- 添田町
英彦山のふもとの添田が、豊前小笠原藩の領地だったころのことです。
その年も昨年に引き続き天候が不順で、稲の収穫は例年の半分以下という予想です。中元寺川の上流一帯も
その例にもれず、村人たちは田んぼのあぜ道に立ちすくんでため息をもらすばかりです。
ある日、小笠原藩から作がらの見回りに代官がやってくることになりました。村人たちは少しでも年貢米が
安くなるよう祈らずにいられません。庄屋の彦作にとっても願いは同じで、美しい娘たち、きよとたまにその接待を
させたりと、代官を心からもてなしました。
いよいよ年貢高の言い渡しです。不作の田んぼを見たはずの代官が、
「今年は豊作じゃのう。この分では昨年の二割増の年貢を納めてもらおう」
といいだしたのです。驚き嘆く彦作に、代官はこっそり「娘をお殿さまの側室にさし出すなら手加減してやってもよい」
と追いうちをかけました。そうはいわれても、きよは升田村の宗七と、たまもよその村の若者との、
縁組が決まっています。彦作がおそるおそるそのことを申し出ると、代官は、自分が相手方と話をつけてやると
強引です。
きよはすっかりその話を聞いてしまいました。去年、村人たちの数人が食べる米がなくなり、家をすてて村を出ていった
ことを知っているだけに、けなげにも側室になることを決心しました。
きよは側室にあがりました。しかし、身は美しく装っても、思い出すのはふるさとやいいなづけの宗七のこと、
つらい日々が続いていました。
一方、小笠原の殿さまは、美しいきよに心をひかれながらも、そのしずんだ様子をいぶかしく思っていました。
そして、そのわけをたずねました。最初は言いよどんでいたきよも殿さまの優しさに、すっかり事情をうちあけました。
宗七のこと、年貢米のこと……。
殿さまにとっては寝耳に水。早速、調べあげて謀りごとをめぐらした代官と家老を罰し、きよを家にもどして宗七との
縁組をさせたと伝えられます。
それ以後は、年貢米も藩主が自ら決め、中元寺の村人は過酷な取りたてに悩むことはなくなったということです。
きよの家は、いまはもうありませんが、その屋敷跡と伝えられる所が畑になって残っています。
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