597 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:25:54 ID:uGzp.IeU [2/15]
598 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:26:41 ID:uGzp.IeU [3/15]
599 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:27:14 ID:uGzp.IeU [4/15]
600 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:27:45 ID:uGzp.IeU [5/15]
601 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:28:18 ID:uGzp.IeU [6/15]
602 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:28:52 ID:uGzp.IeU [7/15]
603 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:29:44 ID:uGzp.IeU [8/15]
604 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:31:07 ID:uGzp.IeU [9/15]
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609 名前:烈火の将剣闘譚 [sage] 投稿日:2012/01/19(木) 22:34:51 ID:uGzp.IeU [14/15]

烈火の将剣闘譚 乱破の剣


 カーテンの隙間から朝焼けの曙光が差し込み、舞い散る埃をきらきらと光らせる。
 朝を迎えた室内は静かで、ベッドの上で眠りの世界に埋没する部屋の主の寝息だけが、すうすうと微かに響いていた。
 刻限は午前四時間近で、刻々と進む秒針が何度となく円を描き、四時ジャストで頂点を過ぎる。
 あらかじめセットされていた時間を迎えて、目覚ましベルがけたたましい高音を発し……すぐさま消えた。
 何事が起こったかと思えば、一瞬音を聞き咎めた家主の手がシーツを払いのけて解除スイッチを叩いていたのだ。
 驚くべき、瞬速の反応、刹那の反射であった。
 だがそれを成した男に特に感慨はない。
 これは毎日自分がこなすべきとして課したトレーニングのようなものだった。
 脳と身体に刻み込んだ反射という行動が、如何なる時でも行えうるかどうかという。
 そして男は半身を起こす。
 先ほどまで完全に夢の狭間を漂っていたとは思えぬほど、しゃっきりとした起床であった。
 まだ温もりの残る寝床に一瞥すらくれず、起き上がるやキッチンへ向かう。
 男の行動は素早かった。
 これから食事を取ろう、朝の活力を得ようという風情はまるでない。
 さながら科学者が決められた化学薬品を調合するかのように、冷蔵庫から取り出した諸々の食材を並べ、加工し、熱し、配膳する。
 きっと前日も、前々日も男は同じ工程を踏んで同じ時間を掛けて作ったのだろう。
 作業の全てからそれが伺える。
 出来上がった料理はベーコン、パン、ホットサラダ、そしてぬるめにしたミルク。
 栄養価の配分も量も申し分ない、ただ、味だけを除いては。
 味気ない食事を男は無言で咀嚼する。
 早すぎる事はない、良く噛み締めない食事は消化不良を起こす。
 遅すぎる事もない、十分過ぎる時間を浪費するのは無駄である、とでも思っているのだろうか。
 とっとと食事を終わらせた男は、そそくさと食器を片付けた。
 水で軽く流すだけで済ませ、残った汚れはどうでもいいとばかりに棚へと戻す。
 次に身支度だ。
 寝巻きのジャージを脱ぎ、また着るのはジャージだった。
 運動性に優れているし、色も地味で目立たないのが選んだ理由。
 ファッションセンスや人に魅せるという事はもとより念頭においていない。
 服を着替え、顔を洗う。
 不潔すぎるのは人の目を引く、適度な清潔こそ至上。
 水を拭った顔を鏡で手早く確認し、男はとっとと玄関を出た。
 起きてから全てを終えて家を出るまでに要した時間は五分にも満たない。
 ドアを開けて階段を降り、マンションを出る。

「あ、サムさんおはよう!」

 すると、マンションの玄関で掃き掃除をしていた中年の男性、管理人が元気に挨拶をしてきた。
 先ほどまで微塵の感情性すら見せなかった男の対応は――

「はい。おはようございます管理人さん、今日もいい天気ですね」

 顔に薄く微笑を貼り付けた、いかにも人の良さそうな青年として挨拶を返す。
 輝くような笑顔、というわけでもない、だが無愛想でもない、出会ってしばらくすれば忘れてしまいそうな当たり障りのない笑顔。
 常に顔に貼り付けておくべきと、心している面相だった。

「今日も早いね、これから学校? それとも仕事かな」

「いえ、少しジョギングを」

「そうかい、車には気をつけてね」

「はい、では」

 笑顔と同じように当たり障りのない、すぐ忘れてしまいそうな言葉を交わして男は、青年はその場を去った。

 言葉通り行うのはジョギングだ。
 日課の、身体を錆びさせない為の絶対的な反復行為である。
 身体というのは有機物であっても機械とそう大差ない、常に油を差して調整しておいてこそ、その滑らかさは保たれる。
 ならば精密機械同然の性能を求める青年は、可能な限り怠る事を良しとしない。
 決められたコースは、住居近くの公園外周と街の大通りを幾つか。
 常に巡回するルートは一定の期間を置いて変えている。
 店の軒先にいる店員や、付近の住人に顔を覚えられたくはなかった。
 だがもしそうしていても、男の顔をそう覚えている人間はいなかった事だろう。
 短く刈ったこげ茶の髪、特に彫りが深いわけでもなく平坦な顔だち、目元、口元。
 身長体格もまたそうで、165センチそこそこかつとりわけ屈強でもなく見える肉付きをしている。
 人込みに紛れればまず間違いなく埋もれる没個性がそこにはあった。
 無なる個性を持つ青年は街行く人々の合間を縫い、誰にも注意される事なく走った。
 距離にして約10キロほどであったか、短すぎず、身体を慣らすのに良いと自分で定めた長さとペース配分である。
 薄くかいた汗は、クールランでそよ風を浴びればすぐに乾く、そうして汗を飛ばした後に男が向かったのは本屋だった。
 手に取る本は多種であった。
 コミックにノベル、銃器雑誌があればファション誌、新聞、哲学書。
 とにかく世情と人の多くを知るために必要な多くを。
 そうやって知識の泉に浸る事は、存外に彼の仕事には役立つ事もままあったから。
 時間を掛けて本を選別して、小脇に包みを抱えて店を出た時は既に昼前だった。
 栄養補給、もとい食事をするには適度な時間と判断する。
 選んだのはごくありふれたファミリーレストラン、客の出入りが比較的多く、顔を覚えられ難い店だ。
 座るのは出入り口と非常口を確認できる席、頼んだのは特に特徴もないランチセットだった。
 コーヒーで食事を流し込みながら、買った書籍にざっと目を通す。
 さながら知識を貪るように情報を摂取。
 特に新聞の広告欄には入念に目を通す、それは知識とは少しばかり違った“用件”を含むのであるが。
 そうこうしているうちに、いつしか店の中が混雑しているのを意識した。
 入れ替わり立ち代り、来店しては退店していく人の影。
 活字を食みながら、視線はその端で店に入る人間を観察する。
 特に意識しているとか警戒があるわけではない、青年の持つ職業病のようなものだった。
 故に、彼は近づいてきたウェイターが声を掛けるより早くその距離や意図を察していた。

