闇に閉ざされた牢獄。小窓からのわずかな光で繁茂する苔の匂いが立ち込める石の独房の中で、一人の男が蹲るようにして座っている……否、縛り付けられている。血の滲んだ両の足首には重い足枷が取り付けられ、生傷が痛々しい手首は大きな木製の首枷に繋がれている。
 男は既に三月の時間をここで過ごしていた。髪の毛と髭はもっさりと伸び、頬はこけて両の目は落ち窪んでいる。恐らくはろくな食事も与えられぬまま、長い間この非人道的環境に置かれていたのだろう。中を這い回る溝鼠や油虫さえ、この男を生命とは見做していない様に我が物顔で闊歩し、時にはその体の上によじ登って餌を探していた。
 しかし、ギョロリとした双眸はまだ光を失っていない。指一本動かすのさえ難しい極限の中で、彼は周囲の情報を貪欲に求めていた。獄吏がコツコツと歩き回る音、日の長さと気温、時折漏れ聞こえてくる噂話。それら全てが、彼にとって貴重極まる判断の材料であった。
「(おれは、まだ生きている)」
 最後の尋問─過酷と酸鼻を極めたあの拷問からもう一ヶ月になる。拘束以来絶え間なく続いた牢責めは近頃ぴたりと止み、話を聞かせろという審問官がやってくることすら稀になった。
「(仲間たちはどうなった?李紫雲は、今どうしているのだ?)」
 男は言うことを聞かぬ体を何度か波打たせ、情報を得ようともがいた。彼の従事していた作戦が無惨な失敗に終わっても、彼の生命はまだ終わっていない。ならば、まだやるべきことがある。最期まで、醜く足掻いて生きねばならぬ。
「(汪は……清明は、逃げられたのか……)」
「陸!陸、立て、立たんか!」
 その時だった。ガチャガチャと重い錠前を取り外す音がしたかと思うと、鉄格子が引き開けられ中に数名の獄吏達が踏み込んでくる。
「さあ立て、行くぞ!」
「(とうとう処刑か。随分と時間がかかったな)」
 鉄球のついた足枷、腐りかけの首枷、血の滲んだ麻の囚人服。見てくれはあまりにも無様であったが、男の誇りには微塵の傷もついていなかった。彼は俯いていた顔をぐっと上に持ち上げ、段々と近づいてくる自身の死に堂々と向き合う姿勢を見せる。
「さて、腰抜けども。おれをどうやって殺すんだ?首斬りか、鋸引きか?それとも……」
「黙って歩け。今からお前の行くところは処刑場ではない」
「ほう?すると、また拷問か?だとしたら無駄なことだ、お互いにとってな。さっさと処刑した方が、おれにかかる飯代を削減して、貧民どもを救うことができるぞ。お前らの総督にもそう伝えてくれないか」
「……」
 扉が開かれ、陸は牢屋敷から外に出された。土の上に転がる小石が足の裏に突き刺さり、鋭い痛みが走る。久方ぶりに見た陽の光が彼の網膜を灼き、一瞬視界を白に染めた。
「さあ、こっちだ」
 首枷につけられた鎖を引かれて、彼はある場所へと連れて行かれる。建物の正面に広がる前庭、それはかつて彼とその同胞達が引き出され、一人また一人と死刑の判決を受けた場所だった。今や彼が最後の未決囚である。
「そうか、遂に判決言い渡しか。随分と手間をかけたな。えぇ?おれをどうやって死刑にするか、やっと決まったってわけだ。そろそろ待つのにも飽きた頃なんだぜ」
「頭が高いぞ!これより御出座になるお方を誰だと……」
「よい、そのまま捨ておけ」
 頭を反らせるように上へと向けた陸。その彼を見下ろす高みから響いたのは、肌を突き刺す厳しい冬の寒さを思わせる、ゾッとする程の玲瓏たる声であった。
「……久しぶりだな。ずっと会いたかったぜ、李紫雲!」
「そうか。私も同じだ、陸中葉」
 深い紅の瞳が冷酷な光を帯びる。数段の階段を隔てて睨み合う二人は、長い間お互いを求め合っていた。─それも、全く同じ理由で。

