589 名前:闇と時と本の旅人 ◆UKXyqFnokA [sage] 投稿日:2012/05/10(木) 21:41:10 ID:AN9gy4xM [2/12]
590 名前:闇と時と本の旅人 ◆UKXyqFnokA [sage] 投稿日:2012/05/10(木) 21:42:01 ID:AN9gy4xM [3/12]
591 名前:闇と時と本の旅人 ◆UKXyqFnokA [sage] 投稿日:2012/05/10(木) 21:43:06 ID:AN9gy4xM [4/12]
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598 名前:闇と時と本の旅人 ◆UKXyqFnokA [sage] 投稿日:2012/05/10(木) 21:52:13 ID:AN9gy4xM [11/12]

■ 1





 暗い部屋。
 衣擦れの音がささやくように伝わり、ベッドのスプリングがきしむ音が時折混じる。
 うなされているのだろうか、呻いているような少年の声が、彼以外誰もいない寝室に流れる。

 少年は、就寝時には明かりをまったく消す習慣があった。何となく、常夜灯を点けるのは暗闇を恐れる子供のようだという意識があった。
 真夜中の寝室は、窓から差し込む光もない。ここは次元航行艦の士官個室であり外を見ることのできる窓はない。

 何も見えない。たとえ目を開けても、暗闇に慣れようとしても目は光を拾えない。
 意識が覚醒しないぎりぎりのところで、少年の眠りは押しとどめられている。
 だが、わかる。
 何も見えないが、何かが彼にのしかかっている。押しつぶすような質量があり、しかしそれは彼の身体全体を包み込むように圧をかけている。
 何者かが、少年を抱きしめている。

 ついに意識が浮かび上がった瞬間、それまで彼を責め続けていた質量は嘘のように消え去った。
 ばたと毛布をはだけさせて跳ね起き、荒く、肩で息をする。

 夢か。
 夢を見ていたのか。

 既に位置を覚えているベッド脇のスタンドライトのスイッチに手を伸ばし、明かりを点ける。
 間違いなく自分の部屋だ。艦隊附き執務官としてこの次元航行艦に乗り組んでいる自分に与えられた個室だ。
 ベッドの上には、誰もいない。自分の姿以外、床に落ちたクリーム色の毛布くらいしか変わったものは見えない。室内の調度品や私物の置いてある位置も、就寝前と何も変わっていない。

 どうやら夢に間違いないと考えを落ち着け、少年は肩を落としてため息をつく。
 そこでふと、寝巻きの下の違和感に気づく。

 少年、クロノ・ハラオウン──弱冠14歳にして管理局執務官として次元航行艦アースラに乗り組む彼は、さらに疲れきったため息をついた。

「参ったな、久しぶりとはいえ出航中にか──定時の洗濯には出せないな」

 若年者の活躍著しいミッドチルダにおいて、10代の管理局員も珍しくはない。しかしそれでもクロノにも年相応の恥じらいはある。
 次元空間を航行する艦内では乗組員の衣類は当番──たいてい最も新任の者の担当だ──がまとめて洗濯を行う。その中に、精液の染み込んだパンツを紛れ込ませるような度胸は、さすがのクロノも持ち合わせてはいなかった。

 気を取り直し、クロノはベッドから降りてクロゼットを開け、着替えをすることにした。





 音のない、静かな無人の要塞。

 時空管理局本局。

 次元空間に配置されたこの巨大要塞には、いくつもの隔離された実験棟が接続されている。
 それは主に、“ロストロギア”と呼ばれる古代遺物の保管に使用されている。
 現代人類の知見をたやすく凌駕するロストロギアは、古来より人類に災厄をもたらすものとして認識され、時空管理局はそれへの対処を専門とする部署を持っている。
 管理局次元航行艦隊提督、ギル・グレアムもまた、その組織の早急なる増強を切望していた。

 ──あのような忌まわしき事件を、二度と起こさせないために。

 そう願いながら、その事件の元凶をどうしても滅することのできないこの状況に、わずかな焦りを持っていることも確かだ。
 管理局上層部はまだ、このロストロギアに対する理解が乏しい。
 幾度となく訴えてきた研究体制の強化も却下され続け、現状、遺失物管理部の隔離フロアに封印したまま何も手出しができないという状況だ。

 もし、封印が破られたら。
 その時こそ、人類は滅亡の危機に直面するだろう。
 外敵の襲来というわかりやすい構図ではない。

 それは淘汰だ。生命力のより強い種族が生き残る。それは自然界の摂理だ。人間よりも生命力の強い種族を、あのロストロギアは生み出してしまったのだ。

 命を、奪う。吸い尽くす。
 闇の書には魔物が潜んでいる。闇の書に立ち向かい、犠牲となった者は数多い。
 グレアムの部下であり親友でもあった提督、クライド・ハラオウンもそのひとりだ。

