最終更新:ID:DKPjk2JjOA 2023年03月01日(水) 07:13:20履歴
おことわり
この記事の本文に記載されている事柄には、架空のものが含まれています。
実在する人名・地名・団体名など固有名詞が登場することもありますが、
それら各記事に記載されている事柄は実在のものとは一切関係ありません。
この記述内容に関して、 実在する関係機関への問い合わせはくれぐれもご遠慮ください。
『アップダウンクイズ』は、1963年(昭和38年)10月6日から1985年(昭和60年)10月6日まで、毎日放送(MBS)の製作によりテレビ朝日(1977年3月まではNETテレビ)系列で毎週日曜日19:00 - 19:30(JST)に放送されていた視聴者参加型クイズ番組である。
ロート製薬の単独提供(第1回放送より)、日本航空の協賛で放送された。
この番組は、毎日放送がラジオ単営局・新日本放送時代の1952年(昭和27年)から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』をベースに制作された。
- 解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り早押しクイズに挑戦し、10問正解し10段まで上り詰めるハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られた。
- クイズに正解すると解答者の乗ったゴンドラが1段上昇(アップ)、誤答するとゴンドラが一気に0まで下降(ダウン)するルールだった。
- 1963年10月6日、喜劇俳優・市村俊幸の司会、当時毎日放送アナウンサーだった小池清の出題でスタートした。
- 市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組「私はナンバーワン」の司会者でもあった。半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じく毎日放送アナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれも当時の毎日放送アナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間にわたって親しまれた。
- 1983年10月に放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)から俳優の西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。番組タイトルも「新アップダウンクイズ」に変わったが、“新”は半年で消えた(ただし、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。
- 番組の収録は、毎日放送千里丘放送センターAスタジオで行われていた。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放送)。なお末期は土曜日に収録された。ただし、1970年3月から9月に開催された日本万国博覧会に伴う関連番組制作の都合上、同年5月3日から10月18日までの放送分は東京・六本木のNETテレビ(当時、現:テレビ朝日)にて収録が行われた。
- カラー放送が行われるようになったのは1969年10月5日放送分からである。また、音声多重放送は最終回まで一貫して行われなかった。出題者は冒頭の挨拶と問題読みだけであって、朝日放送『パネルクイズ アタック25』のように賞品等の紹介は一切なかった(同じロート製薬一社提供のTBS「クイズダービー」も出題者は問題読みのみ)。
- 同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送分の39.2%(関西)、同年5月11日放送分の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。
- タイトルロゴは五荘千尋が手がけたものである(他の毎日放送制作番組も全国ネット・関西ローカル問わず多くの番組タイトルロゴを手がけている)。
- 10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、1973年11月25日放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人出て、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあったため、これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった。
10問正解の賞品が海外旅行であることから、JALが協賛していた。「♪ロート…」のオープニングキャッチ前に、19:00の時報とともにカウキャッチャーとして、JALのCM(JALPAKなど)が放映されていた。
また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 日本航空」と表示された。
- 小池が司会を務めていた時代は、テーマ音楽のあとに小池が 「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、夢の(「夢の」のフレーズは1970年ごろまでだった)ハワイへ行きましょう!ロート製薬がお送りする*1アップダウンクイズ、私は司会の小池清でございます。問題を読むのは佐々木さんです。」佐々木 「皆さん、こんばんは(お元気でいらっしゃいますか)。佐々木美絵です、どうぞよろしくお願いします」(なお、後期は「問題を差し上げます、佐々木美絵です」とアナウンス)という2人のあいさつで番組が始まった。