「あのお客様すいません」

「はい、なんでしょう」

「実は席がそろそろ満席でして。よろしければ相席にしていただいても構いませんか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 実に愛想のよい応対で、彼は自分の腰掛けたテーブルへの相席を許可する。
 その全てがただ上辺だけの仮面だなどと、想像できる者は少ない。
 彼の正面の席に、一人の女性が訪れる。

「お席、失礼しますね」

 やや低くも涼やかな、美しい声音で告げたのは、その響きよりなお美しい女だった。
 淡い桜色の髪をポニーテールに結い、男を惑わす夢魔のよりも肉感的な身体を時空管理局の制服に包んでいる。
 普通の男ならその美しさに鼻を伸ばすだろうが、青年は違った。
 静かに手元の本へと視線を注ぎながら、目の端で、どこか冷たく美女を捉える。

 その時の眼差しに怯えの色が含まれるとは、傍から見れば誰も気づくまい。

「あの、もし」

 ふと、女性が声を掛ける。
 青年は本より顔を上げて鷹揚にこたえた。

「はい。なんでしょう」

「そのコーヒーは如何ですか?」

「……へ?」

 青年の言葉はやや頓狂だった。
 問い掛けが持つ意味が理解できなかったのだろうか、美女は重ねて言葉を連ねる。

「いえ、何か軽食と飲み物を頼もうと思っているんですが、迷ってまして」

「え、ああ……そう、ですか」

 女性の問うている事とは、要するにコーヒーの味であった。
 その質問が持つ意味を彼は意識する。
 味。
 実に簡単な事だ、普通に生きている人間ならばただ美味いか不味いか言えばいい。
 そう――普通に生きている人間ならば、だ。

「……」

 女性の言葉を聞き、青年はもう一度カップを傾ける。
 ただ流し込むのではなく、口に含んだものの味わいを確かめるように。
 苦い、だが決して不快などではないコーヒーの味、芳醇とも呼べるこくが鼻腔に広がる。
 彼はそれを今初めて知ったかのように、はっと顔を上げる。

「おいしい、ですね」

 告げた声は、驚くくらい“普通”だった。
 青年が自身の反応に内心驚いているのを知らず、女性はなるほどと頷く。

「そうですか。あ、すいません。私もこのコーヒーを、あとこのBLTサンドイッチもお願いします」

 美女がウェイターを呼びとめて注文するのを尻目に、青年はゆっくりと残りのコーヒーを流し込み、その味わいを堪能する。
 ゆっくりと、じっくりと。
 全て飲み干した時、空になったカップをソーサーの上に置く。
 既に食事は終わっていた、元より大した量ではなかった。
 本も同じく、あらかた目を通し、最も重要な事項、新聞の広告も確認した、もうここにいる意味はない。
 伝票を手に取り、レジへと向かう。

「ではお先に」

「ええ、では」

 美女の浮かべた笑みに自分もまた作り物の笑みで返し、男は店を立ち去る。
 そしてまた、都会の雑踏の中に溶け込む、影のように。



 店を出て雑踏に紛れながら、青年はそっとポケットより手を出した。
 汗に濡れ、震える手のひら。
 そしてため息を一つ。

「肝が縮んだ、な」

 誰にも聞こえない声量の、声音もまた震えていた。
 先ほど相席した管理局の女性が、精強なベルカ騎士であるとその慧眼で見抜いていたからである。

 表面上は隠し通している裏の顔ゆえに、彼は何時如何なる時も恐怖心を根幹とした警戒で心を張り詰めさせている。
 然らばあのような者が近づけば、自然と体は戦いに備えていた。
 因業な性だと、心のどこかで思った。

「――」

 ふと、呼吸した拍子にいい香りが鼻を抜ける。
 先ほど飲んだコーヒーの残り香だった。
 いつもなら、微塵も気にしないというのに、今日ばかりは違う。
 生まれて初めて、コーヒーの味わいというものを知った。
 もしかしたら……これが楽しみ、というものなのだろうか。
 青年はせん無き事を思いながら人込みに溶け込み、だが身体は思考とは別の冷静さで操作されて、目的地まで歩み始めた。