 アースラ艦橋、日次のシステム点検作業を終え、エイミィ・リミエッタは自分の席で大きく伸びをした。
 第97管理外世界での一連の作戦任務を終え、約1ヶ月ぶりに本局へ帰還する。
 緊急の出撃ということもあり、今回の案件では皆慌しかったが、またしばらくはゆっくりできそうだ。
 もっとも、執務官であるクロノには現場だけではなく、本局に戻ってからもたくさんの仕事が待っている。そんなクロノを、労うのはエイミィにとってはもはや当然のことであった。

 今回の作戦では、大魔導師プレシア・テスタロッサと彼女が集めていたロストロギア・ジュエルシードを相手にし、アースラ艦長であるリンディ・ハラオウン提督自らが緊急出撃し魔法戦闘を行った。
 大規模な次元震による周辺世界への被害も懸念されたが、なんとか状況を収拾する事が出来た。
 改めて、ハラオウン親子の実力を垣間見たといったところである。
 執務官として前線に出るクロノだけでなく、次元航行艦の艦長であるリンディも、優れた魔導師としての実力を持っている。

 それ以上に、血のつながった親子ならではの、以心伝心ともいうべき息の合った連携が奇蹟を引き当てたとエイミィは思っていた。
 いつからだろうか、とエイミィは胸に思った。クロノとリンディの語らいの姿に、羨ましさというのか、悔しさにも似た不思議な感情を抱き始めたのはいつの頃からだっただろうか。
 クロノとエイミィは士官学校での同期であり、卒業後に任官するにあたり、リンディはエイミィに、ハラオウン家への下宿を持ちかけた。
 クラナガンの中でも実家が郊外にあり本局まで遠かったエイミィは、新人オペレーターとして仕事に集中するにはなるべく管理局の近くにいたほうがいいと思ってそれを受けた。

 アースラの中では、クロノはリンディを艦長あるいは提督と呼び、あくまでも上司として接している。リンディももちろん、クロノを息子だからといって甘やかすようなことはしない。

「やだな、何考えてるんだろ……私」

 それでも、もしかしたら、と思うことがある。胸の中で、想像を膨らませてみる。
 リンディの目を見上げて話しているはずのクロノの視線が、ふと、彼女の胸元に向けられているときがある。高級士官制服の厚い生地の下にあるはずの、彼女の豊かな乳房を見ている。あるいは、自分が生まれてきた彼女の胎、そしてその入り口の肉の穴。
 もっとも身近な女性である母親の、女の肉体に、興味を持つ。
 クロノもそんな年頃に差し掛かっているのかもしれない。そしてリンディも、そんな息子の胸の内を察し、視姦されていることに気づいているかもしれない。艦長室など、どこでも秘密の場所はある。そんなところで、抱き合う二人。
 容易に想像できてしまうのは、自分の認識がそうだからなのか、それとも本当に、禁じられた母子の関係があるのか。

 身だしなみに気を使う年頃に、同じようにエイミィも差し掛かっている。
 しかしどこか、先輩の女性乗組員たちと比べると、いくらコロンをふっても洗顔フォームを試しても、乳臭さが拭いきれないという気もする。
 確かに思春期はホルモンや皮脂の分泌などから、成人女性に比べて体臭なども特徴的にはなるのかもしれない。
 でも、なんとか、飾り立てて、清潔な香りでクロノを包んであげたい。
 士官学校の同期生たちの間でも、クロノは年齢不相応に背伸びしたがる傾向があった。寮で同室の少年たちともあまりつるまず、一人で黙々と勉強をしていた。
 むっつりなんだとささやかれることもあったが、その頃の彼は本当に自分を押し殺していたのだとエイミィは思っていた。
 彼がなぜそんな性格になっていったのか──それはきっと、自分もまだ幼く何も覚えていないような頃の出来事に原因がある。

 管理局本局のドックに入渠したアースラはただちに整備作業にかかり、地上での勤務がない一般乗組員たちはしばらくの休暇となる。
 クロノは今回のPT事件に関する処理を行うため、フェイトを連れて法務部へ赴く事になる。
 今回の件で問題となるのは、生き残った事件の当事者であるフェイト・テスタロッサが、生まれてからずっと時の庭園で過ごし一般社会に触れてこなかったということだ。人間社会の中で過ごさず、母プレシアの言うことが全てだという価値観で育ってきた。
 そのため、フェイトの責任能力を問うことができるか──というのがカギになる。
 第97管理外世界を離れ、アースラで本局に移送されるまでの間、フェイトは特に艦内での行動を制限されなかったがずっと自室にこもり、時折クロノが面会に行ったときだけ一緒についてしばらく歩くといった感じだった。
 まるで妹ができたようだ、とエイミィは思っていた。
 リンディは、天涯孤独であるフェイトの身柄を引き取ることを考えているとエイミィに言っていた。ただしまだ本人には秘密で、とも付け加えていた。
 今回のPT事件では、主犯であるプレシア・テスタロッサが時の庭園と共に虚数空間に沈んだため、事後処理としては被疑者死亡のまま書類送検という形になる。フェイトの身柄はあくまでも参考人程度である。
 フェイトはプレシアの命令に従っただけであり悪意はない──ということは、これまでの管理局の判例からすれば比較的容易に認められるだろうとはクロノは言っていた。

