてしまいましたが、実はこれは、人の「固まり」ではなくて、一人一人の「個」が集まっているということですから、一人の人間の中に「イエスを十字架につけてしまえ」という声とイエスへの愛、従順、信仰の深さなど両方が存在する、そのようなものが「人間」なのだと。決して清らかな、聖なるもののみが存在するのが信仰なのではなく、両方の声をあげうる、そのようなひとりの人間である、そうありながら神、信仰を「希求」し表わすというのが彼のスタンスだったのではないかと、思いました。
 今まであまり考えなかったことですが、私にはこれ、結構感動ものなのでした!
 
*考えたことなど/嘘は何を伝えるか('05/3/18)

2年近く前、私は2人の演奏家と一緒に、近々行なう演奏会のためのプロフィール用写真(新聞社等に送る紹介用の)を撮っていた。一人は歌手、もう一人はリコーダー、私はそのコンサートでポジティフオルガン(小型のパイプオルガン)を演奏することになっていたため、皆でオルガンを囲んで型通り一応目的の写真を撮り終えた。ま、これで一仕事片付いたね、なんておしゃべりをしながら、どういういきさつだったかは覚えていないが、まあ弾みというもので、たまには「ウソ」写真を撮ろうよってことになり、歌手はリコーダー奏者に、リコーダー奏者はオルガニストに、私は歌手になりすまして・・という「なんちゃって」写真を撮った。さてそれらをプリントしてみると、である。
 そこには、ホンモノのプロフィール写真よりもはるかに「ツクリモノ」としての迫力をみなぎらせた私たちがいたのである!これは私一人の印象ではなく、他の二人も同様に感じて、「いや、不思議なもんだねえ」と感心しきり、であったので
殊に印象深く記憶に残る出来事となった次第である。
 なぜ、真面目に本業の楽器を持ち、コンサートの内容及び営業面の成功への熱意をこめてレンズに送った視線、姿勢よりも「私たちは今虚構を演じてますのよ」というなんちゃって写真の方が生き生きとしていて、迫力さえ感じさせる被写体に成り得たのだろう?いろいろなことを考えさせられる。意外とこのことって深いんじゃないか。
 「他人の語り口で話す時、なぜ私たちは思っていることより語りすぎ、思わぬ饒舌になってしまうのか」・・内田樹氏は、このちょっと語り過ぎる自分と本当に言いたかったことの狭間で自らの言語表現を鍛えるのが肝要だと言う。
 文章でさえそうなのであるから、写真というメディアが伝えてしまう情報の量、質はどれほどのものか。私たちは常に誤読する。読み込むことを読み込んでいることにすぎない・・。嘘から出た真(まこと)という言葉もあるが、なにを「真」とするのか。真だと「思わせる力が強い」者ほど売れるタレントだ、ってことだけは確実。
 ま、私たちは本業には真面目すぎるのかもね。営業戦略的にはもうちっと「ツクリモノ」路線でいってもいいのかも。

*考えたことなど/生きている不思議('05/3/20)

 福岡というのは滅多に地震のない地域であった。せいぜい震度3位のものはあったと思うが、震度6というのは私、また親の世代にとっても最も大きなものだ。中南海とか東海、また関東などはいずれ大地震が起こると言われてそれなりの備えなされているものと思うが、福岡など九州北部というのは台風は来ても地震は少ないと認識されていたので驚きは大きい。震源地の玄海島は博多湾から少し外海に出た所で、父はよく魚釣りに行っていたし、子供の頃私たちも海水浴に出かけたことがある。外海なので水がきれいで魚が泳いだり、ヒトデが水底にいるのが水際からも見えたのをよく覚えている。考えてみれば、自然の現象、特に地震は、いつどこで起きてもおかしくはないのに、経験的に少ないというだけでここは地震が少ない=安全だという飛躍的認識に走るのはやはり危険だ。
 皆さんにご心配いただきましたが、おかげさまで私の家族は無事です。弟は部屋の棚が倒れて復旧困難ではあるが、自分はたまたま職場に出ていたので助かったと言う。仕事の関係もあって部屋に大量のレコード、ビデオ類を所持しているので、もし部屋にいたら、それらの下敷きになっていただろうということだった。こういう話を聞くと生きていること、無事でいることは当たり前ではないのだなあ、紙一重という感じがする。
 ある程度長く生きていると、そういう経験をすることは誰にでもあるのかもしれない。1985年の日航機墜落事故の時、私はあの飛行機と同じ時刻発の福岡行きの便に乗るため、大阪行きに乗った方々と同じロビーにいた、という経験がある。(そのころの羽田空港はまだ狭い建物で、大きなロビーに何便かの乗客が集められて、その後搭乗ゲートで別れるというしくみになっていた)福岡に降りると飛行場が騒然としていた。当初は行方不明になった機体がどれかも特定されなかったので、心配した家族や知人たちが空港に押し寄せていたのだ。その後、話を聞けばきくほど恐ろしくなった。どうして大阪行きに乗った人々はあのような運命に遭い、私たちは無事なのか・・。災害、病、どんなに進歩した社会でもそれらによって
失われる命があることの不条理はなくならない。そして自分が今生きていることの不思議も。
 まだ余震も続いている。特に高齢の方、子供たちにショックが残らなければよいが。皆様の平安を祈ります。

*考えたことなど/格差、So, What? ('05/3/23)