- オープニングテーマ曲が流れ終わると小池はゴンドラの前に立ち、上半身を画面アップ状態で挨拶をした。1979年末にオープニング曲が変更されてから、小池は司会者席に座ってあいさつをするようになった。解答者の紹介が終わると、小池時代は、「それでは、日航機によりますハワイ旅行を目指して、大いに頑張っていただきましょう!」というセリフで一問目に入った(司会が西郷になってからは「日本航空で行くハワイをめざして、皆さんしっかり頑張って下さい!」と言っていた)。
- 西郷が司会となってからは、タイトルコール・出場者紹介と結果発表のアナウンスを、当時毎日放送の新人アナウンサーだった柏木宏之が担当した(1984年3月限りで降板)。
- 西郷司会初期のオープニングはテーマ音楽のあと柏木アナによる「ロート製薬提供、(新)アップダウンクイズ! 司会西郷輝彦!」のオープニングコールに続き、客席内のゲートから西郷が入場してくる形であった。
- タイトルを元に戻してからしばらくして「ロート製薬提供、アップダウンクイズ!」という西郷のオープニングコールの後に小池と同じ登場パターンに戻している。出場者の紹介では西郷が解答者と握手する演出があったが、タイトルを元に戻してからは解答者の自己紹介に変更された。
- 西郷司会期の、スチュワーデス大会やコンパニオン大会では、解答者が最初から解答席に座らずに直立で並列する演出が取られた。
- また、次回の予告(ゲスト特集等がある回のみ)と番組終了時、当時毎日放送アナウンサーだった吉田智子による「アップダウンクイズ 第○○○回を終わります。提供は、ロート製薬でございました」というアナウンスもおなじみだった(終了時のエンドカードは、ブルーバックに「アップダウンクイズ」の白抜きタイトルロゴが右揃え(上:アップダウン、下:クイズ)でレイアウトされ、左下に白抜きで幅が狭い明朝体で“終”と書かれていた)。
- 1984年4月8日から1985年10月6日(最終回)までは、「アップダウンクイズを終わります」に変わった(後番組の「クイズ!!ひらめきパスワード」でも同様に継承された)。
- 番組のクレジットタイトルは、1970年代までは「アップダウンクイズ 終」のエンドカード前に、青地に白抜きゴシック体で「構成*堤章三 音楽*○○○○」と入るのみだったが、ゴンドラが色分けされてからは番組エンディング時にスタッフロールがナールフォントで左方向に表示されるようになった。
全国各地から毎回6人の視聴者(または特集などでペア6組[11])が解答メンバーとして出場、早押しクイズに挑戦する。見事10問正解すると、後述するファンファーレが鳴らされる中で天井(解答者席上)に吊るされたくす玉が割られて大量の紙吹雪と風船(西郷時代は大量の銀色の紙吹雪)が降る中、JALで行くハワイ旅行と賞金10万円(放送開始当初は20万円)を獲得できた。
一般参加の場合、実際には「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て各地区1人ずつ出場するケースが多かった。
1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がったが(一部の問題では2段、または3段上がった場合もある)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまい(ただし、一時期あった解答者全員参加の「三択クイズ」(サービスクイズとも言っていた)については誤答でもゴンドラ降下のペナルティーはなかった)、これを2回犯したら失格(「お出」=しおれた感じのBGM音楽も流れる)となり、画面左に設けられた失格者席に座らされた。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合(いわゆるスルー。トントンの音が10回(小池時代末期は6回)鳴った後に不正解のブザーが鳴る。西郷時代は電子音で8つの音階が上がり、電子音でブザーが鳴る(不正解時のものとは別)。)、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり、正解するとゴンドラに戻ることができた(「お戻り」=明るいファンファーレBGMが流れる)。「お戻り」になるとそれまでの不正解数はリセットされた。なお「新アップダウンクイズ」初期には「お出」・「お戻り」のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。
1度の不正解で1問正解でも9問正解でも即0点に戻ってしまう厳しいルールが特徴だったが、正誤の判定はかなり甘かった傾向になることもあった。解答についても、他の番組に比べ多少長い時間待ってもらえたり、司会者の裁量で言い直しが認められたことがあるという。なお、早とちり・お手つきをしても、問題内容によっては正解が出る前に司会者からその続きを読んで再解答させたり(答えが複数ある場合など)、関連する解答であればおまけで正解にしたこともあった。また、特に小池が司会だった時代には、このような傾向が多く見られた。とはいえ、不正解した時のダメージも大きく、特に7段階から9段階あたりで0点になると、放送時間の関係上、良い成績が残せなかった。中には、ショックのあまりに失神して最後まで解答できなかった人もいた。
さらに問題は本選・予選問わずハイレベル・難問が比較的多く、間違いが許されない真剣勝負であったのも番組の特徴である。それゆえに高度な知識はもちろん、的確さ・迅速な判断力がなければクイズを制覇できなかった。
10問正解のコツは、まず解答権を早く得るトレーニングを繰り返し練習すること、収録直前あたりの新聞に隅から隅まで目を通すこと(特に毎日放送の友好会社である毎日新聞からはスポーツ、文化関連を中心に幅広く出題されていた)、そして毎週番組を見てもらうことだと当時のプロデューサーが語っていた。