 親にすがりたい子供のしぐさなのだろうか、と思うと同時に、フェイトを同じ女として見てしまっているという意識がエイミィの中にあった。
 フェイトは、クロノやリンディという、時空管理局の中の有力な一族に近づく事で自分の身を守るということを意識せずとも行っている。
 もちろんリンディとて、たとえ幼い子供であってもそのような行動は本能的にとるものだということはわかっているだろう。
 しかし、どこか、フェイトが横から割り込んできた、ぽっと出のメス猫、という認識が、どうしても拭えないとエイミィは思っていた。
 こんなことを考えてしまうのは、嫉妬という感情なのだろうか。

 アースラ艦内から本局法務部の担当官へデータを送信し、向こうでの受け入れ準備ができるまで、クロノとリンディは一緒に、クライドの墓参りに行くことになった。
 次元航行艦隊における殉職者は本局施設内の教会に祀られている。
 その間、艦内に一人で残していくのもどうかということでフェイトも連れて、そしてエイミィも一緒についていくことになった。
 フェイトは、どうやらクロノから離れたくないらしくリンディに手を握られながら、クロノの士官制服の裾をつかんでいる。
 第97管理外世界での高町なのはとの戦い、そして時の庭園でのプレシアとの対峙、それらの場面とはうってかわり、いじらしくさえ思えるほどの幼げな少女の姿を見せている。

「フェイトさん、心配しなくても大丈夫ですからね」

「はい」

 リンディに微笑みかけられ、フェイトはしずしずと二人についていく。4人で横一列に並ぶと通路の幅を取ってしまうので、クロノとエイミィは後ろについている。

「これから行くのは」

「ああ、ちょっと私用だ。僕の父さんは管理局の次元航行艦隊に所属していたんだ。11年前まで……」

「11年前、じゃあ、今は」

 フェイトはそこまで口に出し、やがて察して口をつぐんだ。
 家族を喪った悲しみを、この執務官も知っている。妻も、息子も、プレシアのように、夫を父親を蘇らせようと願う事は無かった。ふと思い浮かんだことはあったかもしれないが、それを封じた。
 喪われた命は戻らないという事を受け止めているのだ。

「クライド提督って、どんな人だったんですか?」

 エイミィも質問する。話の輪に入ろうとする。
 やわらかく豊かなポニーテールを揺らし、リンディは微笑んで振り向いた。

「素敵な人だったわ。局員としての仕事に忠実で、とても誠実な。可愛い人だったわ」

「リンディさんよりは年上だったんですよね」

「そうね、でも意外と初心なところもあったのよ」

 そう言ってリンディはクロノの肩に手を置く。クロノは父親似らしいが、顔立ちだけでなく性格も似ているのだろうか。あるいは、リンディは自分の息子に、亡き夫の面影を見ているのだろうか。
 こんなところでも、エイミィはリンディの言葉の裏を勘繰ってしまう。そしておそらくは、リンディもそんな息子のガールフレンドの心境を気づいている。
 同じアースラに乗り組む幹部乗員として、部下として、艦長であるリンディを信頼しなくてはならないというのはわかっているが、その意識を邪魔する感情とでもいうのか、それをどう処理すればいいのかというのはエイミィにとっては胸を苦しくさせるものだ。
 恋愛、なのか。クロノとは、士官学校に入学してから、まだ幼い頃から一緒にいた。
 子供の頃は、普通の友達として一緒にいられた。
 でも次第に、二人きりで一緒にいる事が恥ずかしくなる。
 この気持ちが、恋なのだろうか。

 リンディたちが本局内の教会慰霊堂に入ってきたとき、一人の参拝者が先に来ているのが見えた。
 平日では、局員の遺族でも来る人数は少ない。
 やがて、その参拝者が跪いているのが、クライドの位牌を納めているのと同じ場所だとわかる。

「あれ…?」

 エイミィは並べられた祭壇の横から身体を乗り出すようにして、その参拝者の姿を見やる。
 かがみこんだ姿は大人の女性のようだ。上着は白いセーターで、長いストレートの髪が肩から背中に流れている。
 黒い石造りの墓碑を前に、横顔の整ったラインがシルエットになって浮かび上がり、逆光にきらめく姿は、地上に舞い降りた天使のようだった。

 その女性もリンディたちに気づき、立ち上がりながら振り向く。
 手に携えた弔花の束を墓碑の前に置き、すらりとした白い指が胸の前に組まれる。
 澄んだ、宝石のような瞳。しかしその奥に、闇のような深い輝き──言葉としておかしいが、本当に闇のような光だと思った──が秘められているとクロノは感じ取った。