 久々に叔母と電話で話す。この叔母は長年生命保険会社で働いていて、今も現役である。私は東京に出たての頃、叔母の家の居候だった。そして「あんたみたいな世間知らずはちっと社会勉強したら」とか言われて、彼女の個人的事務処理係として、営業所にもぐりこませてもらったりした。もちろん、ちゃんと初級生命保険募集人の勉強をして試験にも通った後である。今思うと、確かにあれは社会勉強だった。一応保険関連のニュースを見ても内容がわかる、と言った程度に。しかし、それよりも世の中の泥臭い部分、営業であるとか、所謂「職場」の人間関係だとか、ある意味「縮図」みたいなものを見せてもらったように思う。
 さて、今日は彼女が勤めている会社で起こった内幕話からホリエモンのこと、ぺ・某が河口湖に別荘所持との噂?、はたまた最近銀座に出来た元第一勧銀ビル内の全レストランのランチ価格比較検討、地震予知まで、幅広い話題で盛り上がったのだった。
 だが、バブルがはじけ散ったとはいえ、金融業界でそれなりに功成り遂げた彼女と、一フリー音楽家の私の会話というのは微妙に噛み合わないのであるが、ま、それはいつものことだし、その違い自体が社会勉強ってことなんだけど。
 例えば、(叔母)「まあ私なんかはホリエモン、きっとウラ取引あるだろう、とか本当はどっからお金出てんだろうとかさ、面白がって見てるんだけど。ホントのところはわからないわよね」・・(私)うんうん、まあ私の関心事は放送やるなら、なんかもっとセンスを感じさせてもらいたいってことだけで。
 あるいは、「銀座のある老舗ブランドの×××なんだけど、誰も入ってるの見たことないのよねえ(彼女の勤め先は銀座にある)いったい大丈夫なのかしら、余計なお世話だけどさ」・・ま、大変生活レベルの高いある一握りの方々がお求めになられるのでしょう・・・
 「少子高齢化を小泉総理にどうにかしろったって、総理がそうしたわけじゃないのにねえ。民主党になったからってどうにか出来ることじゃないでしょう!」・・そう、みんながそれがイイと思った結果ですからね、誰の所為でもないんです。
 「人口が減るってことは、保険に入る人だって減るってことだからね。このままじゃジリ貧よ」・・はあ、私ゃジリ貧組ですけどねえ。
 「あら、そんな意味じゃなくて、本当にお金をかけるべきところにもっとかけるべきよねえ」・・うう、有り難きお言葉。立候補してくだせえ!私、一票入れるからさ。
 あ、どうもつまらないおしゃべり聞かせちまって、すまないです。巷で喧しい様々な相での「格差」とか、この先ど〜なんのよ、とかってことをやっぱり私も思っちゃいました。でも、大事なのは自分が「ど〜する」ってことですけどね。

*考えたことなど/「不二草紙」へのコメント('05/4/13)

 2声のインヴェンションから仏教の「縁」の展開、さすがです!
曲作るのも演奏するのも声部が少ないほど難しい。
もう「必然」の世界ですからね。
バッハの”宇宙感覚”というか、世界観というのはプロテスタントの信仰というよりは、数秘術に凝っていたりしたことからもわかるように、かなり神秘主義なのですよね。
宗教というより「本質」だとか、もっと大きな枠で物事を考えていた人だと思います。

*考えたことなど/ぶどう園の譬え話('05/4/16)

 私が通っている富士吉田バプテスト教会は、子供の礼拝を別にしておらず、大人と一緒です。礼拝の中に「こどもメッセージ」の時間があり、私は子供のクラスの教師をしているわけではないのですが、時々その担当が廻ってきます。
実は明日「ぶどう園の日雇い労働者の譬え」マタイによる福音書20章1〜16節が
当たっていて、目下「産みの苦しみ」の最中なのです。
 聖書の話をする、特に子供に向かってするというのは、授業やレクチャーとは訳が違う、自分自身がそのみ言葉に強烈に、「お前はそれをどう読むのか」という問われることですし、毎回大変にしんどい思いです。
 この箇所は、イエスの語った譬え話として、4福音書の内、マタイのみに記されています。ぶどう園で夕方1時間働いた者に、まず1デナリオン(当時の日給の額)が支払われます。朝から一日中働いた者たちは、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、やはり同じ1デナリオンであったため不満をもらすと、主人は私は不正はしていない、私はあなたと1デナリオンの約束で働いてもらったのだからと言い、私の金を自由にすることに妬ましく思うな。あとの者が先となり、先の者は後になるであろう。天国はこのようなことをする主人に譬えられる。
という内容です。
 この話、どうしても私は自分を一日中働いた者として読んでしまいます。
1時間しか働けなかった者がどんなにその報酬を感謝し、明日から喜んで生きる者にされたか、という話をお聞きしても自分の頑さというのは如何ともし難いものだなあ、と。
 ただ聖書というのは、「神がおられる」ことを指し示すもので、ここのメッセージもこの世の効率、能力主義や価値観を越えた「神の国の価値」というもの、そのような見方で人間を見てくださる存在を教えてくれる、ということと、もう一つ、
そのような見方で見られた時に、私たちは何も誇れない、「小さくされた」者に
なるしかない、ということは言えますね。
「天の国はこのような者(子供)たちのものである」(マタイ19:14)

コメント4/16記事へ
りんご様 コメントありがとうございます。
能力やその比較によって人を見られない、神の「見方」、私たちを「作品」だと言われるその見方を知る時に、力(元気、喜び、感謝)をいただけると思います。
この譬えの中にも、一日1デナリオンで人々を雇ったとありますが、1デナリオンは当時の日給の標準額(一日自分と家族が食べることが出来る最低の額)だったということです。
今日仕事が有った人も明日はわからない。だから、「明日のことを思い煩うな」という言葉がすごいものだと感じさせられます。
おっしゃるように、希望と共に、あるいは十字架を負っていたとしても、人間というのはただ「一日一日を生きていくしかない」、そういうものなのだと思います。
2006年07月03日(月) 22:43:00 Modified by moriyoko1




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