19世紀末から20世紀半ばにかけて、主に母国ベルギーとイギリスで活躍した宇宙物理学者。
後世で「ビッグバン」と呼ばれる現象にまつわる理論の元になるアイデアを提唱したことで知られる。
また、敬虔なカトリック教徒として司祭を務めたものの、科学と信仰を画一的に語らず、両者は別々のものとして共存できると主張した。
1894年のベルギー南部、エノー州のシャルルロワで生まれた彼は、イエズス会系の学校で人文科学を学び、その後17歳でルーヴェン・カトリック大学の土木工学科に入学。
そこで勉学に勤しむも、1914年の第一次世界大戦勃発を受けてこれを中断。陸軍に志願入隊し、砲兵将校として戦争に出征した。戦後には、その功績によりベルギー戦功十字章を叙勲されたという。
戦争が終わると、物理学と数学を中心に学び、1920年に数学に関する博士論文によって博士号を取得。また、卒業後にはアインシュタインの相対性理論をもマスターするなど、幅広い分野を修めた。
更に、教区司祭となる為にメヘレンの神学校にて聖職者としての教育を受け、1923年には司祭に叙階されるなど、その信仰心を大いに発揮した。
司祭叙階後、彼はケンブリッジ大学に滞在し、相対性理論を世界に広めた功績で知られる天文学者、アーサー・スタンリー・エディントンの元で、恒星物理学や数値解析の手法を学ぶ。
翌年にはマサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学天文台で、当時星雲の研究者として有名だったハーロー・シャプレーと共同研究を行い、また同時に、かのMITの理学専攻博士課程に登録した。
1925年には、彼はベルギーへ帰国し、非常勤講師としてルーヴェン・カトリック大学に勤め始める。そして同時に、世界中で物議を醸すことになる一つの論文の執筆を開始した。
1927年、ブリュッセル科学会年報に掲載された「銀河系外星雲の視線速度を説明する、一定質量で半径が成長する宇宙」がそれだ。
これは、当時「宇宙の大きさは一定である」という定常宇宙論が有力な見解だった当時の宇宙観に反する、「宇宙は膨張している」というアイデアに基づいた論文であり、後に「ハッブルの法則」として知られるものだった。
実は、ハッブルの法則自体は、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フリードマンという別の科学者によって、一般相対性理論から導出されている。
ルメートルは、フリードマンとは独立に導き出したこの法則に基づき、今日ではハッブル定数と呼ばれる宇宙の膨張速度に関わる定数を、初めて具体性を持った推定値として提示した人物であった。
彼が推定したハッブル定数、及び其処から導き出される宇宙の年齢が100〜200億年であるという予測は、今日得られている最新の研究結果と合致していることから、その理論の正確性と先見性が窺える。
しかし、後に
エドウィン・ハッブルが発表することで多くの人々に知られるようになるこの理論は、この研究発表の段階では、あまり知られることがなかった。
それは、論文を掲載したブリュッセル科学会年報が、ベルギー国内のマイナーな研究誌であったことに起因する。有り体に言って、知名度がなく、あまり他の研究者の眼に触れなかったのである。
一方で、これを見たアルベルト・アインシュタインは、ルメートルの理論の数学的な正しさについてはこれを認めたものの、膨張宇宙論というアイデアについては当初受け入れることができなかった。
自身の提唱したアインシュタイン方程式に基づくと、重力の法則上宇宙は膨張していなければならないことに気づき、それを防ぐ為に態々方程式を改める程不変の宇宙を信じていたアインシュタインにとって、それは当然の結果であった。
「貴方の計算は正しいかも知れないが、貴方の物理学は忌まわしい」。そんな言葉をルメートル自身に向けて言い放ったというから、アインシュタインが、本人のカトリック嫌いも相まって、相当な否定感情を抱いていたことは想像に難くない。
しかし、そういった論評を気にすることなく、ルメートルはMITに戻り、相対性理論に基づいた重力場に関する論文によって博士号を取得。ルーヴェン・カトリック大学で正教授の役職を得て働き始めた。
その後、1931年頃に、師であるアーサー・エディントンによって、当時ハッブルが発表していた同様の研究を元にいくつかの改訂を加え、エディントンによる長大な解説文を付けた上で、彼の論文が英語に翻訳された。
チャールズ・バベッジの解析機関を評価した英国科学振興協会において、彼は自身の理論を発表。宇宙が膨張し続けていることから逆算し、宇宙には、「
宇宙卵」とでも言うべき始まりの一原子があったことを主張した。