 瞬間、頭の奥が揺らぐ。脳と眼の間で何かが澱んだ。
 記憶の混乱?あの女性を、どこかで見たことがある?
 管理局入局以来、執務官となり少なくない数の任務をこなしてきたが、その中で彼女を見かけたことがあっただろうか。もしくは、会話をしたことがあっただろうか。それとも、街行く人ごみの中ですれ違ったことがあったのだろうか。

「クロノ、どうしたの」

 横からエイミィがささやく。その声も、まるで耳に入らないようにクロノは立ち尽くし、一瞬、歩みがリンディたちから取り残された。
 リンディとフェイトが振り返り、クロノと、闇のような瞳を持つ女性は数歩ほどの距離を置いて向かい合い、見詰め合った。
 瞳の奥から、もうひとつの視線が向けられ、クロノを射抜いている。そう感じた。

 女性の唇が、潤いとともにきらめきを奏でるように動く。

「艦長……クライド、艦長……なのですか?」

 クロノは、自分の目の前を覆う白い毛糸と、温かさを感じ取った。
 瞬間を置いて、それが大人の女性の胸の柔らかさだと理解する。

 抱きしめられること。今まで、母以外の女性にそのように触れられたことはなかった。グレアム提督の下で学んでいたときも、リーゼ姉妹の、特に妹のほうはかなり積極的だったが、このように正面からハグしてくることはなかった。
 手を握ったり、頬を寄せたり、背中合わせになったり、腕を組んだり。
 成熟した、豊かな胸に触れる。包まれる。セーターの、編まれた毛糸の繊維の向こうに肌色が見えるようだ。柔らかく甘い肌。どこまでも包み込んでくれそうな、大きな乳房。母の胸よりずっと深い──。

 それは14歳の少年にとっては強すぎる刺激だった。ズボンの下が盛り上がっていたのは、女性が羽織っていたコートのおかげで幸運にも隠されていた。

「あ、あの」

「あ──、すみません、あんまり似ていたもので……」

 申し訳なさそうに言葉を述べて、名残惜しそうに女性は離れた。
 白い毛糸のセーターに、黒いトレンチコートを羽織っている。長いストレートの髪は、ミッドチルダでも珍しい青みのかった銀髪だ。左の額にやや跳ねたくせ毛を長く伸ばして、しかしわずかの傷みや曲がりもない、なめらかな光沢を放っている。
 年のころはまだ若い。20代だろうか。
 クライドの墓碑の前にいたということは、彼の知り合いだろうか。
 そんなことを思考の中に弄びながら、クロノはゆっくりと彼女の胸の中から離れた。横から、エイミィが重い視線を寄せていたがこのときのクロノには気づく余裕が無かった。

「クライド艦長のご家族の方ですか?」

「ええ、リンディ・ハラオウンと申します。こちらは息子のクロノです」

「息子さんでしたか──本当に、失礼しました……。可愛いお子さんですね」

 やや浮ついたような足取りで後ずさったクロノを抱え、リンディが答えた。
 エイミィは俯いて睨み付けるような視線で、フェイトは目を丸くしてリンディと女性を交互に見上げている。

 その後、リンディがその女性としばらく話していたのだがクロノはほとんど上の空で、覚えていなかった。やがてエイミィが呼びかけてようやく我に返る。

「なによクロノ、ぼけっとしちゃってどうしたの?らしくないじゃない」

「ああ……すまない、でもなんだか、初めて会ったとは思えない感じで」

 クロノの何気ない言葉に、エイミィは目を見開いて耳を赤くし、リンディは悪戯っぽく微笑み、フェイトはきょとんとしている。

「あらあら、クロノったらやるじゃない、男として立派になったところをお父さんに報告できたわね」

「か、母さん、違うそういう意味じゃないんだ」

「そっ、そうですよ、何言ってるんですかリンディさん」

 少年と少女は、それぞれ互いを意識する年頃になっている。今まで、いつも一緒にいるのが自然だった。それが、面と向かって指摘されると、なぜか恥ずかしくなってしまう。

 クロノは、それまで思いもよらなかったことを意識してしまい、柄にも無く取り乱してしまっていた。
 知識としてなら、恋愛をして結ばれるということはわかるが、まだそのような未来の人生を想像できない。
 自分もいずれ夫になり父親になるということが心の中で掴みきれない。

 管理局員として、次元航行艦隊の艦長としての父親ばかりが記憶の中に残っていたが、もちろんクライドにも、そういう、男としての面があったはずなのだ。

 クライドを知りたい。それが、クロノが管理局入りを志した理由だった。

 父の顔も、正直なところ覚えていない。
 クライドが殉職した事件──11年前の闇の書事件の当時、クロノはまだ3歳だった。クライドもリンディも次元航行艦隊の勤務のため、長期にわたって家を空ける事も多く、家政婦を雇ってクロノの世話をさせていた。
 たまの休暇に、家族でくつろぐ事もあったはずだが、クロノはそれをはっきりと覚えていない。

