「無題」三章スレ496

初出スレ:三章496

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 己が名を呼ぶ、慈愛に満ちた声に騎士が振り返ると、見慣れた天女がそこには佇んでいた。
 上品な絹織り物を纏った華奢な肩には、腰までしなやかに伸びた黒髪が掛り、
開け放たれた窓から燦々と降り注ぐ日の光を浴びて淡く煌めく。
 蒼白い静脈が薄く浮き出た素肌はそれとは対照的に、純白の絹で覆ったように
透き通るようで、髪の色と相成って一層優雅に感じる。
 翠緑色の眸に宿った眼光は天高く昇る陽を連想させた。
 仄かに漂う彼女の暖かな香りは、全身に染み渡るようで心地好い。

 城の中庭に面した窓の枠に両手をついて、彼女は外界を仰ぎ見た。
「今日も良い天気ですこと」
「そのようですな」
「こんな日は、外に出て新鮮な空気を吸いたいものね」
 ふと、髪をなびかせて振り向いた翠緑と視線が絡む。思わず赤面する。
「お前、今日は暇なのですか?」
「いえ……」
 これから午後の修練の指導がある旨を小さく俯きながら告げると、酷く残念そうに肩をすくめて見せた。
「申し訳ありません。他の者にお頼み下され」
「私はお前が良いのに」
包み隠さず指名を受けるのは嬉し恥ずかしくとも、期待に沿えずに少々歯痒い。
「お前は、何の為にそうしているのですか?」
 不満げに彼女は問う。顔を赤らめながらも、騎士の返答に迷いは微塵も見られない。
「貴女の為に」
「私の為に?」
「はい――貴女に救われたこの命、続く限り御身の為に尽しましょう」
 そうまで言われては、騎士を引き止めるのは気が引けたらしく、
「斯様なものの言い回し、一体何処で覚えたのでしょうね」
 と彼女がくすくすと笑う。それに合わせて、漆黒の髪がふわりと揺れた。

 こうして彼女が時折見せる表情は、式典や儀式の際に民衆に向けられるような、
虚空な作り笑いとは違う。どこまでも無邪気な、幼子の如き笑顔。
 見る者の心の奥底を癒してくれる、そんな力を持っている。

――彼女が微笑む事は少ない。

 そんな笑顔を常日頃から目の当たりにすることが出来る自分は、何と幸せなのだろうか。
 きっとこれは、今まで不幸に不幸を重ねてきた自分を憐れみになられた神様からの、
賜り物なのだと信じる事さえある。
 口許が綻ぶのを咳払いで隠し、二の句を継いだ。

「では、失礼致します」
「はい。お前も無理はせぬように」
「勿体無い御言葉です」

 そう言うと、彼女の眼前に跪き手を取る。きめ細やかな手の甲に口付けると、
直ぐに踵を返して陽だまりの回廊を引き返していった。
「……」
 妙に熱を持った自身の手をぎゅうと握り締めたまま、背を向けて遠ざかる騎士を
彼女は無言で見つめ続けていた。
2007年06月24日(日) 22:57:29 Modified by ID:+2qn2ghouQ




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