東京外国語大学の総合科目「生涯学習論」を受講している学生のフォーラムです。生涯学習の理論と実践に関心のある方なら誰でもアクセスできます。

 1、統合以前の東ドイツでは「西」に対抗する社会主義的文化政策が推進された。とはいえ、その対象となっていた文化施設は、劇場、コンサートホール、オペラ座、博物館、美術館、図書館、市民大学(成人教育)、音楽学校など西ドイツと同様の施設が多かった。つまり、ワイマール期の文化振興政策が基本的に踏襲・発展させられてきたといえよう。ところで、上記の諸施設のうち劇場から美術館までは18世紀以来の市民文化の果実というべきものである。近代市民文化の成果を公共財としてとらえ、国家(自治体)が手厚く保護してきたこと、これが東西に通底する、戦後ドイツ文化政策の特徴だといえよう。むしろ、近代市民文化の真の継承者を自認するマルクス主義国家=東ドイツにおいて、この課題はより積極的に推進されたのである。他方、図書館(公立地域図書館)、市民大学、音楽学校といった施設は19世紀後半の労働者・民衆教育運動の発展とともに展開し、それがワイマール期に公的施設として位置づけられるようになったものである。これらの施設に関しては、西ドイツでは文化施設の公営化しない自治体もかなりあるのに対し、東では完全に公立の施設とし、職員数や施設数も充実していた。
 そのなかで、西ドイツにはみられない東の典型的文化施設、それが「文化館Kulturhaus」であった(Groschopp: 97)。文化館は労働社会階級の「精神的武器製造所」として20世紀前半に広まった「民衆会館Volkshaus」の伝統を継承する社会主義的文化施設として位置づけられ、国内各地への計画的配置が進められた。壁崩壊の前年、1988年段階の統計では1838館が活動していたという(IfK:7)。統合前の旧東ドイツ人口は1600万人余であったから、人口1万人当たりの施設密度は1.15館である。日本の公民館の密度は2010年度で1.2館であるから、それにほぼ等しい施設配備がなされていたことがわかる。逆にこのような事情があったために、戦後の西ドイツでは地域センター型施設の設置に対し、特にCDUなど保守的な立場から社会主義的政策という批判があり、1980年代までは自治体の文化政策課題として位置づけることへの合意が形成されなかったのである。

2、文化館は、簡単に言えば、日本の公民館や文化会館(文化ホール)に相当する公共的地域文化センター型施設である。「全ての市民に開かれた文化施設」として「市民教育の場」、「出会いと意見交換の場」、「社交と娯楽の場」、「市民の文化・芸術的、科学・技術的、スポーツ・観光的な活動の場」をめざした(規則第3条)。規模や事業内容は多様であるが、館長を始めとする専門職員が、文化・芸術・教育・政治社会・地域振興・社交娯楽など多目的・総合的性格の事業を実施していた。住民の文化的生活の振興をめざし、利用者のクラブ(サークル)活動の場という役割を重視していた点でも、日本の公民館に類似している。「文化館はその所在地域における精神的・文化的生活のための施設」(規則第6条(1))として地域内の様々な機関、団体との協働による「社会主義的地域活動sozialistische Gemeinschaftsarbeit」が強調されていることは、社会主義的という形容を取れば、公民館と全く同一であるといえる。

3、公民館の設置は戦後、1946年に始まるが、文化館も同年にソヴィエト占領地域で設置され始めた。
文化館の源流、あるいはその形成に影響を与えたものには、上述の 嵬噂芦餞曄Volkshaus)」のほかに、▲熟型のクラブ・文化宮殿、ナチス時代の「党員の家(Kameradschaftshaus)」などがあるという(Groschopp:123-137)。これらに共通するのは、芸術(文化)至上主義を否定し、文化を社会的(政治的)発展の手段として位置づけ、そのために全民衆への文化の普及を志向する、啓蒙的・民衆教育的な活動である。これは、東ドイツでは「文化的大衆活動(kulturelle Massenarbeit)」といわれた。文化館は、社会主義的な社会・人間形成のための大衆的文化活動の場として構想されたのである。