西郷時代後期(1984年-1985年1月まで)は、連続(3段階)勝ち抜き方式で、1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与された。ただし、西郷時代末期のゲスト特集は自動的にハワイ旅行・賞金10万円であった。
「10問正解=優勝」というのが挑戦したクイズプレーヤーの認識だが、実際は時間内なら何人でもハワイ旅行を獲得できるチャンスに孕んだ番組だったため、レギュラー版での優勝という制度は成立しなかった。この番組(10問正解・ハワイ旅行獲得)と同じくテレビ朝日の「クイズタイムショック」(パーフェクト達成)、フジテレビの「クイズグランプリ」(チャンピオン大会優勝)での3つのクイズ番組を制した挑戦者は、いわゆる「三冠王」、「クイズ荒らし」といわれた。また、「クイズマニア」と言われるきっかけも作った。
出場者募集の宛先は毎日放送宛てではなく、ロート製薬の本社がある大阪生野局宛てだった。また、クイズ荒らし防止の観点から、一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。
一般参加の場合、実際には「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て各地区1人ずつ出場するケースが多かった。
1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がったが(一部の問題では2段、または3段上がった場合もある)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまい(ただし、一時期あった解答者全員参加の「三択クイズ」(サービスクイズとも言っていた)については誤答でもゴンドラ降下のペナルティーはなかった)、これを2回犯したら失格(「お出」=しおれた感じのBGM音楽も流れる)となり、画面左に設けられた失格者席に座らされた。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合(いわゆるスルー。トントンの音が10回(小池時代末期は6回)鳴った後に不正解のブザーが鳴る。西郷時代は電子音で8つの音階が上がり、電子音でブザーが鳴る(不正解時のものとは別)。)、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり、正解するとゴンドラに戻ることができた(「お戻り」=明るいファンファーレBGMが流れる)。「お戻り」になるとそれまでの不正解数はリセットされた。なお「新アップダウンクイズ」初期には「お出」・「お戻り」のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。
1度の不正解で1問正解でも9問正解でも即0点に戻ってしまう厳しいルールが特徴だったが、正誤の判定はかなり甘かった傾向になることもあった。解答についても、他の番組に比べ多少長い時間待ってもらえたり、司会者の裁量で言い直しが認められたことがあるという。なお、早とちり・お手つきをしても、問題内容によっては正解が出る前に司会者からその続きを読んで再解答させたり(答えが複数ある場合など)、関連する解答であればおまけで正解にしたこともあった。また、特に小池が司会だった時代には、このような傾向が多く見られた。とはいえ、不正解した時のダメージも大きく、特に7段階から9段階あたりで0点になると、放送時間の関係上、良い成績が残せなかった。中には、ショックのあまりに失神して最後まで解答できなかった人もいた。
さらに問題は本選・予選問わずハイレベル・難問が比較的多く、間違いが許されない真剣勝負であったのも番組の特徴である。それゆえに高度な知識はもちろん、的確さ・迅速な判断力がなければクイズを制覇できなかった。
10問正解のコツは、まず解答権を早く得るトレーニングを繰り返し練習すること、収録直前あたりの新聞に隅から隅まで目を通すこと(特に毎日放送の友好会社である毎日新聞からはスポーツ、文化関連を中心に幅広く出題されていた)、そして毎週番組を見てもらうことだと当時のプロデューサーが語っていた。
西郷時代後期(1984年-1985年1月まで)は、連続(3段階)勝ち抜き方式で、1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与された。ただし、西郷時代末期のゲスト特集は自動的にハワイ旅行・賞金10万円であった。
「10問正解=優勝」というのが挑戦したクイズプレーヤーの認識だが、実際は時間内なら何人でもハワイ旅行を獲得できるチャンスに孕んだ番組だったため、レギュラー版での優勝という制度は成立しなかった。この番組(10問正解・ハワイ旅行獲得)と同じくテレビ朝日の「クイズタイムショック」(パーフェクト達成)、フジテレビの「クイズグランプリ」(チャンピオン大会優勝)での3つのクイズ番組を制した挑戦者は、いわゆる「三冠王」、「クイズ荒らし」といわれた。また、「クイズマニア」と言われるきっかけも作った。
出場者募集の宛先は毎日放送宛てではなく、ロート製薬の本社がある大阪生野局宛てだった。また、クイズ荒らし防止の観点から、一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。
- 1967年2月26日放送分から登場。番組の目玉コーナーといわれ、最終回まで続いた。これはかつてNHKで放送された『私の秘密』、『それは私です』のコンセプトを取り入れたものといえる。なお当初は「ゲストクイズ」という名称だった。ゲストをシルエットで見てもらい、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がった。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになった。