 だから、クロノにとっては父の姿というのは周囲の人間から語って聞かされたことがすべてだった。
 父の仕事場。父がその人生をかけて務めた職。管理局とは、現代の次元世界で最も重要な責任のある組織。
 そう信じていた。そう信じる事が父への悼みだと教えられた。

 フェイトの裁判を引き受けることにしたのは、そんな境遇が自分と重なって見えたからかもしれない。

 慰霊堂を出た直後、リンディの携帯端末が電子音を鳴らし、緊急メッセージの着信を伝えた。
 クロノとエイミィもすぐさま反応する。次元航行艦隊司令部からの、緊急事態発生の連絡である。

「クロノ、エイミィ、フェイトさんを法務局へ送っていって。私は司令部へ行くわ」

「わかった」

 ただならぬ事態と雰囲気を察し、フェイトはぎゅっとクロノの腕にしがみつき、身を寄せている。
 すでに色恋沙汰を考えているような状況ではなくなった事をエイミィも察し、本局司令部へ向かうリンディの後姿を神妙に見つめていた。

 アースラを経由して伝えられた連絡で、異常事態は本局内の遺失物管理部センタービルで発生したとの情報がもたらされた。
 ここには管理世界、管理外世界を問わず、各地から回収封印されたロストロギアが保管されている部署である。
 考えられる最悪のケース、それはロストロギアが制御を失い暴走してしまうことである。
 このセンターには、第97管理外世界からアースラが持ち帰った21個のジュエルシードが運び込まれたばかりだ。封印処置に抜かりは無かったはずだとリンディは胸を押さえる。

 現場に到着したリンディは、単なる魔力の暴走では起こり得ないような凄惨な光景を見た。
 通路や、フロアの床や壁には、天井にさえ、夥しい血痕が飛び散っており、その血液を流したであろう管理局員たちの身体が、既に冷たくなった状態でそこかしこに横たわっていた。

 リンディとほぼ同時に、通報を受けた管理局の武装局員が現場に入り、生存者の捜索を開始する。また、フロア内に残っていた遺失物管理部──通称機動一課の局員たちとも合流し状況を確認している。
 精鋭である彼らにも、多数の殉職者が出た。

「闇の書が……闇の書が突然、動き出したんだ」

 慄き震える局員たちの言葉を聞き、リンディは背筋が凍るような感覚を覚えた。
 闇の書。
 かつて11年前、彼女の夫クライドの命を奪ったロストロギア。
 次元破壊魔導砲アルカンシェルにより、次元の彼方へ吹き飛ばされたと思われていたそれは、またしてもこの次元世界に転生を果たし、人類に襲い掛かったというのだ。

「どうして!?なぜ、闇の書が本局内にあったの!?」

 思わず、局員の肩をつかんで問い質すリンディ。
 あのロストロギアの恐ろしさは、尋常ではない。とても人間の手に負えるものではない。そんなものを、いくら封印状態とはいえ重要施設である本局施設内部に保管するというのは危険すぎる。

「以前の事件の後すぐ、転生直後の闇の書が発見されたんだ、それで回収されていたんだが、そいつの中に──中に──」

 惨状を目の当たりにしたであろう局員は唇が震えて、言葉がおぼつかない。

「移送する、はずだったんだ、今日、艦が来て、無人世界に移すはずだったんだ、グレアム提督が指揮をしていた──」

 それはまさに災厄の爪跡であった。闇の書による襲撃をかろうじて生き延びた機動一課局員の話によると、11年前の闇の書事件の直後、ギル・グレアム指揮する残存艦隊に闇の書はただちに捕捉され確保された。
 アルカンシェルを浴びて破壊され、主を失った闇の書は一時的なシステムダウン状態に陥っていた。
 その後、無力化を行うために本局隔離施設に厳重封印されていたのだが、それが覚醒してしまったというのだ。
 これまでの分析から、このタイミングで闇の書が覚醒したのは新たな主となる人間を見つけたことによる可能性が高いとみられた。

 闇の書は蒐集した膨大な量の魔法の制御のために管制人格という人型戦闘端末を生成する能力を持っており、出現した管制人格により警備が突破され、現在、魔導書そのものは施設内に残されたままながら、管制人格が施設外へ脱走してしまった状態であるという。
 この現場も、闇の書の管制人格が本局の武装隊と交戦した結果である。
 何人もの精鋭魔導師が、闇の書の管制人格によって撃破され、死亡した。指揮系統を失うほどに損耗したことで、闇の書から出現した戦闘端末の行方をロストしたのだ。

 つまり逃げられたということだ。このまま放っておけば、いずれリンカーコアの蒐集が行われ、そうして魔力がたまっていけば闇の書はこの隔離施設の拘束を自力で破壊し振りほどいてしまうだろう。

