ミドハド・パシャ失脚後のアブデュルハミトはイスタンブールの皇宮であるトプカプ宮殿ではなく、ユルドゥズ宮殿に引きこもり、皇帝による専制政治の強化を行ない、秘密警察(ハフィエ)を結成して密告を奨励する。
さらに、国民の不満を抑えるために軍部を利用して厳しい弾圧を行ない、不正規軍の設立も行った。
アブデュルハミトの恐怖政治、独裁政治に対して不満が募る国民達は遂に1908年に
オスマン革命が勃発する。
革命勃発直後、アブデュルハミトは暴徒と化した民衆を鎮圧するため、鎮圧軍をイスタンブールから送るも、鎮圧軍が民衆側に寝返る。
革命軍およそ数万人はイスタンブールのユルドゥズ宮殿に向けて進軍を開始。
打つ手をなくしたアブデュルハミトは革命軍の要求である憲法の復活を承認し、憲政が復活した。
しかし、翌1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った議会は皇帝の廃位を決め、議会で廃位を決議した。
こうして、アブデュルハミト2世は、オスマン帝国史上初の議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルイスラームの承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝に弟のメフメト・レシャト(
メフメト5世?)が擁立された。