- ゲストは歌手・俳優・タレントなどの芸能人、プロ野球選手・大相撲の力士・プロボクサーなどのプロスポーツ選手、その他政治家や作家・評論家・芸術家・漫画家など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。ただし、スポンサーがロート製薬一社だった関係から、放送当時に同業他社の広告に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。
- 当初は中CM明けに行われており、開始音楽やテロップは無かったが、1975年頃(推定)からセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる(構成は上に「シルエット」、下に「クイズ」)。そして西郷時代には、中CM手前に移動、ジングルを一新し、シルエットをバックにテロップが出る様になった(構成は右上がり一直線に「シルエットクイズ」)。また小池時代は、ジングル→説明→問題という順番だったが、西郷時代は説明→ジングル→問題という順番になり、説明は小池時代よりも少なくなった。一時期このクイズの正解者にはゲストからゲスト賞が進呈されていた。
シルエットクイズと同時期に登場。ボーナスクイズの一つで、毎回ゲスト本人から出題された。正解するとゴンドラが2段上がった。
当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。
ちなみにゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するという流れは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。
当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。
ちなみにゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するという流れは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。
1966年8月7日放送分から実施。画像を見ながら答えるもので、2問出題(この問題のみ問題を読み上げる出題者の顔を見ることができた)。
1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てた。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。
1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てた。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。
「最近のヒット曲」、「今の季節にふさわしい曲」など、テーマを決めて3問出題された。ほとんどは曲の「題名」を答えるものだったが、歌謡曲を「歌っている人」、あるいは「作曲者」や「歌詞の続き」を答えることもあった(1問目は「題名」、2問目は「歌っている人」、3問目は「作曲者」を答えるということもあった)。
西郷時代は「サウンドクイズ」と言うタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に音楽に戻っていた。 また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。
西郷時代は「サウンドクイズ」と言うタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に音楽に戻っていた。 また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。
1975年10月12日放送分から設けられた。出場者の居住地にまつわる話題にちなんだ問題が出されるが、解答権は全員にあった。ゴンドラが灰緑1色時代は後半に行われたが、色分けされてからは前半に出題された。
小池時代末期にあった、小学生視聴者からの投稿クイズ。当然ながら、クイズは小学生レベルの問題だった。投稿者には、番組特製の置時計(左に時計、右には番組セットのミニチュア)がプレゼントされた。なお問題読み上げは、当初は投稿者の肉声だったが、後に佐々木出題者が読み上げるようになった。
西郷時代後期に登場。「目で見るクイズ」の発展形というべきもので、1枚のイラストが、しりとりで次に続く名前の違うイラストへ段階的に変化していくので、何に変化していくのかを当てる。2問出題。
西郷時代からスタートした、ボーナスクイズの1つであり、従来の「ラッキークイズ」をパワーアップしたもの。当初は「ラストファイブ」のタイトルになっていた。
残り5問になると電子音が鳴り、ゴンドラ後方の電飾がスクロールした。
解答者がボタンを押すとスクロールが止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が止まったらドアチャイムが鳴ってシンクロ(ボーナスチャンス)となり、後方(壁)の電飾が赤くなった(通常は青)。また、暗転で始まっていた頃はOPテーマ曲に合わせて青⇒赤⇒黄と変化し、スタジオが明るくなると青に戻った。シンクロした状態で正解すると2段上がり、シンクロしない場合は1段上がった。この時の最終問題は2択形式だった。
残り5問になると電子音が鳴り、ゴンドラ後方の電飾がスクロールした。
解答者がボタンを押すとスクロールが止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が止まったらドアチャイムが鳴ってシンクロ(ボーナスチャンス)となり、後方(壁)の電飾が赤くなった(通常は青)。また、暗転で始まっていた頃はOPテーマ曲に合わせて青⇒赤⇒黄と変化し、スタジオが明るくなると青に戻った。シンクロした状態で正解すると2段上がり、シンクロしない場合は1段上がった。この時の最終問題は2択形式だった。