「いけません、提督──もう誰も残っていません」

 施設の奥へ向かって駆け出そうとするリンディを、負傷した局員が力ない腕で引きとめた。
 もう敵はそこを立ち去った後で、救助するべき生存者はひとりも残っていない。
 憤りを堪えるように拳を震わせ、リンディはやがて目を伏せて肩を落とした。

 管理局法務部で、フェイトの身柄はひとまず拘置されることになり、書類の引継ぎを済ませたクロノは家路についていた。
 アースラから提出された調書を検察が受け取り起訴を決定するまでは少し時間がかかるので、それまでに裁判に必要な資料をまとめておく。
 その作業も、帰還途中のアースラ艦内であらかた済ませておいたので、これから開廷されるまでの時間はわずかな休憩がとれる。
 ハラオウン家にはエイミィも下宿しているので、久しぶりに二人で羽を伸ばせることになる。
 フェイトの事を考えると、すっぱりと羽目を外してしまうわけにもいかないとは思ってしまうが、それは司法の人間としては仕方の無いことではある。

 今日のクラナガンは小雨模様で、空はかなり低いところまで薄雲が広がっている。春から初夏にかけてのクラナガンは湿り気が増し、雨季を迎える。
 傘をさして通りに出たクロノは、そこで見覚えのある人物が、橋のたもとのテラスに立ち止まっているのを見つけた。

 まるで自分を待っていたかのよう。急激に胸の鼓動が高まるのを感じた。

 彼女は何者なのだろうか?
 あのような感情表現は、いったい何を伝えたかったのだろうか?
 闇の書事件によって、クライドを失ったのは何も自分たち家族だけではない。エスティアの乗組員たちも、艦長を失い、上司を失い、自分を育ててくれた先輩を失ったのだ。管理局の人間たちも、大切な仲間を失った。
 彼女もその一人なのだろうか。

「また、会いましたね」

 心臓が、ひときわ激しく脈打ったように感じた。
 執務官として、滅多なことでは動じない胆力を鍛えているはずのクロノにも、意識を焦らされてしまうことはある。
 彼女は女性として自分に近づこうとしているのか。そのような出来事に自分が遭遇するなど考えた事も無かった。ずっと、執務官としての仕事を勤め上げることだけを考えていた。
 士官学校の同期生でも、早い者はもう将来の家庭を持つ事を計画し始めている者もいる。候補生時代から交際をしていた者もいる。
 クロノは、そういった輪には入らず、思えばいつもエイミィが身の回りの世話を焼いていた記憶ばかりがある。
 早く帰らなければ、またエイミィに小言を貰ってしまうかもしれない。

 それでもなお、彼女には、何かどうしても近づかなければならない、近づいて知らなければならない何かがあるとクロノの心は急かされていた。





 クラナガンの市街地中央部を流れる大きな川を見下ろせるビルの倉庫で、数名の武装局員たちがデバイスを構えて待機していた。
 本局施設より脱走した闇の書の管制人格は、本局とミッドチルダの間に敷かれた次元間航路を突破してクラナガンに潜伏していると考えられた。ごく短距離のため、人ひとりの大きさであればものの数分で移動できてしまう。
 狙撃銃型デバイスの銃身を、わずかに開けた窓から出して構える。
 スナイパーライフルを持つ武装局員の顔はまだ若い。
 覗きこんだスコープのサイトの中に、彼は見知った人間の後姿を認めた。驚きにかすかにまぶたを持ち上げるも、すぐに引き締めて狙撃手の顔になる。
 長距離狙撃を行うには目標に気取られないように探索魔法を発射する必要があるが、こうなると、近くにいる人間にも攻撃の兆候を気づかれてはならない。彼はおそらく、今自分が対面している女の正体を知らない。

「クロノの奴──いったいどうして」

 観測手を務める先輩局員が、言い聞かせるようにヴァイスに声をかける。

「落ち着け、余計なことを考えるな。証拠を残さず、一発で仕留めることだけ考えろ」

「わかってます──しかしこの角度ではクロノが──どうにか動かないか」

「現時点では管制人格といえども魔力不足で戦闘力は低いはずだ──大丈夫だ、お前のストームレイダーならできる」

 デバイスの引き金に指をかけ、ヴァイス・グランセニックは狙撃魔法の術式を起動し、自身の脈拍や呼吸による銃身のぶれを補正する作業にかかる。

 雨は小さな水の粒子となって空中を漂い、銀色の髪をほのかに濡らしている。
 クロノは背の高い彼女を見上げるようにして、橋の欄干に向かい、隣に並んで立っていた。

「どうして僕を?」

「──探して、いたんです。ずっと」

 手をとり、そっと握る。
 やわらかい女の手のひらの感触に、クロノはしばし頭の中がとろけるような感覚を味わう。

「クライド艦長が亡くなられてから、私はずっと探していたんです。あの方の思いを、どうしたら救うことができるか──」

「父さんの──それは、闇の書を」

「あの方は闇の書に選ばれていたんです」

「──どういうことです?」

「エスティアでは、闇の書と同時に先代の主をも一緒に移送していました。その主が、エスティア乗員の目を盗んで自害したのが──暴走の原因だったんです。
主が失われれば、闇の書はすぐに次の主を探し始めます。──それが、クライド艦長だったんです」