4、文化館の設置主体は、市町村や郡など地方行政機関(これらは「公立staatlich」と総称される)だけではなく、独ソ友好協会などの「社会的組織」や企業が設置したものも多かった。
特に企業立は多数あり、設備も充実していた。しかし、1960年代には、従業員の利用が優先され、住民に対し閉鎖的であることが問題となり、その地域住民への開放とならんで地方行政当局による「公立」文化館の計画的充実が目指されるようになった。換言すれば、東ドイツ社会の都市化に伴い、労働者階級のセンターから地域文化センターへの転換が行われたのである。訳出した規則は、そのような傾向を反映したもので、企業立を対象から除外したうえで、郡文化センターを核として「公立」文化館網を拡充することが目指されている。そして1980年代を通じて、「公立」文化館数は飛躍的に増加した。
とはいえ、地方行政当局には充分な財政能力がなかったので、この増加分は大部分が、青年クラブ館という小型の若者文化施設の増加であった。これらには、ロックコンサートやディスコなど「文化事業を行う飲食店」といった趣を呈するところも多かった。

5、社会主義的文化施設として整備されてきた文化館は、それゆえに統合後は存続の危機に陥った。現在のところでは、’儡曄↓⊃涌縮小化で低調・惰性的な活動の継続、商業的興行施設化といった他に、せ毀NPO団体を運営の担い手とする新しい地域文化センターとして再生したものもある。この場合、1970年代以降旧西ドイツで「新しい社会運動」として発展してきた市民による「社会文化センターsoziokulturelle Zentren」作りがモデルになっている。

6、社会文化(Siziokultur)は、西ドイツにおいて、伝統的市民文化中心の従来の「肯定的affirmativ」な文化政策に代わる「新しい文化政策」の理念として提唱され、具体的には、社会文化センターという多目的的な地域文化センターを市民が自主的に設置・運営する運動の目標理念として追求されてきた。現在では、とくに地方自治体文化政策の文脈で、地域(Stadtteil)文化と社会文化が同義的に用いられることもある。
社会文化と地域文化は、同義ではない。けれども、社会文化を「システムによる生活世界の植民地化」(Habermas, J.)への対抗文化の試みとしてとらえるならば、地域を市民の「労働・学習・生活」の場として再構築するという課題が、その中心的課題の一つとなることはいうまでもない。社会文化センターの多くが、地域文化センターとして設立され、機能していることは決して偶然ではない。

7、「万人のための文化」「万人による文化」という文化の民主化・大衆化を主張した西ドイツの社会文化は、社会文化センターとして具体化してきた。他方、東ドイツの文化的大衆活動は文化館として結実した。文化館と社会文化センターとには、施設設備や事業プログラムを見るかぎり、地域文化センターとしての類似性がある。決定的な相違は、前者が、国家によって敗戦直後から設置されたのに対し、後者は、市民のイニシアティブで 1970年代に至って始めて設置されたということである。
現在の日本では、公民館などの公設地域文化センターの民営化(指定管理者制度など)が焦眉の課題となっている。そこで問題となるのは、文化・学習の公共性、地域文化活動の主体、地域文化の性格(生活文化、社会文化など)、地域社会への公権力の関与といった論点である。これらを考える上で、公権力による地域文化振興の積極面と否定面を同時に体現している文化館の経験の批判的検討は有益な示唆を与えるであろう。そのためには、失敗した社会主義体制の遺物として精算主義的に扱うことなく、その現実がどうであったのかを検証していく必要がある。 
参考文献
Groschopp, Horst; Kulturhäuser in der DDR. Vorläufer, Konzepte, Gebrauch. Versuch einer historischen Rekonstruktion. In; Ruben, Thomas/ Wagner, Bernd (Hrgs.): Kulturhäuser in Brandenburg. Eine Bestandsaufnahme. Potsdam 1994.
Institut für Kulturforschung beim Ministerium Kultur (IfK); Kultur in der DDR -Daten-1975-1988. Berlin 1989.

文化館の課題ならびに活動様式に関する規則
公立文化館の計画、財政、決算に関する規則

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