(番組スタートから1979年12月16日放送分まで)
- \1,000
- \2,000
- \3,000
- \4,000
- \5,000
- \10,000
- \20,000
- \40,000
- \80,000
- \100,000
(1979年12月23日放送分から1983年9月まで)
- \5,000
- \10,000
- \15,000
- \20,000
- \25,000
- \30,000
- \40,000
- \60,000
- \80,000
- \100,000
(1983年10月から1984年9月まで)
- 5千円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。
- 1万円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。
- 王貞治 - 1965年4月4日(プロ野球選手特集)放送回で、著名人初の10問正解を成し遂げた。
- 大橋巨泉 - 後に同じロート製薬提供の『お笑い頭の体操』→『クイズダービー』の初代司会者と「新パンシロン」のCMキャラクターに起用。また、NETテレビの広報誌である「テレビ・メイト」(1969年8月号)にこの回のスチール写真が掲載されている。
- 立川談志 - 1975年4月6日(600回記念、タレントクイズ天狗特集(ほかには長門裕之(1枠)、ロイ・ジェームス(2枠)、勝呂誉(3枠)、内海好江(5枠)、牟田悌三(6枠)が出演。談志は4枠)。この回のシルエットゲストは佐藤寛子 (首相夫人) (2枠のロイが第1ヒントで正解)。また、2011年11月26日、『知っとこ!』の立川談志死去のニュースで、10問目でハワイを獲得する場面が放送された。
- フランキー堺
- 三笑亭夢楽・春風亭柳朝 - 落語家ペア特集で。
- 宝田明
- 武田鉄矢
- 谷村新司 - 1974年7月に放送。その週の水曜日に文化放送のレギュラー番組『セイ!ヤング』宛てに沢山の祝電が寄せられた。
- 野田佳彦 - 早稲田大学時代の1977年にハワイ旅行を獲得したことを、首相就任後のホノルル訪問の際に明かした。
- 太川陽介 - 1977年11月の「新人歌手大会」で。
- 浜村淳 - 1979年10月7日の「16周年記念・クイズ番組司会者特集」で。『パネルクイズ アタック25』でも優勝して画当てを正解し、パリ旅行を獲得した。
- 渡辺文雄 - 浜村と同じく「クイズ番組司会者特集」で。翌年「新パンシロン」の初代CMキャラクターに起用)
- 前田忠明 - 1981年5月17日放送の「900回記念・レポーター特集」で。
- モンキー・パンチ - 1979年4月8日の「新高校生特集」ではシルエットゲストとして出演。
- 龍虎 - 1980年11月16日の「元プロスポーツマン特集」で、出題13問目で10問達成。
- 西川のりお・上方よしお - 1980年12月28日の「年忘れ漫才特集」で。
- ザ・ぼんち - 1981年12月27日放送の「年忘れ漫才特集」で。1984年1月3日の「新春スペシャル」(西郷時代)ではぼんちおさむが川島なお美とペアで出演。
- 蟇目良 - 1978年4月30日にはシルエットゲストとして出演。
- 湯原昌幸 - 1983年1月3日放送の「亥年ペア勢ぞろい」特集で。
- キャシー中島 - 「私のふるさとハワイよ」と語った。
- ミスター梅介
- 佐良直美 - 1982年4月4日の「女性歌手特集」で。
- 和田アキ子 - 佐良と同じく「女性歌手特集」で。
- 石川さゆり - 1983年4月3日の「女性歌手特集」で。
- 西岸良平 - 「漫画家大会」。
- 森本栄浩(毎日放送アナウンサー、当時は関学大生) - 1982年
1966年より毎年の年初め放送は、芸能人大会を始めとする「正月特集」を放送していた。1978年までは通常枠で放送していたが、1979年以降は通常枠か別枠かのどちらかとなった。
- 東京六大学タレント特集(1966年1月2日) - 解答者は青島幸男(早稲田大学)、小泉博(慶應義塾大学)、石濱朗(立教大学)ほか。
- 新春夫婦特集(1967年1月1日) - 初の元日放送。解答者は大島渚・小山明子夫婦、沢本忠雄・白木万理夫婦、近藤昭仁(当時大洋内野手)・北沢典子夫婦ほか。1967年は平年ゆえに12月31日(大晦日)も日曜となったため、同日には「大学生大会」を放送。「元日」と「大晦日」に放送されたのはこの年が唯一である。
- ゲスト大会(1968年1月7日、1969年1月5日) - 前者は日野てる子、長門裕之、永井秀和ら、後者は一龍斎貞鳳、多々良純、砂塚秀夫、山本學らが出場。
- 新春ゲスト大会(1970年1月4日) - 四代目桂米丸[要曖昧さ回避]、渡哲也、宮城千賀子ほか。
- 新春ホープ大会(1971年1月3日) - 島本講平(南海ホークス入団直後)、輪島博(新入幕確定直後。後の第54代横綱・輪島大士)、四代目柳家小せんほか。
- 新春夫婦大会(1972年1月2日、1973年1月7日) - 前者は宍戸錠夫婦、仲宗根美樹夫婦ほか(後者不明)。
- 兄弟大会(1974年1月6日)
- 新春ホープさん大会(1975年1月5日) - 解答者は片岡孝夫(後の十五代目仁左衛門)、桂枝雀ほか。
- 新春日本のこころ特集(1976年1月4日)
- 新春日本の武道特集(1977年1月2日)
- 新春俳優大会(1978年1月1日) - 11年振りにして最後の元日放送。解答者は江守徹、横内正ほか。
- 新春ひつじ年親子大会(1979年1月2日) - 同じ未年である1967年生まれの少年少女が親子でペアを組み、2部構成でクイズに挑戦。番組史上初の1時間枠かつ初の別枠放送。なお1時間番組ではあるが、一貫してロートが提供した。
- 新春サル年大会(1980年1月6日) - モンキー・パンチほか。