「そんな……グレアム提督は、それを知っていて」

「私たち、エスティアの生存者から報告はしました。それに基づいて解析を進めているはずです──」

 管理局員を目指すことをクロノが決めたとき、士官学校での勉強と同時に、ギル・グレアム提督と彼の使い魔、リーゼ姉妹の下で魔法戦闘の訓練を受けていた。
 そのときに、グレアムから、昔話ということで聞いたことがあった。
 クライドが死んだ原因となった、過去の闇の書事件。
 家では、リンディはそのことを語ることはなかった。同じ艦隊勤務として事件の顛末は伝わっていたはずである。
 今更、過ぎたことばかりを振り返っていてもどうしようもない、大切なのはこれからどうするかだ──そう、クロノも思うようにしていたはずだった。

 女性は、名前をアインスと名乗った。旧ベルカ系の名前である。
 アインスの語ったことを頭の中で整理するうち、クロノはかすかな引っかかりから、背筋がぞくりとするような予測を思い浮かべた。

「待ってください、アインスさん──グレアム提督は、解析を進めていると言いましたよね?それはつまり、闇の書は今も──」

 うつむいて考え込んでいた姿勢からクロノが面を上げたとき、アインスの視線がふっと逸らされるのを見た。
 つられるようにクロノも視線を上空へ移す。クラナガンの高層ビルが見える。

「──ッ!!」

 閃光が空に走るのが見えた。





 ストームレイダーの照準の中央に、闇の書の管制人格のシルエットをとらえる。
 ヴァイスから見て手前側にクロノの身体があるので、それを避けるようにすると頭部を狙わなくてはならない。このストームレイダーの破壊力なら、人間を胴体中央から真っ二つにできるほどの威力があるが、近くに別の人間がいては巻き添えの危険が高まる。
 今日のクラナガンは雨雲がたれこめ、湿度が高い。弾道の低下を考慮して、管制人格の頭部から7メートル上方を狙う。

 スコープの中では声は聞こえないので、二人が何を話しているのかはわからない。だが、クロノが何かを逡巡するように、管制人格から離れた瞬間をヴァイスは見逃さなかった。

「今です!」

 観測手にも伝え、射撃を決行する。
 あらかじめビルの管理会社には伝えてあるので、弾道に悪影響を与えるサプレッサーは装着していない。空気を割る雷鳴のような魔導弾の発砲音を轟かせ、ストームレイダーが大口径銃弾を発射する。

 目線が合った。
 スコープの解像度では表情を読めるほど拡大はできないが、管制人格がこちらを見た。

 まさか、気づかれた?ヴァイスは頭の奥から血の気が引くのを感じた。この距離では発射から着弾まで、コンマ数秒のタイムラグがある。

「いかん、読まれた!」

 観測手が叫ぶ。同時に、ストームレイダーのスコープが白い魔力光で埋め尽くされるのをヴァイスは見た。

 2本の傘を持ち、エイミィは管理局地上本部庁舎への道を早足で歩いていた。

「クロノったら、今から帰るって言ってたのにどこで道草食ってんだか……」

 彼は仕事だけでなく私生活でもまめな人間である。特に時間に遅れるということは考えられない。
 それだけに、万が一事故にでも巻き込まれているのではないか、という恐れもある。

 事故、あるいは事件、と考えて、エイミィもある引っかかりが頭の中ではっきりとした形になった。

「待ってよ……クロノのお父さんが亡くなったのって、11年前なんだよね」

 思わず立ち止まる。
 前回の闇の書事件があったのは11年前。つまり、その当時に管理局員としてエスティアに乗り組んでいたのであれば、当時20歳なら今は31歳というわけだ。アースラでも、クロノとエイミィが特別に若いだけで乗組員の平均年齢はずっと高い。
 あの本局慰霊堂にいた銀髪の女、アインスと名乗っていた彼女が、本当にエスティアの生存者であるのならば、当時どんなに新人局員であったとしても現在は30近いはずだ。
 少なくとも彼女はもっとずっと若く見えた。

 彼女は本当にエスティアの乗組員だったのか?
 そう考えると、恐ろしい想像が浮かび上がる。
 いくらクロノが実力のある執務官だといっても、14歳の少年である。最初から正面切って戦うのならともかく、搦め手を使われたら、色気を使われたら。もし彼女が、クロノを狙っていたら。
 ある意味、エイミィの女の勘だった。

 それを証明するかのように、ビル街の向こうで、激しい魔力弾の閃光がきらめいた。

「クロノ!!」

 傘を投げ捨て、エイミィは全力で走り出す。
 光ったのはおそらく500メートルほど離れた高層ビルの壁面、直後に感じた衝撃は魔力弾が地面に当たったときのもの。
 大きな橋が見えてきて、そこを曲がれば本部庁舎の前だ。ビルの屋上越しに一瞬だけ見えた魔法陣は白いベルカ式だった。市街地で、魔法を用いた戦闘が起きた。それだけでも事件だ。
 クロノが、巻き込まれていたら──!