 薄汚い、というよりは、果てしなく汚穢と表現すべきだったろう。
 そこかしこに腐敗した生ゴミやネズミの屍が放置され、立ち並ぶ建物の壁面から道路に敷かれたアスファルトまでひび割れ朽ち果てている、そんな場所だった。
 廃棄区画のスラムである。
 往時、ここが美しく整った町並みであった事を知る人間はもはや少ない。
 大規模な災害で崩壊した建造物、半壊したライフライン、安全性の著しい欠如。
 市当局と地上本部の下した結論は当時の再開発区画、今の地上本部周辺を中心とした新工業地域への首都の移籍であった。
 朽ち行く街はそのままに、都市の機能も住人も全てをクラナガンという首都は新しい宿へと移した。
 そしてかつての住処は、財政負担と行政のお役所仕事というものを以ってただ放置され、今に至る。
 無論、そこには政治的背景として土建業者との“親密”な付き合いが存在したのは言うまでもない。
 今ではこの地域には、根無し草の路上生活者からすねに傷を持つような人間が流れてきては吹き溜まる、そんな場所に成り果てていた。
 そこを、男は歩いている。
 都市部であれば平々凡々と目立たぬ姿も、ここではやや綺麗が過ぎる。
 だが、ビルの合間に出来る影に溶け込むような風情が、どこかやはり、印象や特徴をつかませない雰囲気を作っていた。
 いつしか彼は、一つの建物の前に来た。
 この界隈にあってはそれなりに小奇麗な、小さなビル。
 正面には飲食店や酒場、サウナなどの店がある事を示す看板が煤けたネオンライトを光らせている。
 スラムといっても何から何まで寂れているわけではない。
 中には、こういう場所で寝起きしている労働者たち向けに商う娯楽もあるのだ。
 青年は迷わずそのビルに脚を踏み入れ、エレベーターへと向かう。
 一階に店を構えるストリップバーの軒先で過激な装束を纏った女たちが無遠慮な勧誘を言っていたが、愛想笑いだけで済ましてそそくさと。
 エレベーターに入れば、自分以外に誰も入らない事をしっかりと確認してCLOSEのボタンを押す。
 次に押したのは、非常ボタンであった。

『何かあったか』

 非常警報の合図に、音声通信が入る。
 スラムのビルに普通の警備会社がついているわけがなく、対応に出たのはこのビルの持ち主であるマフィアのファミリーだ。
 剣呑な界隈にある法なき法は、概ね筋者が束ねているものだ。

「サムだよ」

 青年が短く一言だけ通信に言葉を返す。
 自分の名前、否、ただ便宜上使っているだけの仮の名を。
 相手は返事をしなかった、する必要がなかったからだ。
 既にボスからその用件は命じられていたし、エレベーター内のカメラで相手の事はしっかりと確認していた。
 そして符丁の言葉を言うならば、通すだけ。
 ゆるやかにエレベーターは“存在しない”地下へと下降する。
 このビルには表向きの最低階は一階だけなのだが、司直の目をごまかすために改装されている
 理由は言うまでもないが、管理局などに踏み込まれないためだった。
 エレベーターが停止したのは最下層、地下五階。
 ドアが開いた先はそのまま部屋になっていた。

「よう、よく来た。そろそろ来る頃合だと思ってたぜ」

 出迎えたのは、広すぎるほどの部屋の最奥で紫檀の机の上に靴を乗せた一人の中年男だった。
 禿げ上がった頭に、でっぷりと脂肪をまとわりつかせた体躯。
 いかにも醜面の男だが、この男を笑う者などこのあたりにはいない。
 シマを仕切るマフィアの首領ともなれば当たり前だ。
 ボディガードの男も大勢いた、少なくとも十人以上、皆懐や手に物騒な鉄の塊を持っている。
 そんな中へ、青年は泰然と進み行く。

 それが彼の仕事であり日常なのだから、当たり前ではあった。

「ああ、広告を見かけてね。で、用事は?」

 手に持った本の束と新聞紙を彼は顔の位置まで持ち上げる。
 載っている広告は、四十四年式鍵盤仕込みのクラシックピアノオークション開催いたします、というものだった。
 クラナガンの地方紙の、隅の隅に掲載されているその広告内容は全て嘘っぱちである。
 そもそもそんな名前のオークションは存在しない、青年をここに召喚する際の伝言なのだ。
 人一人を呼びつけるにしてはやや大仰にも見えるが、直接連絡しないという事は限りなく証拠が残らない。
 このビルの隠し階で密談をするともなれば、隠蔽の術はそれなりのものであった。
 そして証拠を残したくない仕事といえば、もちろんその内容も相応の業種である。

「ヘイヘイ、まさか世間話でもすると思ったか? いつもの仕事のお話だよ」

「――」

 茶化したようなボスの言葉に、青年は無言。
 否定ではなく肯定の静寂だ。
 今更言うまでもなく、自分の役割と意味を理解していると、外を歩いている時とは別人のような鋭い視線で応える。
 既に彼はこの部屋に入った時点で、集団に埋没する一般人の皮を捨てていた。
 その鋭い気配に太った筋者の首魁は嬉しげな笑みを浮かべ、部屋にある応接テーブルを指す。
 青年は言われるまでもなくそこへ腰掛け、テーブルの上にあった資料に目を通した。
 経歴、職歴、年齢、名前、顔写真。
 眼鏡を掛けた痩身の中年男。
 記されているのは、存外に見知った相手でもある。

「俺の記憶が正しければこいつはこのファミリーの会計士、じゃなかったか?」

「ああ、そうとも。つい一週間前までは、な」

「じゃあ今は違うってわけか?」

「でなきゃお前をここに呼ぶ理由があるか?」

 ないな、と青年は呟く。
 視線で促され、ボスはその口元に蓄えた脂肪を揺すりながら補足するように説明を始めた。

「その野郎には趣味があった、なに良くある話だ、ローティンの餓鬼でないと息子がおっ立たないっていう、良くある趣味だ。まあそいつはいいさ、仕事に関係ねえところで餓鬼を相手に腰を振ろうが知った事じゃねえ」

