福岡県の郷土のものがたりです。


この物語は、久留米市の高良山のふもとを舞台に展開され、今なお語り伝えられているものです。

最近、主人公にまつわる石仏が民家の庭で発見され、話題となっています。

文化・文政の年間といいますから今から二百年ほど前のことです。長い旅を続けてきたらしく、

みすぼらしいなりをした一人の若い侍が、高良玉垂宮(たまたれぐう)を目指して参道を登っていました。

うっそうと生い茂った杉や松林に囲まれ、昼なお暗い参道は、通る人とてあまりありません。

谷川に注ぐ冷たい岩間の水で口をすすぎ、身を清めた侍は、また、ゆっくりと登って行きました。

やがて視界が開け、眼下を流れる筑後川のすばらしい景色を眺めながら広々とした高良玉垂宮の境内に

着きました。ひっそりと静まりかえった寺務所で用向きを伝えた侍は、山腹の座主院(ざすいん)に

案内されました。

そこは、高良山一山の政令をつかさどる座主、伝雄僧正(でんゆうそうじょう)の住まいでした。

当時、伝雄僧正は学問に優れ、名僧と仰がれる立派な人物で、筑後地方はもとより遠くまで

その評判は聞こえていたのです。

僧正と対座した侍は「私は東北地方のある藩の家来です。仔細あって藩の上役を刀にかけ

殺してしまいました。そのために郷里を追われ、安住の地を求めて諸国を旅し続けている者です。

幸いあなたのことを聞き、私自信の身の処し方をご相談したいと思い、お訪ねしたのです」

と、これまでのことを一部始終話しました。

じっと耳を傾けていた僧正は「この寺で働く気持があったら働かれたらよろしかろう」と言いました。

この方のそばで働いたならば救われるかもしれないと思った侍は「ぜひお願いします」と頼んだのです。

それからというもの、侍は近くの円明院というところで一生懸命に働きました。

ある日、僧正に勧められるままに髪をおろし、得度(出家)して自得(じとく)と

名乗ることになったのです。

僧正は、自得にこれまで空席になっていた新清水観音堂のお世話をする堂守になるよう命じました。

いつしか自得は前罪を懺悔し、自分が殺した人の菩提を弔うため、当時ひどく荒れ放題だったこの観音堂を

再建しようと決意したのです。心に決めたらすぐ実行に移さなければ気が済まない自得は、さっそく翌日から

久留米の町をはじめ、ふもとの村々に托鉢に出かけました。雨の日も風の日も、雪深い日も炭染めの衣を

身にまとい深い編み笠の自得が、高良山を登り下りする姿を見ない日は一日もありません。

一心に托鉢するかたわら、数多くの石仏を作って供養したり、小川に橋をかけたりする自得の姿を見て、

人々は「自得さん、自得さん」と親しんでいました。

そうしたある日のことです。久留米の町の豪商紅屋の店先で托鉢をしていた自得は、主人の紅屋次吉に

呼ばれ、聞かれるままに観音堂の再建のことを話しました。自得の話に深く感銘した次吉は援助を

申し出ました。次吉の協力を得てからは順調に再建が進み、いよいよ喜びの落成大法要が新清水観音堂で

催されることになり、近くの村や町から多くの人たちが集まってきました。

お堂の中央前座に自得が進み出て、大法要が始まろうとした時です。参詣していた人垣の中から突然

ひとりの若い旅姿の武士が、声高々に「多年探し続けてきた父のかたき、尋常に勝負せよ」

とさやを払った刀を右手に自得の前に立ちはだかりました。近くに座っていた人たちは、息詰まる

光景に驚き、声をたてる者もありません。

この時です。今にも切りつけようとする若者に向かって紅屋次吉が「この僧は自得さんといって

村人たちから生き仏様のように尊敬され、親しまれている方です。今この方を失っては私たちの

心のよるべが無くなります。過去のことは水に流してください」と頼みました。

若者は聞かなかったのか聞こえなかったのか、自得をめがけて刀を振り下ろしました。

人々は「アッ」と声をあげましたが、身動きひとつしなかった自得の手に持った数珠と衣の袖を

切り落としただけでした。自得の姿に観音様を見る気がした若者は、黙ってそのまま立ち去って

行きました。

この出来事があってからも自得さんは亡くなるまで自分があやめた人の菩提をねんごろに

弔い続けました。

トップページ

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます