これさえ学べば、あなたもヒット作ができる!
文が良くても、絵が良くても、話がつまらなければ、話になりません。プロの作家になるために、すてきな物語を作る方法を学びましょう!
物語学は、さまざまな表現の根底にある物語の構造と意義について研究する学問分野です。このサイトでは、小説や映画、ドラマ、マンガなど、新しい物語を作るために必要となる物語学の基礎理論を紹介していきます。
物語は、具体的な固有の出来事を説明する開かれた情報です。命令は、具体的な固有の出来事に説明する情報ですが、閉じられています。理論は、開かれた情報ですが、抽象的な一般の出来事を説明します。開かれた情報、とは、その情報に対してどうするか、は、聞き手に委ねられているものです。逆に、閉じた情報とは、その情報そのものが聞き手にすべきことを規定しているものです。
物語は、歴史的な事実(記録)や現在的な事実(ニュース)も含まれています。しかし、これらの何万倍もの数の、架空の話(フィクション)もあります。前者ももちろん、後者も、出来事を説明する情報として、きちんとした因果整合性が必要です。架空の話でも重視されることを考えるならば、物語においては、事実性よりも、因果律そのものに重点が置かれている、と考えるべきでしょう。つまり、我々は、物語において、因果律そのものを学び楽しむのだ、と言えます。日本語で「文学」という言い方がありますが、それはまさに物事のアヤを研究する学問なのです。
物語は、出来事を説明する情報であり、出来事そのものとは別のものです。小説や映画の作品によって語られている出来事の方を「ミュトス」と言います。これに対し、出来事を語っている小説や映画の作品の方を「エロキューション」と言います。エロキューションは、ミュトスを表現するものであり、ミュトスはエロキューションで表現されるものです。
ただし、ミュトスのすべてがエロキューションで語られるわけではありません。ミュトスは広大緻密であり、もとよりそのすべてを語りつくすことなどできません。一方、エロキューションも、そのすべてがミュトスの表現であるわけではありません。エロキューションにおいて、語り手が、ミュトスそのものを離れて、自分の直接に感想や解説、余談などを述べることもあります。
物語は、開かれた情報として、終結させた後に、読者や観客に引き渡されなければなりません。終結していないまま、どこかに伏線が残っているかもしれないような状況では、読者や観客は、その物語を受けて自分のすべきことを決めることができません。語るべき情報が終結する、というのは、それ以上は情報として語るまでもない状況、語らなくても読者や観客にわかる状況に至る、ということです。もっとも、もとより物語は開かれたものですから、完全に画一的な終結でなくとも、読者や観客が、語られなくてもわかる状況、さらには、語られなくても、読者自身や観客自身がいろいろに想像しうる状況に至れば、すでに充分に終結したことになります。
文が良くても、絵が良くても、話がつまらなければ、話になりません。プロの作家になるために、すてきな物語を作る方法を学びましょう!
物語学は、さまざまな表現の根底にある物語の構造と意義について研究する学問分野です。このサイトでは、小説や映画、ドラマ、マンガなど、新しい物語を作るために必要となる物語学の基礎理論を紹介していきます。
物語は、具体的な固有の出来事を説明する開かれた情報です。命令は、具体的な固有の出来事に説明する情報ですが、閉じられています。理論は、開かれた情報ですが、抽象的な一般の出来事を説明します。開かれた情報、とは、その情報に対してどうするか、は、聞き手に委ねられているものです。逆に、閉じた情報とは、その情報そのものが聞き手にすべきことを規定しているものです。
物語は、歴史的な事実(記録)や現在的な事実(ニュース)も含まれています。しかし、これらの何万倍もの数の、架空の話(フィクション)もあります。前者ももちろん、後者も、出来事を説明する情報として、きちんとした因果整合性が必要です。架空の話でも重視されることを考えるならば、物語においては、事実性よりも、因果律そのものに重点が置かれている、と考えるべきでしょう。つまり、我々は、物語において、因果律そのものを学び楽しむのだ、と言えます。日本語で「文学」という言い方がありますが、それはまさに物事のアヤを研究する学問なのです。
物語は、出来事を説明する情報であり、出来事そのものとは別のものです。小説や映画の作品によって語られている出来事の方を「ミュトス」と言います。これに対し、出来事を語っている小説や映画の作品の方を「エロキューション」と言います。エロキューションは、ミュトスを表現するものであり、ミュトスはエロキューションで表現されるものです。
ただし、ミュトスのすべてがエロキューションで語られるわけではありません。ミュトスは広大緻密であり、もとよりそのすべてを語りつくすことなどできません。一方、エロキューションも、そのすべてがミュトスの表現であるわけではありません。エロキューションにおいて、語り手が、ミュトスそのものを離れて、自分の直接に感想や解説、余談などを述べることもあります。
物語は、開かれた情報として、終結させた後に、読者や観客に引き渡されなければなりません。終結していないまま、どこかに伏線が残っているかもしれないような状況では、読者や観客は、その物語を受けて自分のすべきことを決めることができません。語るべき情報が終結する、というのは、それ以上は情報として語るまでもない状況、語らなくても読者や観客にわかる状況に至る、ということです。もっとも、もとより物語は開かれたものですから、完全に画一的な終結でなくとも、読者や観客が、語られなくてもわかる状況、さらには、語られなくても、読者自身や観客自身がいろいろに想像しうる状況に至れば、すでに充分に終結したことになります。
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