 葉巻を取り出して部下に火を点けるよう促し、紫煙をくゆらせながら、ただしと続ける。

「それが元でサツに捕まったり、減刑を餌にうちのファミリーの脱税諸々の愉快な話を連中にくっちゃべって、裁判の証人になるなんて事になれば話は別だろう?」

「なるほどな。で、俺の仕事ってのは」

「皆まで言わせる気かい」

「だろうな」

 今更言うのも馬鹿な話だった。
 この説明から導き出せる結論など、たった一つしかこの自分にはない。

 馬鹿らしい考えをとっとと切り捨て、青年は書類を熟読する。
 それは本来流れるべきではない、というか許されない筈の、管理局がする証人保護プログラムに関する内容だった。
 証人になった会計士を匿っているホテル、その警備状況、配備人員、etc……。

「いつまでに仕留める」

「裁判が始まるのは一週間後、それまでにそいつが聖王の御許に召されればとても幸せになれる」

 大仰なジェスチャーで十字を切るボスの仕草に、周囲のボディガードから失笑が漏れる。
 もちろんだが、青年は無言、無表情。
 ただ静かに己の成すべき行為とその方法を思案する。
 そして結論は程なく訪れたのだろう。
 資料をテーブルの上に投げ捨て、青年は立ち上がって元来たエレベーターへと向かった。

「おい、何か必要な得物や手勢は無いのか?」

「必要ない。俺一人でやってみる」

「ハハ! 相変わらず頼もしいな、期待してるぜ」

「――」

 言葉もなくただ鋭い眼光だけを返礼として一瞥し、青年はエレベーターの自動ドアを閉め、上階へと戻る。
 頭の中では冷徹なる思考が、既に任務の手筋を粗方終えていた。



 標的をどう攻めるか、それを考慮する際に必要なのは相手がどのような場にいるかを考えねばならない。
 クラナガン市内にある三十階建てのホテルで、宿泊している階は二十五階らしい。
 守護しているのは管理局各部署より集められた手勢が十数人。
 さて、なんと攻める。
 狙撃?
 否、狙撃可能な、宿泊階より高い位置にある適した建造物がライフルの射程内にはない。
 では施設ごと爆破か?
 無理だ、フロントに控えた警察犬の鼻がたちどころに爆薬の臭いをかぎ付ける。
 裁判に出頭するその日に襲撃するか?
 馬鹿な、裁判当日こそ警備陣の警戒は最大にして最も巧緻を極める筈、難攻不落の要塞に短刀一つで挑むに等しい愚行である。
 然らば最善の策とは何たるか。
 彼の下した結論は――――潜入であった。

「――」

 刻限は夜。
 無言のまま、青年が見るのはとあるビルの屋上の遥か五十階、百五十メートルの高みであった。
 遥か彼方には標的の座すホテルの影がおぼろげに見える。
 そこから狙撃する、わけはない。
 隔てられた距離はおおよそ千五百メートル、とてもではないが尋常の射撃で到達する射程ではない。
 では、何故こんな高みから見やるか。
 その疑問は今より明らかになる。
 だがそれより前に、彼は戦いの準備を始めた。
 清掃員に扮するために着ていたつなぎを脱ぎ、身に着けていくのは黒き装束。
 柔軟な繊維と硬質なプロテクター、魔法に頼らない闇夜に紛れる戦闘服だ。
 鍛えられた身体にフィットする黒衣の戦闘服に加え、さらに顔にも覆面を被せ、目にはさながら昆虫の複眼を思わせる光学バイザーを装着。
 その様は言うなれば最新鋭の特殊部隊員の姿である。
 唯一絶対的に違えてる箇所は武器。
 刀剣。
 そう、彼が身につけているのは刃であった。
 腿に肩に背に、全長二十センチ弱のナイフが幾重にも連なっている。
 格闘戦に良し投擲して良しの得物の群。

 最大の得物は腰に、約六十センチ超の短刀が一振り挿してある。
 無論その得物は全てデバイス、魔導師をして狩る凶刃の諸々だ。
 そして彼の場所まで己を運ぶのが、足元に鎮座する物体。
 パイプを伸ばし、帆を張り、展開して完成する――ハングライダーである。
 風を受けて空を滑空する機械、敵陣へ接近するのに最適と判断した道具だ。
 魔法を使って空を駆ければ間違いなく近づくより先に察知され逃げられ、迎撃の憂き目に会うだろう。
 ヘリなどの航空機でも同じく、目立ちすぎる。
 だが騒音も巨体もなく魔法も使わないハングライダー、それも漆黒の黒塗りとなればその点をクリアできる。
 しっかりと目標のホテルを見据え、男はじりじりと後ろに下がる。
 滑空の為には十分な速度が必要、それを引き出す為には高度に加えて疾走が必要。
 ぐっと床を踏みしめる脚に、魔力強化によってもたらされた筋力が開放された。
 ハングライダー込みで百キロ超の全重量が風よりも早く駆け抜け……跳ぶ。
 風に乗りきれなければ底なしの奈落へと落下して死ぬ、だが男は微塵の躊躇もなかった。
 闇空へと身を乗り出し、一気に上昇気流に乗って空を駆ける。
 夜の空の中、黒一色の翼と黒衣の装束はこの上なく溶け込んでいた、肉眼ではまったく確認などできないだろう。
 それでもまったく安心しきれるというわけではない。
 上空からの攻撃や進入に対して、屋上には護衛の後衛系の魔導師がいると彼は推察していた。
 ステルス素材を用いたこのハングライダーによる低空からの進入が向こうのサーチに掛かる確率は、おおよそ三割。
 賭けの部分は少なからずある、そこを埋めるのは腕前と運だ。
 運に関してはどうにもなるまいが、この種の道具による敵地潜入の経験はある、今はその腕を信じるのみ。
 次第次第に、目に捉えていたホテルの屋上が近づいてくる。
 空中でこちらを迎撃に構えている管理局員の敵影は……なかった。
 魔法は使えるが、飛行魔法は使えない彼には僥倖だった。
 もし空中で出迎えられたら、フックを使って手近なビルに逃げ込むしかなかったのだから。
 しかし安心するにはまだ早い。
 迫り来るホテルの屋上、着陸するのは階下へ続く階段の裏手である。
 配置されているであろう護衛の目に留まらず、気づかれないように着地。
 減速は避雷針へと投げたフックのロープと脚力で制止を掛けた。

