福岡県の郷土のものがたりです。

  • 椎田町

江戸時代の末期、日本中を揺るがす天保の大ききんが起こりました。くる日もくる日も雨が降りやまず、夏になっても

肌寒い日が続きました。そのうえ稲に害虫や病気が発生し、米がわずかしかとれない年が何年も続いたのです。

当時の築城町でも、人びとはひどい飢えに苦しんでいました。少しとれた米はすべて年貢として取りあげられてしまい、

貯蔵米も食べつくし、草や木の葉など食べられるものは何でも食べて飢えをしのいでいたのです。

しかし、そのうちに餓死する人も出始め、農民たちの中には家や田畑を捨てて、遠くの村に逃げだす者も

あったほどでした。

それにもかかわらず、当時の藩主は、凶作であえぐ農民を無視するかのように厳しく年貢米の取り立てを続けたのです。

そのころ、筋奉行としてこの地方を取りしまっていたのが延塚卯右衛門(うえもん)という人です。あわれな農民たちの

姿に心を痛めたこの延塚奉行は、何とかして彼らを救おうと、

「農民たちの年貢を軽くしてください。米を与えてやってください」と何度も藩主に嘆願書を書きました。

しかし藩主はいっこうに聞き入れようとはしません。それどころか、

「何をぐずぐずしているのだ。早く年貢米を集めるのだ」

と激しく催促し、いっそう重い税をかけたのです。

藩主と農民との間で板ばさみとなった延塚奉行は、覚悟を決め、独断で御蔵米を農民たちにほどこし、年貢も許して

やりました。

そして天保七年(一八三六)、師走二日、延塚奉行はその責任を負って、奉行所の梅の木の下で自ら命を絶ったのです。

農民たちは、命とひきかえに自分たちを救ってくれた延塚奉行の遺徳を仰ぎ、七回忌に当たる天保十三年(一八四二)

には供養碑(現・築城町小山田公民館)を、大正十三年(一九二四)には奉行ゆかりの地浜宮の綱敷天満宮境内に

報徳碑を建て、深く感謝の意を示しました。

延塚卯右衛門は、豊前の佐倉惣五郎と呼ばれ、今なお忘れられることなく、毎年十二月には椎田町で追善祭が

行われており、奉行役宅跡(旧椎田町役場)は延塚奉行祈念館となっています。

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