福岡県の郷土のものがたりです。

  • 夜須町(やすまち)

むかし、夜須の朝日村というところに弥四郎という男が住んでいました。

弥四郎は生まれつき正直で気だてもやさしく、たいそう働き者でした。

朝は毎日暗いうちから起きて働き、また飼っていた牛にもムチひとつ当てないばかりか、まるで人にでも物をいうように

「お骨折りじゃが稲を運んでもらいましょうか」とか「ほんとにありがたい。お前さんのおかげで仕事もすっかり片付いた。

さあ、くたびれたじゃろ。ゆっくりと休んでくれや」などと話しかけていたといいます。

また弥四郎の親孝行ぶりは村でも評判で、毎晩親が寝る前には冷えたふとんを自分の体で温め、

母親が病気のときも寝ずの看病をして一心に孝養を尽しました。

とにかく何をするにもまず人のためを考える欲のない男でした。

狭い道で人に会えばすぐに道を譲り、落し物を拾えば落とし主が見つかるまで探し歩きました。

ある冬の寒い夜、ものもらいが来ましたが、弥四郎の家があまりにぼろなので立ち去ろうとしたにもかかわらず、

弥四郎はあとを追いかけていき、自分の飯を分けてやったといいます。

こうした弥四郎の行いは各地でうわさとなり、とうとう福岡藩主黒田乾龍(けんりゅう)公の耳にまで伝わりました。

文政五年(一八二二)正月三日、福岡城に召し出された弥四郎は『抱田三反一畝(うね)十歩(約三千平方メートル)を

生涯作り取り(年貢を納めなくてよいこと)にせよ』という御沙汰書(おさだめがき)と

青銅五百文というほうびを涙して受け取りました。

しかし、このときも人のいい弥四郎は、もらったお金をすべて神社や寺に奉納し、作り取りの米も貧しい人に分け、共に食べたそうです。

乾龍公は、弥四郎の孝徳行状を一篇の今様にうたわれました。

「夜須の朝日の弥四郎は…」と始まるこの今様はいまなお、土地の人々に歌い継がれています。

文久元年(一八六一)四月二十三日、弥四郎は八十三歳でこの世を去りましたが、死ぬまで変わることのなかったその奇特な行いは、

村人たちによって語り伝えられ、昭和三年十一月には弥四郎が耕作していた田の一部に顕彰記念碑が建立されました。

また、国道を隔てたところにある薬師堂の前には弥四郎の墓と今様の歌詞が刻まれた碑が建てられています。

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