「――ッ」

 声に上げない声を漏らし、踏ん張る。
 今この瞬間が一番無防備で危ない状態。
 一歩、二歩と力を入れて……なんとか止まる。
 慎重にハングライダーを下に下ろして、まず一呼吸。
 右手がするりと音もなく太股に吊るした鞘からナイフを抜く。
 顔に装着した光学バイザーが夜を駆逐し、闇の中で視界を見通す。
 敵影――なし。
 音もなく脚を運びつ、死角を消しながら下階に続く階段に回り込む。

「――」

 無言の中に、幾許かの驚きがあった。
 事前の推測で屋上には一人くらい警備がいると踏んでいたのだが、誰もいない。
 入手していた情報よりも警備は緩いのだろうか。
 一般に開放されている施設を使う要人警護ともなると仰々しい警備は敬遠されるのも事実ではあるが。
 思案しながらも、身体は確実な任務遂行を目指して動く。
 手に刃を携えたまま、無音を保っての前進。
 身を屈めて草むらに潜む肉食獣のように彼はドアまで近づく。
 鉄扉に耳を寄せ音を感知、敵性存在の有無を確認。
 それだけでなく、さらに手も触れる。
 展開される小さな魔法陣は、対象から得られる振動を元に周辺状況を精査する代物だ。
 隠形の業にふさわしく、そうそう敵のサーチに掛からぬ術式である。

 行く手にある危険を見通すのに、掛かった時間はほんの一秒。
 敵影――なし。
 それでも万全を帰して彼はドアノブに手を掛けてゆっくりとまわす。
 案の定、鍵は掛かっていた。
 刹那、銀光、一閃。
 手に持っていたナイフの刃が、ほんの僅かな乾いた残響だけを響かせてドアの隙間から鍵を絶った。
 強化金属製の錠前を豆腐のように切断。
 先の術式で警報がない事を確認していたが故の荒業である。
 それでも最初のドアエントリーは静かに音もなく、ゆるりと潜る。
 事前に精査したホテルの構図通り、屋上から下階への階段には赤外線探知も監視カメラもない。
 ここは一息に駆け抜けて先へ進む。
 鍛え抜かれた身体は音もなく豹のように階段を降りた。
 最上階の三十階から標的の居る二十五階までの間に配置されたボディガードは五人、各階ごとに上階から浸入する者がいないかと警備に当たっている。
 その全てを殺傷して進むというのは論外だった。
 可能な限り、接触及び交戦は避けるべし。
 では如何にして配置されたボディガードの目を盗み下階へと降りるか。

「――」

 マスクの下で唇が何かを呟いた。
 微かな響きが紡ぎだすのは、通常物理学に縛られぬ魔導の業。
 小さく描かれる魔法陣が術式を演算――行使。
 すると、腰の辺りに括られていたポーチから何かがぼろぼろと幾つも這い出た。
 黒光りする小さな塊の正体は、虫である。
 既に死んでいたのか冷たい屍だったそれが、今あたかも生命を取り戻したかのように動き出す。
 使い魔である。
 一度死んだ生命を魔法術式の元で隷属化させる業。
 より高位にして高度の術ならば、人の形を取らせる事や独立した自我を与える事も可能である。
 だが今男が使ったのは、もっと単純にして下位の術。
 視聴覚のみを術者と繋ぎ、単なる斥候として用いるのだ。
 しばし廊下を飛翔させている内に、ボディガードの位置は把握できた。
 屋上から三十階までの階段は下階に直結していない、標的の元まで辿り着くには人の目を掻い潜って敵の目を盗まねばならなかった。
 エレベーターを使うのは論外だろう、監視カメラが確実にセットされているし、ドアの向こうを把握する術がない。
 どこかの部屋から通気孔を使うのも不可能、事前調査で人が入れるサイズにない事は承知している。
 必然的に残る選択肢は階段だけ。
 ならば迷う必要はなかった。
 するりと音もなく、黒き肢体が躍る。
 疾走であった。
 あろう事か、彼は感覚を使い魔の虫共つ繋いだまま、である。
 他者の、それも人外の生命の感覚器官とリンクしたまま自分の五感を把握するのはほぼ不可能である。
 まともな人間の感覚器官が需要し肉体を運用し得る総量には限界があるのだ。
 そう、“まともな”人間ならだ。
 唯一それを超克するのは、想像を絶する修練のみ。
 合計十匹の虫から受信する視覚情報を把握しつつ、自身の目もまた働かせ、暗殺者はホテルの廊下を疾駆した。
 曲がり角を曲がった先には、ボディガードの一人が……丁度後ろを向いていた。
 虫の視覚からその一瞬を読んでいたのだ。
 視線を外した刹那の隙に、背後を無音で駆ける。
 壁を蹴り、天井にナイフを突き立てて跳び、曲芸さながらの立体的な動作によって。
 階段に辿り着けばあとは一息に降りて行き、乱破の俊足は五秒と掛からずに二十五階まで辿り着いた。
 さて、ここからが最難関。
 標的のいる部屋の門前は、当たり前だが最も護衛が付いている。

