スレイマニエ・モスク
1453年の陥落後、メフメト二世は直ちにコンスタンティノープルの再建に取り掛かった。
ローマ帝国が遺した水道やインフラを再建し、モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を建てた。
後のグランドバザールの前身となる屋根付きのバザールを始めとする商業施設を建設して都市を再興した。
また皇宮として
トプカプ宮殿の建造を開始している。この宮殿はその後も歴代の皇帝によって増築が繰り返され、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。
包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、コーン教徒や被征服者のキリスト教徒にズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリムの富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブールは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。
また、メフメト二世の治世にはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、国際的な社会を築いている。
ハギア・ソフィア・モスク(アヤソフィア)
1800年代までにイスタンブールの人口は58万人を超え、イスラム教による抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。
モスクのドーム内部
1520-1566年の
スレイマン一世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。
主要な建築家であり、後世にオスマン帝国最高の建築家と呼ばれたミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラム教の書法、オスマンの細密画が栄えた。
1517年に
オスマン家はイスラム帝国の地位を宣言して、カリフ(イスラム教最高権威者)となり、イスタンブールは現在に至るまでカリフの首都として続いている。
オリエント急行のポスター
19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であった
マフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ、この時代に金角湾に橋が架けられた。1880年代にイスタンブールはヨーロッパの鉄道網と結ばれ、1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブールへの直接乗り入れを開始している。
これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなった。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、公共事業により導入されていった。
現在ではイスタンブール大都市圏として世界都市の1つとして栄えていて、現在もオスマン帝国の首都である。