 今から三ヶ月前の七月。陸中葉は数十名の仲間達と共に李紫雲の命を狙った。数ヶ月前から綿密に計画され、諸外国の支援を取り付けた完璧なはずの計画。指揮を執るのは国内指導部の最高指揮官汪清明であり、参加するのはその身の全てを革命に捧げる覚悟を決めた精鋭達。これが成功すれば、大いなる革命の炎は一気に燃え上がり、この広州の地からセリカ全土の解放を成し遂げられたはずだった。
 しかし、それは惨めな失敗に終わった。彼らが眼中にも入れていなかった、一人の遊女の密告によって。
「お前達の同志とやらは随分と口が軽いようじゃないか。お陰で全員を一網打尽にすることができた。誠に結構」
 引き出された同志達を眺めながら、憎き女は笑みを浮かべていた。その美貌は強い悪意に染まり、普段は堂々たる戦いの為に使われているはずの唇からは、激しい嘲弄と侮蔑の言辞が溢れた。
「楽に死なせてやってもよい。最初はそう思っていたが……生憎と、そうもいかん事情が出来た。お前たち自身がよく分かっている通り」
「黙れ!お前と言う悪魔がこの国を腐らせているのだ!腐敗し切った皇帝の政府、それを支えているのはお前の呪われた武力だ!」
「それで?」
「悪魔の子は悪魔だ。単純な話だろう」
「なるほど。よいよい」
 くすくすとこもった笑い声と共に、彼女はつかつかと囚人たちに歩み寄り、ついさっきまで自分を糾弾していた男の前に立つ。
「それが為よ。それが為にお前たちは楽には死ねんのだ。そして、お前たち本人だけではない……私にとっての『悪魔の子』達もそうだ」
「ま、まさかッ!やめろ、卑怯者ッ!」
「一週間後だ。一週間後にまた会えるだろう。まったく、贅沢なものだ。我が子らに黄泉路の先駆けを務めさせるとはな」
 言い渡された判決は斬刑。しかも、本人だけではない、その家族・親類縁者・協力者─果ては、ことの善悪すらわからぬ子供達まで!
「(だが、おれは今日まで生き延びた。おれの家族達も処断されたという話は聞かない。一体何故なのだ)」
 一ヶ月後。李紫雲暗殺計画の参加者とその家族の処刑が執行された。未決囚として拘留されていた陸は、朝廷の立会人や外国の公使に混じってそれを見届けた。手始めに家族の処刑が行われ、ついで本人の処刑。殺される直前、同志達の顔は皆絶望に歪んでいた。愛していた人、守ろうとした人、革命後にやって来るであろう理想の国で、幸せに暮らして欲しかった人……彼らが今、自分の前で死んでいく。恐怖と悲鳴、耐え難い苦痛の中、血と屈辱に塗れて殺されていく。
「(だが、その時おれはどう思っていたかな)」
 縛られながらその様を見せられていた陸の感情は、不思議と醒めていた。確かに死に行く同志達の辛い思いは痛いほど分かったし、何の咎もない無辜の人々が殺戮されることには激しい怒りを覚えた。しかし、それらはその身を焦がすほどの温度には上がらず、さながら夏場に放置した冷茶のような生ぬるさで、中途半端に燻っていた。

 「さて陸。今日ここに引き出された理由がわかるか」
「おれの処刑が決まったから、その言い渡しに来たんだろうが」
「その通りだ。流石は汪に次ぐ作戦の副司令。己の死が目前に迫ろうとも、端然として恐怖するところが無い。敵手とはいえ、その勇気は認めざるを得ないな」
「素直に喜んでおくさ」
「だが、結局は運命を変えられるわけではない。結論から言えば、明日お前は死ぬことになる」
「そうかい」
「そこで、一つ最後の憐みをくれてやることにした。後ろを見るといい」
 紫雲が指差す先に振り向くと、そこには一人の少女が座っていた。粗末だが継ぎ目の無い、こざっぱりした着物を着て、長い黒髪を三つ編みにまとめている。大きな両の目の真ん中、高い鼻の上にはそばかすがついていて、唇は苦しげに引き結ばれていた。
「お前の娘だ。見覚えがあるだろう」
「……」
 陸は答えない。代わりに少女が涙に濡れた声で、
「お父さん、お久しぶりです」
「……」
「お父さん、ごめんなさい、今日まで何も出来ませんでした。お父さんに拾ってもらって、今日まで育ててもらったのに、何の恩も返せなくて」
「……」
「せめ、せめてっ、お父さんと同じ日に死んで、黄泉路に一緒に行こうと、思ってっ」
 ぼろぼろと涙を流す少女を、彼は黙って見つめている。それを見た紫雲は訝しげに、
「どうした。これが最後の機会だ。何ぞ娘に言葉をかけてやらないか」
「……じゃあ、言わせてもらうがね……」
 すう、と小さく息を吸って、彼は言った。
「誰だお前は。俺はお前みたいなガキ、知らねえぞ」
「えっ」
 少女は目を見開き、表情を空白にする。父親から投げかけられた思わぬ言葉に戸惑っているのか、さもなくば絶望の余り言葉を失ったのか。陸はそのまま紫雲の前に向き直り、
「悪いがね、俺の娘はとっくの昔に死んじまったよ。確かにあの子は俺の娘によく似ちゃいるが、あれはちがうよ。さっさと追い出してくれ」
「……なるほど」
 彼女は無造作に手を振って、少女を敷地の外へ連れて行かせる。ハッと意識を取り戻した少女は激しく泣き叫び、陸の背中に言葉を投げつける。彼は一言も話さず……そして、最後の一瞥さえしなかった。

 翌朝。綺麗に髪と髭とを整えて、陸は処刑場に引き出された。柵で囲われた刑場の周りは見物人でごった返していて、その中には外国人の山高帽子もちらほらと見える。総督以下立会人が座る壇は後方に設えられ、丁度真ん中の大きな椅子に李紫雲が座っていた。
「これより、大逆不道の罪を犯したる逆賊陸中葉の斬刑を、皇帝陛下の名の下に執行する。かの者の名よ、永遠に呪われてあれ!」
 仰々しい声で式部官が判決を読み上げる。そして、長い間付けられていた首枷が外され、久方ぶりに彼の手足は完全な自由を取り戻した。
「総督殿下のお沙汰により、酒一杯を与える」
「ありがたいね」
 大杯になみなみと注がれた酒を一息に飲み干すと、陸はふぅと一息ついた。そして、とくと見ろとばかりに顔を上げて、群衆たちを見据える。
「執行!」
 太鼓が打ち鳴らされ、処刑人が巨大な刃を振り上げる。首と胴が別れを告げ、その命が永遠に失われる刹那。男は柵の向こうに立つ一人の少女の姿を見出した。大きな二つの目、鼻の上のそばかす、三つ編みにまとめた黒髪……。
「ああ、よかった」
 彼は満足げに微笑んだ。


陸中葉
1903年10月16日処刑。死後三十年余り経過した1935年、民国政府より一等武勲章を追贈される。過酷な粛清を生き延びた彼の娘が勲章を受け取り、記念碑に供えた。

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