 虫の視覚で確認しただけでも四人の武装したボディガードが佇んでいた。
 正面突破は言うまでもなく不可能。
 想定済みの事実を確認し、彼は迷う事無く動く。
 目指したのは見張りのいない隅の一室。
 ドアの前に辿り着くや、風を切る鋭い音と共に銀光が閃く。
 屋上から浸入した時と同様、手に持ったナイフが鍵を切断したのだ。
 そして迷う事無く入る。
 中は無人だった。
 この二十五階は要人警護の為に全室が貸切になっている、もちろんその全ての部屋に護衛を詰めさせる余裕などないのだから、中には誰もいない。
 ならばそこが彼の選んだ経路だった。
 壁の前に立つと共に再びナイフが刃光を紡ぐ。
 硬質樹脂とワイヤーで補強された壁が、チーズでも切るようにさっくりと切断される。
 人間一人が余裕を持って浸入できるサイズの切り口から壁の切断片を慎重に外し、隣の部屋へ。
 そしてまた同じ行為を繰り返す。
 部屋同士を隔てる壁を次々に切断しながら、標的の元まで一直線に。
 大出力の魔法、騒音、振動、どれか一つでもミスをすれば気付かれる危うい綱渡りは、しかし一度の失敗もなく淡々と完了する。
 最後の壁を、彼は何の感慨もなく斬った。
 一瞬で切り取った壁材を内側に音もなく落とすや、飛び込むように浸入。
 極接近戦を想定してナイフを逆手に持ち替え、光学レンズ越しに室内を見回す。
 入った場所はリビングルームであったが……無人。
 音が聞こえた。
 水の流れ落ちる音。
 躊躇いもなく、細心の注意力だけはそのままにバスルームへ向かった。
 薄い木製扉の前に立ち、狩猟者の本能によって確信する。
 相手はこの薄壁の向こう側にいる、と。
 ドアノブに触れ、回す、鍵は掛かっていなかった。
 次なる刹那、ドアを一気に開け放ち彼はバスルームに飛び込む。
 視界に飛び込む人影、湯気を立てる身体をタオルに包んだ人影に……必殺の刃を。

「――ッ!」

 刃が空気を裂く鋭い、だが虚しい音に、驚愕の声が僅かに漏れた。
 神速で振るわれるナイフの斬撃を、あろう事か獲物は軌道を見切って避けたのだ。
 そして、刃が虚空を薙いでから気付く。
 相手の容姿。
 さらりと媚香のような甘い香りを漂わせて舞う桜色の髪。
 白いタオルを巻いた、爆発的なプロポーションをした肢体。
 柳眉の下で蒼く輝く双眸と、麗しい顔立ち。
 女だった。
 見覚えのある、美しい女が、目の前に居た。

「いきなりご挨拶だな、殺し屋」

 涼やかに不敵な笑みを見せ付け、刺激的な格好をした美女はそっと首にぶら下げたペンダントに手を掛ける。

 一瞬閃光に包まれ、扇情的な格好から装束が変わる。
 魔力で編み込まれた戦闘服、騎士甲冑と、鋭い刃を持つ長剣が顕現。
 その切っ先を己に突きつける。

「時空管理局本局所属、シグナム二等空尉だ。大人しく武装を解除した方が懸命だぞ?」

 数秒、沈黙、硬直。
 暗殺者は手の刃を浅く握り締めながら、穏やかな呼吸と共に切っ先を見据える。
 刃を持つ者同士の視線は、ともすれば手にした得物よりもなお鋭い。
 そんな中にあって、シグナムの顔には未だに不敵な笑みがあった。

「お前の組織に流れた情報、あれは元よりこちらの流したフェイクだ。今頃はお前の飼い主も縛に付いている、抵抗は無駄だぞ」

「――」

 返答は無言。
 元よりどんな言葉が来ようと応えるつもりはなかった。
 今必要なのは、脱出する事のみ。
 睨み合いながら測る相手の呼吸、体が弛緩する吸期に……動くッ。
 三条の銀光が空気を引き裂いた。
 あまりの速度に手先が霞む程の動作で、暗殺者たる青年の両腕が動き、刃を投擲したのだ。
 右手に持ったナイフをまっすぐ心臓目掛けて、それにほんの一瞬遅れて左手が戦闘服の右脇に吊り下げた鞘から二本のナイフを。
 最初の一本はただ投げて速度を重視した刃だが、後に放った二本は手首のスナップを利かせて回転させている。
 直線と曲線という二つの軌道に加えて時間差による着弾。
 まともな人間なら反応すら出来ず、相応に腕の立つ人間でも最後の三本目で致命傷を負うだろう。
 が、シグナムの反応はそれら全てを上回っていた。

「はぁッ!」

 裂帛の気合一声が迸り、長剣の刃が刃光を閃かせる。
 まず最初のナイフを首を捻って躱すや、続く二本はレヴァンティンで叩き落とす。
 完全に三つの軌跡を見切っているが故の防ぎの構えであった。
 何という腕前か、安直にシールドを張って防いでくれていれば、身体を硬直させた間に攻める手立てもあったものを。
 敵の反応速度に感嘆しつつ、黒きアサシンの右手は腰の一刀を掴む。
 投擲刃のつたない攻撃では埒が開かない、活路を見出すべきはこの刃。
 アームドデバイスたる短刀に魔力を込めて一息に疾駆。
 ナイフを防ぐ為、宙に泳いだレヴァンティンの懐に潜り込んで横薙ぎの斬閃を打ち込む。
 生まれたのは血華ではなく火花。
 宙に泳いだ筈の長剣が如何なる軌跡を描いたのか、既にその剣身は短刀の一撃を防ぎ位置に陣取っていた。