今日でも最高等の権威を持つと認められるネイチャー誌にも同様の内容をまとめたレポートを掲載するなど、彼の理論は、一定の科学的正当性を有するという評価を得ていたことが窺える。
一方で、それは、当時主流だった定常宇宙論を決定的に覆すには至らず、彼の唱えた膨張宇宙論は、多くの批判に(そして時には心無い中傷に)晒されることになった。
特に、師であるエディントン、そして前述した通りアインシュタインはこれに対して否定的であり、批判者は、ルメートルの「宇宙卵が創生の瞬間に爆発した」という言葉から、彼の理論を「
大きな爆発」と皮肉を込めて呼んだ。
批判が起こった理由として最も主要な原因は、宇宙卵という考え方自体が、旧態然としたアブラハムの宗教における世界創生を連想させるものであったことが大きい。
科学全盛の時代、そういった観点に容易に結び付けられる理論は、「過去への逆行」だと考える者が多かったからである。
この理論提唱を切っ掛けとして、宇宙論を論じる人々の間では、科学と信仰についての論争が長らく続くこととなる。
しかしながら、こういった混乱を巻き起こし、批判されたルメートルの宇宙卵理論は、後に意見を変えたアインシュタインによって評価されることになる。
1933年、カリフォルニア工科大学でルメートルが理論を説明していたその場にアインシュタインは同席しており、彼が理論の説明を終えると、立ち上がってそれを称賛したという。
「この理論は、これまで私が聞いてきた中で、最も美しく納得の行く説明です」、とまでこの稀代の科学者に言わしめたことは、少なからず、宇宙卵理論の評価に影響した。
同年、ルメートルが膨張宇宙論に纏わるより詳細な論文を再びブリュッセル科学会年報で発表すると、今度は、彼に対して大きな称賛が寄せられるようになった。
一部の新聞は、彼を「有名なベルギーの科学者」、「新しい宇宙物理学のリーダー」と書きたてたとも言われている。
そうした社会的評価も影響してか、アメリカ・カトリック大学の客員教授への任命や、ローマ教皇庁科学アカデミー、母国ベルギーの王立科学芸術アカデミーのメンバーへの選出など、彼は数々の栄誉を受けることになった。
1934年、ベルギー国王レオポルド3世から国内最高の栄誉であるフランキ賞を受賞する、1953年、イギリス王立天文学会から送られるエディントン・メダルの初の受賞者となるなど、多数の栄典をも受けるほど、彼の評価は高まった。
また、信仰者としても彼の評価は高く、1960年には、教会に対し多大な貢献を行ったとして、モンシニョールという敬称で呼ばれる国内高位聖職者という名誉称号を教皇に授けられている。
他方、彼は飽くまでも科学者としての態度を崩さず、キリスト教者としての信仰を堅持してはいたが、かといってそれを科学の領分に持ち込むことに対しては明確に反対していた。
1951年、当時の教皇ピウス12世は、ルメートルの宇宙卵理論が「創世記」の記述と矛盾しないことなどから、カトリックとしてそれを歓迎すると発言した。
これに対し、ルメートルは明確な遺憾の意を表し、自身の理論と信仰には如何なる矛盾もないが、同時に如何なる関係もないと述べ、教皇の科学顧問と共に教皇を説得したという。
ルメートル自身は、科学と信仰を分けて考えるべきだが、両者は両立し得る、という立場を生涯貫き通しており、それは、彼が司祭であり科学者であるという二面性を持っていたことの表れとも言えよう。
また、科学者であることに真摯であったことから、その領分を逸脱するような行為を避けていた節があり、ピウス12世の次代教皇であるヨハネ23世から、避妊に関して考える委員会への出席を求められた時は、体調不良を理由にこれを断っている。
後に科学者仲間に対し、「数学者が自分の専門分野の外に出ることは危険だと思った」と語ったことから、彼は飽くまでも、自身を信仰者にして科学者であり、それ以上でも以下でもないと自認していたことが窺える。
晩年に差し掛かると、彼は大学教授としての後進教育よりも、自身の研究により注力するようになっていった。1964年には、教授職を辞し、名誉教授となって、完全に教鞭を取る立場からは引退した。
この頃になると、彼はそれまで打ち込んできた宇宙論の他に、数値計算の分野に深い興味を示し、また熱心に関連する問題に取り組んだ。
最新鋭計算機や電子コンピュータを始めとする、時代の最先端を行く技術を積極的に導入し、代数学や算術計算での才能を見せ、コンピュータのプログラミング言語などに関心を抱くなど、老いてなおも学術に対する探究心は尽きなかった。
しかし、宇宙卵理論を証明する根拠となる宇宙マイクロ波背景放射が発見されたことを知った直後、1966年6月20日に、彼はルーヴェンで息を引き取った。
その一生を通じて、科学的探求を継続しながら、教皇にも評価されるなど、科学者と信仰者の二足の草鞋を履きながら生きた、先駆的偉業の達成者であったと言えよう。