福岡県の郷土のものがたりです。

  • 直方市

読み方は「うりゅうちょうさくのひ」。

幕末のころのことです。その年はいつにも増して雨が多く、五月に入ると二十日余りも降り続きました。

遠賀川の水量も日に日に多くなり、いまにもあちこちで堤防が決壊しそうです。感田村(がんだむら、直方市)にある

古い取水用の水門も危険な状態となり、ここが壊れると感田村ばかりか隣村の木屋瀬村(こやせむら、北九州市)まで

水没するのは避けられません。

鳴り響く半鐘にせかされて、大勢の村人が水門に集まりました。しかし水の勢いが激しく、

みんなはただ右往左往するばかりです。

そのころ、木屋瀬村に人望を集める瓜生長作という人がいました。折り悪く、数日来の病いで床についていましたが、

そこへ庄屋さんからの急使がかけつけてきました。

「長作さん、みんな手をつけきらんとばい。あんたが指図してやらんな」

飛び起きた長作は、畳を二枚両わきに抱えこむと、水門までの半里(約二キロメートル)の道をかけ通しました。

そして首まで水につかって、みんなを指揮しながら土のうを積みあげ、何とか水門の決壊を防ぐメドがたちました。

それを見て村人がホッと一息つこうとしたとき、突然、激流が長作さんを襲い、アッという間にその姿をのみこんで

しまったのです。そのとき、長作さんは働きざかりの四十歳だったといわれています。

不思議なことに、今まであれほど激しかった水勢が急におとろえはじめました。

「長作さんが人柱になって水神さんの怒りを鎮めたとばい」

そういって村人は抱きあって泣きました。

長作さんの話は人から人へと語りつがれ、その没後四十年に、水害をまぬがれた四カ村、感田(直方市)、木屋瀬、

野面(のぶ)、楠橋(くすばし、以上北九州市)の人々の手で、水門のそばに長作さんの記念碑が建てられました。

地元の古老の話によると、洪水の前には必ず長作碑がゆらゆら揺れて村人に危険を知らせたということです。

その後、たびたび行われた遠賀川改修工事のため、長作碑は土手の下に隠れてしまいました。

そこで昭和五十三年、有志の手で堤防の横に移築されています。

今日も感田から木屋瀬に向かう堤防の途中に建つ長作碑が、遠賀川の流れを見守り続けています。

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