- プロ野球スペシャル 12球団オールスター戦(1981年1月4日) - 放送は日曜ながらも、15:30 - 16:30で放送。10問正解達成チームは出なかった。
- 熟年イヌ年タレント特集(1982年1月10日) - この年は正月特番が多く、初回放送が唯一松の内を超えて、4年振りの通常枠での放送となった。解答者は坂上二郎ほか。
- 亥年ペア勢ぞろい(1983年1月3日) - 月曜17:00 - 17:30で放送。小池アナ最後の正月特集。
- 新春スペシャル ネズミ年タレント大会(1984年1月3日) - 火曜17:00 - 17:30で放送。西郷体制では初の正月特集で、「新」では唯一。解答者は石橋正次、斉藤ゆう子、東八郎夫婦、倉田まり子、川島なお美、ぼんちおさむ、藤巻潤、高橋元太郎ほか。
- 個性派女性タレント大会(1985年1月6日) - 最後の正月特集で、通常枠で放送された。
小池司会の末期である1980年代に入ると、20周年を迎えた1983年に朝日放送のクイズ番組『世界一周双六ゲーム』が全国ネット化の上でこの番組と同じ放送時間を移動し裏番組となった。純粋にクイズを楽しむ視聴者層は引き続きこの番組を視聴していたが、変化を好む視聴者層はゲーム性も高い番組である『世界一周双六ゲーム』に移っていった。その影響で急速に視聴率は低下したため、同年秋改編で番組内容のリニューアルを行った。
まず、初代出題者と2代目司会者として20年担当した小池が勇退して西郷に交代。次いでゴンドラをはじめセットを豪華に変え、番組名も『新アップダウンクイズ』に改めるとともに、一部のルールを変更した。ところが、これが裏目に出てしまい、視聴率は回復するどころか逆に悪化の一途を辿った。
これにより1984年4月以降はルールを「シンクロクイズ」を除いて元に戻した。しかし、これらのリニューアルを施しても『世界一周双六ゲーム』に移っていった視聴者を取り戻すことはできず、視聴率の下降に拍車が掛かり、1985年に入ると特別番組やプロ野球中継などに差し替えられる週が目立つようになった。
そんな中、番組開始からハワイ旅行の協賛スポンサーだった日本航空が、1985年8月12日に国内で史上最多・単独機での事故世界最悪の犠牲者を出す墜落事故(日本航空123便墜落事故)を起こした事からスポンサーとしてのイメージダウンとなり、事実上協賛継続が不可能となった事を受けて斎藤守慶社長(当時)が終了を決断せざるを得なくなった。同年6月に就任したばかりの斎藤にとっては、社長としての最初の大仕事が当番組の終了決定となった。
そして1985年10月6日放送の「22年間ありがとう!!シルエット大会」をもって、22年・1084回で終了した。番組最終回放送日は第1回放送日(1963年)と同じ10月6日だった。
『アップダウンクイズ』で22年間に出題された問題は50000問以上にのぼり、総出場者数延べ6500人、そして延べ680人のハワイ旅行・アメリカ西海岸旅行獲得者を出した。またシルエットゲストを務めた人は延べ840名にのぼった。最終回エンディングでは、誰もいなくなったスタジオを背景に、「22年の記録」と称した字幕スーパーが上向き・横文字ロールにて表示された。
翌週10月13日からは、この番組と同じくロート製薬一社提供の『クイズ!!ひらめきパスワード』が開始。初代司会者(出題も兼務)は同局アナウンサーの野村啓司が担当した。末期にはロートを含む複数社提供となり、1992年3月29日まで継続した。そして1994年10月、日曜19時枠は32年ぶりにキー局・テレビ朝日の製作枠となり、『クイズ庭付き一戸建て』がスタートした。
初代出題者と2代目司会者を担当した小池は、番組終了から26年半後の2012年4月28日に、80歳で永眠した。翌日(4月29日)の『毎日新聞テレビ夕刊』と5月1日の『ちちんぷいぷい』(小池が前年9月末まで水曜日のコーナーナレーターを担当、いずれも関西ローカルのテレビ番組)では、小池の訃報を伝える際に、当番組「15周年記念全国大会・決勝大会」の冒頭映像を流した。
まず、初代出題者と2代目司会者として20年担当した小池が勇退して西郷に交代。次いでゴンドラをはじめセットを豪華に変え、番組名も『新アップダウンクイズ』に改めるとともに、一部のルールを変更した。ところが、これが裏目に出てしまい、視聴率は回復するどころか逆に悪化の一途を辿った。
これにより1984年4月以降はルールを「シンクロクイズ」を除いて元に戻した。しかし、これらのリニューアルを施しても『世界一周双六ゲーム』に移っていった視聴者を取り戻すことはできず、視聴率の下降に拍車が掛かり、1985年に入ると特別番組やプロ野球中継などに差し替えられる週が目立つようになった。
そんな中、番組開始からハワイ旅行の協賛スポンサーだった日本航空が、1985年8月12日に国内で史上最多・単独機での事故世界最悪の犠牲者を出す墜落事故(日本航空123便墜落事故)を起こした事からスポンサーとしてのイメージダウンとなり、事実上協賛継続が不可能となった事を受けて斎藤守慶社長(当時)が終了を決断せざるを得なくなった。同年6月に就任したばかりの斎藤にとっては、社長としての最初の大仕事が当番組の終了決定となった。
そして1985年10月6日放送の「22年間ありがとう!!シルエット大会」をもって、22年・1084回で終了した。番組最終回放送日は第1回放送日(1963年)と同じ10月6日だった。
『アップダウンクイズ』で22年間に出題された問題は50000問以上にのぼり、総出場者数延べ6500人、そして延べ680人のハワイ旅行・アメリカ西海岸旅行獲得者を出した。またシルエットゲストを務めた人は延べ840名にのぼった。最終回エンディングでは、誰もいなくなったスタジオを背景に、「22年の記録」と称した字幕スーパーが上向き・横文字ロールにて表示された。