「──そんな……うそ、でしょ……?」

 エイミィの目の前には、誰もいなかった。
 騒ぎを聞きつけた通行人が遠巻きに現場を見ていたが、その場には、誰も残っていなかった。
 プロテクションで防御したのか、魔力弾の弾痕は扇形に散らばって道路の石畳に穴を開けている。
 開いたまま捨てられた傘が近くに転がり、そのうちの1本は、間違いなくクロノが使っていたものだった。

 立ち尽くしたまま、エイミィの耳には駆けつける警察のサイレンの音も届いていなかった。





 クロノが意識を取り戻したとき、薄暗い部屋の中で剥がれかかった天井の壁紙が見えた。
 幸い、部屋には窓があり、カーテン越しに外の様子が見えたことで、気を失ってからそう長い時間が経っていないことがわかる。
 天気は相変わらず雨模様で、まだ昼間である。着ていた服もそのままで、雨粒の乾き具合からするとおそらく数分程度しか経っていない。
 ゆっくりと身体を起こし、寝かされていたベッドの上に座りなおす。
 場所はおそらくクラナガン市内だろうが、どれほど移動したか。

「気がついたか」

 声がして、振り向く。こちらも、よく見覚えのある姿──しかし、その雰囲気が大きく変わっている。

「われわれを狙撃した者がいた──大丈夫だ。ここは安全だ」

 コートを脱いだアインスは、ブラウスにミニスカートという普段着姿で、冷蔵庫から持ってきたフルーツソーダをクロノに出した。

「──ここはあなたの住まいですか?」

「仮のベッドだ──特定の本拠はない」

「──アインスさん、あなたはいったい何者なんですか」

 単刀直入にクロノは質問した。思考が途中で止められたため、記憶が少々混乱している。橋の上で語り合っていたとき、何をどこまで話して何を考えている途中だったか思い出せない。

 アインスはクロノに並んでベッドの端に座り、クロノにソーダの缶を持たせる。そして、クロノの管理局制服のコートに手をかける。

「濡れたままでは身体を冷やす。乾かしておこう」

 クロノも上着を脱ぎ、アインスはクロノの上着をハンガーに吊るす。
 ベッドの上に戻ってきて、隣に座ると、クロノはごくりと喉を鳴らした。外では厚い服を着ていたのでわからなかった、彼女の肌の露出、身体のラインが、すぐそばにある。

「クロノ・ハラオウン──だったな。私は、お前を選んだ。われわれは、お前の協力がほしい」

「われわれ、とは」

 ベッドの上に両手をつき、アインスはクロノに顔を近づける。クロノもさすがに身体を引く。

「ギル・グレアム提督だ。提督は局内で秘密のプロジェクトを進めている、それに協力してくれる者を探している──」

 クロノはソーダの缶を取りおとし、缶はベッドの上を転がって、床のカーペットの上に落ちた。
 目の前に、アインスの顔、そしてブラウスの胸元から、乳房の谷間が見える。こういった状況に、クロノは慣れていなかった。彼女のされるがままになってしまう。

 やがてアインスはまぶたを閉じ、そっと、クロノに口付けた。

 初めての、唇。
 唇を合わせ、揉みあい、吸う。アインスの唇が、ゆっくりと艶かしく動き、ぎこちないクロノの唇をほぐしていく。
 静かに鼻で息をし、唇を密着させる。軽く触れて終わりではない、深く深く吸いあうディープキスだ。それを理解すると、クロノもアインスの肩に手を置く。
 求められて、それに応じる。
 罠とか、そういうのを考えている余裕はない。
 こぼれそうになる唾液を吸い、飲み込む。初めて、他人の体液が自分の中に入った。キス。唇を重ね、そして、互いに求め合うこと。
 片手で倒れそうな上半身を支え、アインスの胸が押し付けられるのを感じる。大きな乳房の重みが、クロノの上にのしかかってくる。ブラウスの下にはブラジャーをつけていないのか、硬い感触が、クロノの胸をこすっている。

「クロノ──本当に、お前は父親に良く似ている──
──クライドの生き写しのように──」

 うつろな意識でベッドに押し倒されながら、その声を聞いたが、まどろんだ意識はそれを言葉として解釈しなかった。





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目次:闇と時と本の旅人
著者:SandyBridge ◆UKXyqFnokA

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