セイブルの種族について
単刀直入に言えば、魔力という存在が意思を持って純然と具現化した存在。
時代が時代なら神とも妖怪と表現されるのだが、それを左右するのが人の存在だ。具現化した際、人から畏敬の念を抱かれたのなら、神として。恐怖の念を抱かれたのなら妖怪として存在を確立するはずだった。生まれたその時、その瞬間によって与えられた感情や念が存在を昇華させる…のだが、発生した時間、そして森の中という場所。そんな状況でセイブルは出現した。存在の方向性を左右する人の存在が無いということは、その存在が持つ力がそのまま具現化するということ。例えば、神とされれば神の力と魔力が混じり、妖怪…ここでは魔物とするが、魔物と認識されればその力と魔力が混じる。だが、今回のケースではその様な事はなかった。
ではどうなるかといえば、先程も書いたように”魔力”という存在として生まれたセイブルは、混じりっ気のない魔力として、その力を持ち、行使することが出来ると言うことだ。そして、その”魔力”という文字一つ一つに込められた力自体もその力を強く発揮する。魔力とは魔法に通ずる、必要不可欠なものとして。魔とは魔物や闇に通ずるものとして。力とは膂力や個人が持ちうる力が具現化する。そして、混じりっ気が無いという点は別の面に対する影響も大きい。それは意思に関する面だ。実際、神や魔物と認識されれば、人の想像するような一般的な物に引っ張られるものが多い。いわば、神なら神らしく、魔物なら魔物らしくだ。だが、そのような認識がないと、その意思は純粋な物になると思われる。例えるなら、無垢な子供のようなものだろうか。だからこそ、好奇心が強く、知識に関する吸収も早く、精神の本質が変わらずとも、成長する。
しかし、欠けるものもある。それは、どんな物でも、たとえ人であろうと魔物であろうと神であろうとも持っている、生物としての特徴というものだ。数々あるかもしれないが、大きなものでは、五感に然り、人間らしさ…いや、生物らしさ、極端にはその意思自体が。その全てが無い事もあれば、一部分だけ欠けることもある。今回のケースでは、意思や五感はあるが、生き物らしさ、というものが欠けている。その為、その姿は高純度の魔力の粒子で構成されている。それに加えて、体温や生物にあるであろう各種臓器等が無く、容姿も人や魔物とはかけ離れている。当人が人型で活動しているのも、形状変化によって維持しているに過ぎない。本質的には不定形だ。だが、形を持たないということは言わば、どんな姿にもなれると言うことになる。先に述べたように、もし人の感情や念によって、神として昇華した場合は、その姿は神獣や人型に近しいものになり、魔物として昇華した場合は異形の姿へと近くなる。だが、そのような念を受けず、純然たる者として生まれた当人は、その両方にならないし、その両方になれる。だからこそ、人型を維持し続ける事ができるのだろう

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