翌週10月13日からは、この番組と同じくロート製薬一社提供の『クイズ!!ひらめきパスワード』が開始。初代司会者(出題も兼務)は同局アナウンサーの野村啓司が担当した。末期にはロートを含む複数社提供となり、1992年3月29日まで継続した。そして1994年10月、日曜19時枠は32年ぶりにキー局・テレビ朝日の製作枠となり、『クイズ庭付き一戸建て』がスタートした。
初代出題者と2代目司会者を担当した小池は、番組終了から26年半後の2012年4月28日に、80歳で永眠した。翌日(4月29日)の『毎日新聞テレビ夕刊』と5月1日の『ちちんぷいぷい』(小池が前年9月末まで水曜日のコーナーナレーターを担当、いずれも関西ローカルのテレビ番組)では、小池の訃報を伝える際に、当番組「15周年記念全国大会・決勝大会」の冒頭映像を流した。
- 田中正史(開始-1975.12) - 当初はブラス系だったが、後に(時期は不詳)オーケストラに近い曲調となった。
- 南安雄(1976.1-1979.2) - ゴンドラ背後のロート製品名が無くなってから使われ始めた。オープニング/エンディングテーマはブラス系、シルエットクイズ開始のジングル音や10問正解時のファンファーレはオーケストラ調。「目で見るクイズ」のシンギング時のBGMや、「お戻り」のジングル音にもオープニングのアレンジが使われた。
- 宇崎竜童(1979.3-11) - シンセ系。
- 田中正史(1979.12-1983.9) - ゴンドラの色分けと同時に変更され、小池司会の最終日まで使用。初代テーマのリニューアル版でオーケストラ調。オープニングでは冒頭にティンパニのロールがある。小池の出場者紹介後の「ハワイ旅行めざして…」と述べた後にもジングル音が入った。シルエットクイズ開始のジングル音は行進曲のファンファーレに近い。
- 中川昌(1983.10-最終回) - ブラス系。後に「お出・お戻り」ルールの復活に伴い、オープニングテーマのみ変更された(シンセ+ブラス系)。
- 構成:堤章三・福岡秀広、杉本士郎、三田村明彦(堤以外の3人は「新-」より加入)
- ディレクター:大北明、梅本史郎、小川智、浦川雅至、尾嶋啓憲
- プロデューサー:米田剛 → 信太正行 → 金子俊彦 → 柳川正邦
- ナレーション:柏木宏之(毎日放送アナウンサー・「新」のみ半年間担当)
- 技術:眞田昌輔 → 三浦邦彦 → 小泉博
- 美術:喜多忠嗣 → 川口勤 → 高橋輝光
- 製作著作:毎日放送
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
近畿広域圏 | 毎日放送 (MBS) | テレビ朝日系列 | 製作局 |
関東広域圏 | テレビ朝日 (ANB) | 現・テレビ朝日 (EX) 1977年3月までは日本教育テレビ (NET) | |
北海道 | 北海道テレビ (HTB) | 1975年4月から | |
宮城県 | 東日本放送 (KHB) | 1975年10月から | |
山形県 | 山形放送 (YBC) | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 1980年4月から |
福島県 | 福島放送 (KFB) | テレビ朝日系列 | 1981年10月から |
新潟県 | 新潟テレビ21 (NT21) | 現・UX 1983年10月から | |
静岡県 | 静岡けんみんテレビ (SKT) | 現・静岡朝日テレビ (SATV) 1979年7月から 1979年6月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 | |
中京広域圏 | 名古屋放送 (NBN) | 現・名古屋テレビ(メ〜テレ) 1964年10月から1966年9月まで、1973年4月から 1973年3月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 | |
広島県 | 広島ホームテレビ (UHT) | 現・HOME 1975年4月から | |
岡山県 | テレビ岡山 (OHK) | フジテレビ系列 テレビ朝日系列 | 現・岡山放送 当時の免許エリアは岡山県のみ 1970年11月8日から1975年3月30日まで*2 |
香川県 ↓ 香川県・岡山県 | 瀬戸内海放送 (KSB) | テレビ朝日系列 | 1979年3月までの免許エリアは香川県のみ 1969年4月の開局から1969年10月5日まで 1975年4月から |
山口県 | 山口放送 (KRY) | 日本テレビ系列 | 関門局のみ 1963年10月から1964年9月まで 徳山本局では1975年4月から1985年10月までの遅れネット。 |
福岡県 | 九州朝日放送 (KBC) | テレビ朝日系列 | 1964年10月から |
鹿児島県 | 鹿児島放送 (KKB) | 1982年10月から |
*遅れネット局のほとんどは1週遅れの日曜14時からの放送。
なお、後述のTBS系列局やフジテレビ・日本テレビ系列局にも本番組を遅れネット番組として放送した局がある可能性がある。これは当時のNET(ANN)系列のフルネット局が毎日放送、NETテレビ、九州朝日放送、更には1970年代のUHFの割り当てにより新規に開局した北海道テレビ放送(HTB 後述の理由からネットしていなかった)や、1973年の変則クロスネットからの整理・統合を行った名古屋テレビなどごく少なく、地方ではクロスネット局としての並列加盟か、ANNに加盟していなくても番組販売扱いや個別交渉によるスポンサードネット扱いとして放送していた局が多数あったためである。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
青森県 | 青森テレビ(ATV) | TBS系列 | |
岩手県 | テレビ岩手(TVI) | 日本テレビ系列 | 1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局 |