「甘いな」

 美しい蒼い双眸に凄絶な輝きを滾らせ、シグナムが返礼を送りつける。
 短刀の刃を押し返しながらの逆袈裟懸け一閃。
 超高度の物理保護を施されたこの一撃を受ければ、下手なデバイスなど粉と砕けよう。
 相手を捕縛する事を優先するシグナムの狙いは武器破壊による無力化でもあった。
 刃圏が硬い物質を断つ心地よい手応えを感じながら、美しい騎士が眉根を歪める。
 がらがらと音を立てて崩れる壁、その向こうに着地する黒い影。
 レヴァンティンの刃が捉えたのはバスルームの壁だけだ。
 斬撃を見舞う瞬間、暗殺者は卓越した身体能力と反射神経で刃を跳躍して回避、さらに宙で身を捻るや後方に退いたのである。
 狭い室内、両者の距離が僅かに開き、さらに状況は一変する。

「シグナム二等空尉! 大丈夫ですか!」

 怒号を伴って、外に待機していた護衛が駆け込んできた。
 こんな轟音を立てれば当たり前である。
 増えた敵の手勢、だが黒きアサシンに取ってこれは好機であった。
 諸手が風となって薙ぎ、その先で白刃が輝線を刻む。

「ぎぃ!?」

「があああ!!」

 護衛たちの苦悶の声。

 彼らの膝を、シールドを展開するより先に凶刃が穿つ。
 苦痛にのたうって倒れる彼らの隙間を縫うように、黒き影が駆け抜けた。
 シグナムがバスルームから飛び出した時にはこれらの動きは全て完結していた。
 咄嗟に彼女も後を追おうとするが、倒れたボディガードたちの体が障害となっている。
 敢て命を奪わなかったのは、生きたまま傷ついた味方とは時にとても邪魔になると知っているからだろう。
 彼らの上を跳んで廊下に出たが、既に暗殺者の姿は影も形もなかった。



 機転を利かせて飛び出し、黒衣のアサシンは一目散に屋上へと舞い戻った。
 敵はこの騒動を聞きつけて今やあの部屋に集まっているだろう。
 混乱した今しか逃げる機会はない。
 来る時に用いたハングライダーへと、男は駆ける。
 かりそめの羽でホテルより離れ、どこでもいい、人気のない場所に降りて戦闘服を脱ぐ。
 後はともかくクラナガンを離れて……。
 斯様に脱出の算段を脳裏で行う、その刹那。
 背後で屋上が爆ぜた。

「――」

 驚愕を噛み締めつつ振り向けば、巨大な燃え盛る蛇が屋上を突き破って天へと鎌首をもたげ、のたうつ。
 いや、それは蛇ではない、剣だ。
 無数の断片に分割され、ワイヤーで連結された炎の刃。
 それが屋上を穿ち、身をよじって穴を広げる。
 ちょうど人が通りやすい程度まで穴が広がったところで、連結刃は素早く穴の奥へと消えた。
 硬質な金属同士が噛み合う音、元の長剣へと戻る音を立てながら。
 そして、高音で炙られ赤熱化して燃える床材の大穴から、風を切って人影が飛び出す。

「やはり、屋上だったか」

 鋭い眼差しと刃の銀光を見せ付けて、屋上へとシグナムが降り立つ。
 凛然と浴びせかける言葉が、鋭い剣気と共に大気を凍て付かせる。
 刃に炎こそ纏っているが、相対した者が感じるのは鋭利な気迫がもたらす寒気。
 それが劔冑の騎士、烈火の将シグナムである。

「――」

 闇の暗殺者は覚悟を決めた。
 もはや逃げ場は、この対手を殺傷した先にしかない。
 ならば殺す。
 黒き影が闇夜へ溶け込むように、するりと動いた。
 腕が薙ぐ、大気を引き裂く、銀の閃光が幾条もの軌跡を描く。
 初見と同じくナイフの投擲、ただし速度も量も桁が違った。
 合計十五本の刃光が、先の攻防の倍する程の速度で擲たれる。
 魔法による身体能力強化と物理保護のもたらす効果が、血肉を求める凶刃を神速の高みに押し上げた。
 直線と曲線の入り乱れた刃の風雨。
 顔面、喉元、心臓、肺、鳩尾、肩、腕、膝、腿。
 当たれば死、あるいは戦闘へ支障をきたすであろう部位全てへ、ほとんど面に等しい攻撃だ。
 如何なる相手だろうと必中の投擲刃が生む死の乱舞。
 これを前に、だがシグナムは不動であった。
 刃が触れる寸前、彼女の身体を淡い光が包んだかに見え、次の瞬間、金属が硬質な物体にぶち当たる歪な残響が響き渡る。
 言うなれば、研ぎ澄ました刃をコンクリートに叩き付けたかのような、耳を覆いたくなる残響。
 ひん曲がったナイフの数々が屋上の上を跳ねた時ようやく知れた。
 シグナムが選んだのは回避ではなく防御。
 彼女の白く艶かしい柔肌を、超硬質なる防御魔法の皮膜、パンツァーガイストが覆ったのだ。
 かつて幼き日のフェイト・テスタロッサの射撃魔法を前に揺るぎもしなかったこの防御障壁は、神速の投擲刃の悉くもまた同じく、事も無げにあしらった。

 が、構わない。
 既に漆黒の身は次手を紡いでいる。
 ナイフの投擲を防いで硬直してたシグナムに、黒き影が疾駆した。
 腰から引き抜いた短刀がさながら逆回しの雷光が如く、下から上へ駆け上がる。
 狙いは正中線のど真ん中、麗しき美貌。
 乾坤一擲、バリア破壊術式を纏う一刀は、さしものシグナムもただ防ぐというわけにはいかない。
 長剣の刃が銀弧を描いて躍り、薙ぐように下段からの斬撃を跳ね上げた。
 静寂なる大気に染み込む鏘然たる金音の轟き。
 さらに続けて刃と刃が鳴らす音色が迸る。
 己の間合いに踏み込もうと、暗殺者は軽く短い刃を乱れ舞うように振るった。
 対する騎士は、愛剣の間合いが持つ優位性を崩されるよう接近を阻むように斬撃を叩き込む。
 鍛え上げられた刃同士が生み出す刃光の煌きが、闇夜に鮮やかな火花を幾重にも散らしては消えていく。
 凄まじい連撃となって襲い来る暗殺者の攻撃にシグナムの防御が崩れ掛かった。
 短刀はその短さ故に、斬撃を振るう速度が尋常でない。
 突風よりなお激しく速い刃光の乱舞。
 暗殺者は深く踏み込み、一際強烈な横薙ぎの斬撃一閃。
 レヴァンティンの剣身が堪らず跳ね上がり、シグナムの胴ががら空きになる。
 決定的な隙。
 右へ振るった斬撃の勢いを殺さずそのまま身体を回転、遠心力を乗せた渾身の一撃を叩き込む。
 だが、迸った刃光が断ったのは冷たい夜気のみ。
 敵影――視界より消失。
 その刹那、うなじの毛が逆立つのを感じた。
 理性や思慮とは別次元の、生命が持つ第六感が危険を察知。
 魔法によって強化された反射神経と筋力により、前方へ数メートル近く跳躍。
 その瞬間、背中に冷たい何かを感じた。
 前転しながら体勢を立て直し、刃を構えて背後を振り仰ぐ。
 背後に感じた冷気は、どうやら剣身に宿る殺気だったようだ。

「勘の良い奴だな」

 外したのが惜しいなどと、微塵も含まない声が零れる。
 レヴァンティンの切っ先を正眼に構えながら、シグナムの顔には楽しげでさえある微笑が宿っていた。
 先の攻撃、おそらくはアサシンの一撃を宙に舞って躱し、視覚となった頭上より一刀を見舞ったのだろう。
 もちろんその直前にこちらに見せた隙は、そこへ繋げる為の餌。

「――」

 どうやら、目の前の騎士は生半な相手ではないらしい。
 これ以上出し惜しみは出来ない、かくなる上はこちらも最上の手を打つべし。
 黒き暗殺者は、ここに至って覚悟を決めた。
 ゆるりと、体から力を抜く、代わりに全魔力を魔法に集中。
 一歩を踏み出す……ただし、四つの方向へ。
 黒き総身が次なる刹那、四つへと分かれていた。
 四人の暗殺者がそれぞれ違う方向へと歩み、駆け、回る。
 シグナムを囲む四つの輪となって奔る。

「幻影魔法、か……部下に一人、似たような業を使う者がいるな」

 音もなく瞬速を以って描かれる円陣、四つの影と四つの刃。
 果たしてどれが実体で、どれが幻なのか。
 細緻極まる分身の術を前に、シグナムの声はやはり緊張の欠片もなかった。
 静かに切っ先を下ろし、下段の構えに剣を執って……沈黙。
 騎士の選んだ戦法は、後の先。
 然らば――待つ、待つ、待つ、待つ、待つ。

「――」

 声もなく、唐突に、輪は崩れた。
 四つの黒き影がまったく同じタイミングで動き、前後左右より四つの刃を繰り出す。
 果たしてそのどれが実体であり、シグナムはどう捌くのか。
 結果は――不動。
 彼女は微塵の動作もせず、四つの刃を受けた。

 幻影の刃を。
 迸った刃光四つ全てが幻、どれにも殺意はないし音も気配もない。
 接触した刹那、ぱっと四つの幻が消えた。
 では、本体は一体どこへ。

「……む?」

 シグナムは、そこでようやく気付いた。
 実体の剣が迫ればカウンターの斬撃でその刃をへし折る気概で待ちに徹していたのだが。
 肝心要の敵の気配が、いつの間にか感じない。

「なるほど……ハハハッ! してやられたな!!」

 大声を張り上げて、烈火の将は自嘲した。
 そうだ、当たり前の事だった。
 敵の目的は自分と戦う事でも、殺す事でもない、一刻も早い脱出である。
 ならば何時までも彼女と剣戟に耽る理由などなかった。
 一体どの段階で幻影だけ残して消え去ったのか、もはや気配も魔力の残滓さえなく、黒きアサシンは闇夜に消えた。



「また会いましたね」

 その声と美貌が作る微笑みに、胸裏で心臓が弾け飛びそうな程に高鳴った。
 相手が美人だからではない、つい先日交わした刃の冷たい殺気を肌に覚えているからだった。

「ええ、奇遇ですね」

 クラナガン市内の小粋なカフェテラスのカウンター、男の隣にシグナムは一言断ってから腰を下ろした。
 ウェイターに紅茶と本日のデザートを頼み、ため息を一つ。

「何かあったんですか?」

「はい。まあ、仕事で少しばかりしくじりまして」

「それは災難」

 青年は微笑を浮かべて、目の前にあったカップに口付けた。
 苦いブラックコーヒーの味を丹念に味わう。

「コーヒー、お好きなんですか?」

「ええ、まあ」

 気付いたのはつい最近。
 ついでに言えば、この些細な人生の妙味を教えてくれたのは目の前の女でもあった。

「あと、まあ失業しまして」

「……それは嬉しい事なので?」

「さあ、どうでしょう」

 昔、別世界で拾われ買われ、暗殺者に仕立て上げられ、黒社会を渡りに渡った末に根を張った組織。
 未練がないと言えば嘘になる。
 だが今はどうでも良かった。
 生まれて初めて気付いたこの妙味を、ただもう少しだけ味わいたいという意識だけ。
 帰りに、コーヒー豆でも買っていくか。

「ではお先に」

「ええ、では」

 美女の浮かべた笑みに今度は本物の微笑を返し、男は店を立ち去る。
 そしてまた、都会の雑踏の中に溶け込む、影のように。


終幕


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目次:烈火の将剣闘譚
著者:ザ・シガー ◆PyXaJaL4hQ

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