宮城県 | 宮城テレビ放送 (MTB) | テレビ朝日系列 日本テレビ系列 | 1975年4月から9月まで。「東リ・クイズ・イエスノー」の後番組として日曜 15:45 - 16:15の遅れネット |
福島県 | 福島中央テレビ(FCT) | 1981年9月まで | |
山梨県 | テレビ山梨(UTY) | TBS系列 | 1980年3月打ち切り |
新潟県 | 新潟放送(BSN) | TBS系列 | 1981年3月まで |
新潟総合テレビ(NST) | フジテレビ系列 テレビ朝日系列 | 1981年4月から1983年9月まで | |
長野県 | 長野放送(NBS) | フジテレビ系列 | 1980年9月まで |
テレビ信州(TSB) | テレビ朝日系列 日本テレビ系列 | 1980年10月から | |
静岡県 | テレビ静岡(SUT) | フジテレビ系列 | 1975年4月から1979年3月まで。「東リ・クイズ・イエスノー」の後番組として放送 |
富山県 | 富山テレビ放送(T34) | 遅れネット | |
石川県 | 石川テレビ放送(ITC) | ||
福井県 | 福井テレビジョン放送(ftb) | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビジョン放送(NKT) | 日本テレビ系列 | |
山口県 | 山口放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 1978年9月までは日本テレビ系列単独加盟局 |
愛媛県 | テレビ愛媛(EBC) | フジテレビ系列 | 1975年4月から。「東リ・クイズ・イエスノー」の後番組として月曜18時からの遅れネット |
高知県 | テレビ高知 | TBS系列 | |
長崎県 | テレビ長崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 | |
熊本県 | テレビ熊本 | フジテレビ系列 テレビ朝日系列 | |
大分県 | 大分放送 | TBS系列 | 遅れネット |
宮崎県 | テレビ宮崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | |
鹿児島県 | 南日本放送 | TBS系列 | 1982年9月まで |
沖縄県 | 沖縄テレビ放送(OTV) | フジテレビ系列 |
なお、後述のTBS系列局やフジテレビ・日本テレビ系列局にも本番組を遅れネット番組として放送した局がある可能性がある。これは当時のNET(ANN)系列のフルネット局が毎日放送、NETテレビ、九州朝日放送、更には1970年代のUHFの割り当てにより新規に開局した北海道テレビ放送(HTB 後述の理由からネットしていなかった)や、1973年の変則クロスネットからの整理・統合を行った名古屋テレビなどごく少なく、地方ではクロスネット局としての並列加盟か、ANNに加盟していなくても番組販売扱いや個別交渉によるスポンサードネット扱いとして放送していた局が多数あったためである。
- 「アップダウンクイズ」 (二見書房発行・サラブレッドブックスシリーズ)1978年11月発行・新書判。番組放送15周年を記念しての出版で、表紙には当時のゴンドラを背景に小池・佐々木コンビの写真があり、サブタイトルとして「35000題から選び抜いたハイレベルの2000題…」と書かれている。問題集本編は、番組担当者のアドバイスから始まって、予選問題、放送された15年間の出来事を背景にした問題、番組の各クイズコーナーを元にした「トレーニング編」、そして繰り返し挑戦して実戦力を身につけられる「チャレンジ編」で構成されている。現在は絶版で古書店にもほとんど出回らず、入手は難しくなっている。国立国会図書館で閲覧可能。
- 社史「毎日放送の40年」1991年発行、「毎日放送50年史」2001年発行(いずれもA4判・非売品)前者は開局40周年、後者は50周年を記念して発行された社史で、全国の都道府県立図書館で閲覧可能。「毎日放送50年史」の付録であるDVD-ROMには、1975年4月6日(第600回)放送分のハイライトシーンが収められている。
- 「放送の世界に生きて」風詠社発行 2009年6月発行、「アップダウンクイズ」を長年担当してきた金子俊彦が、自身と放送とのかかわりを記述した内容で、「アップダウンクイズ」の思い出や構成者堤章三との思い出が書かれている。
いずれもタカラ(現・タカラトミー)から1980年〜1982年頃に発売。
- スクールパンチ アップダウンクイズゲーム:ボードゲーム。解答者枠が4枠までしかなかった。
- アップダウンクイズゲーム:パッケージには松下進のイラストが描かれている。こちらは解答者枠が6枠まであった。
- クイズ番組
- 近鉄パールクイズ - 新日本放送(現・毎日放送)で放送されていたクイズ番組。この番組で培ったノウハウが後に当番組に活かされた。
- クイズ!!ひらめきパスワード - 後番組。当番組同様、素人参加時代の半年間は賞品のハワイ旅行は日本航空が協賛していた。
- ズバリ!当てましょう - フジテレビ系列で放送されていた泉大助司会のクイズ番組。こちらも高額商品(松下製家電製品一式)が賞品であったため、主婦を中心に出場希望者が殺到していた。なお、泉は「クイズ番組司会者特集」で解答者として当番組にゲスト出演している。
- 日本の高度経済成長期
- 日本航空123便墜落事故
毎日放送をはじめとするNET→テレビ朝日系列 日曜19:00 - 19:30 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
私はナンバーワン (1962年1月28日 - 1963年9月29日) | アップダウンクイズ (1963年10月6日 - 1985年10月6日) | クイズ!!ひらめきパスワード (1985年10月13日 - 1992年3月29日) |
タグ
コメントをかく